鏡の中の世界の人間に人格はあるか?
――暗闇の中。
佐伯一美は目を覚ました。そこが何処なのかはまるで分からなかった。光以前に、視覚という概念そのものがないように思えた。或いは、光を知らない人間の感覚とはこのようなものなのかと想像をする。
身体を動かそうとしたが、酷く狭くて思うように動かせなかった。
狭い?
否、彼女はそれも違っている気がした。視覚と同じで空間の概念そのものがその場所からは欠落しているように思えたのだ。“言葉だけで自分が存在している”とでも表現するのが一番適切かもしれない。
なんなのだろう? と彼女は思案する。そんな場所に自分が閉じ込められる心当たりが彼女にはまるでなかった……
彼女は医療の専門家で、コンピュータ科学者達と協力し合う事で、あるプロジェクトを成功させようとしているところだった。もし自分が狙われたのだとすればその件くらいしか考えられないが、それにしてもただ閉じ込めておくだけでは無意味である。何故、犯人は何のアクションもして来ないのだろう?
――ジェイムズ・マリオン・シムズは「産婦人科学の父」とまで呼ばれる著名な医師だが、その功績の少なくとも一部は、自身の女奴隷アナーチャに対する人体実験のお陰だった。世界で初めて全身麻酔を成功させたのは、日本の江戸時代の華岡青洲という医師だったと言われているが、その成功の影には彼の母親と妻に対して行った人体実験があった。
その他、人類の科学の発展の影には非人道的とも言える様々な人体実験があった事は否定できないだろう。そして、それら実験を必要悪と捉えるべきなのかどうかは分からないが、それにより数多くの人々が救われて来た事もまた事実である。
これは科学が抱える大いなるジレンマと言って良いだろう。果たして、人間社会は人体実験を認めるべきなのだろうか?
「人権思想を持ち出すまでもなく、そういった人体実験は、人道的見地からも慎重にせざるを得ず、実施については厳重に制限をするべきです。
――この点については、多くの方々に賛同していただけるものと考えています」
医療科学のシンポジウム。
佐伯一美は、壇上の上で演説をしていた。彼女の発表に数多くの研究者達が真剣に耳を傾けている。
彼女は今まだにない斬新で画期的な実験システムをそこで発表していたのだ。
「ですが、科学技術の発展の為には、人体実験が必要である点もまた事実なのです。ですから、私達は考えました。それならば、コンピュータ・シミュレーションの世界で、人体を再現し、その人体に対して実験を行えば良いのではないか?と。
現実世界をコンピュータ内に再現した空間をミラーワールドと呼びますが、これはそのミラーワールドで実験を行おうという事でもあります」
彼女の発言が終わると同時に拍手が起こり、それが終わると質問タイムに入った。いくつかの専門的な質問の後に記者が手を挙げる。彼はポピュラーサイエンスのライターではあるが素人だった。彼女は軽く笑顔を見せる。無意識に彼を馬鹿にしてしまっていたのかもしれない。
「ミラーワールドに構築した人間に対して実験を行うと言いましたが、その人間の人権は考えないのですか?」
その記者の質問に彼女は肩を竦める。
「どんなにリアリティがあっても、相手はコンピュータ内に生じたデータとプログラミングの表象に過ぎません。人権を考えるのは馬鹿馬鹿しい発想です。ゲームの中のモンスターに同情をする人間はいません」
「でも、人間を再現しているのだから、苦痛だって感じるのでしょう?」
「データとしてはそういう変化は生じるだろうと思います。ただ、それは飽くまでデータであって意識があって苦しむ訳ではありませんよ」
「“人間”をありのまま、コンピュータ内に再現しているのに意識がないのですか?」
「意識の情報統合理論によれば、コンピュータは意識を持たないとされています」
「でも、それは仮説に過ぎませんよね? それに、“コンピュータ”と“コンピュータ内の人間”は正確には別であるはずです」
そこで彼女は言葉を詰まらせた。
「この議論はナンセンスです。コンピュータ内の人間は単なるデータに過ぎません。
それに安心してください。このシステムを用いる被験者の第一号は、私自身を考えていますから」
そこで彼女は会話を切り上げようとした。がしかし、記者は言葉を止めない。
「正確には、被験者はあなたの人格をコピーした存在であってあなた自身ではありませんよね? つまり、もし苦しむのだとしても、それはあなたではない」
「そうですけど、まずはやってみないと何も始まりません」
「少なくとも、初めは人道的な実験から始めるべきです」
彼女は彼の主張を「それでは、ミラーワールドを使う意味がありません」と相手にしなかった。目立った成果を上げる為には、現実では決して人間に対しては行えないような実験を行う必要があったからだ。プロジェクトを軌道に乗せる為には、まだまだ資金が不足していた。各業界にアピールをしなくてはならない。
結局、彼女はその記者の主張をほとんど無視をする形で押し切ってしまった……
――暗闇の中。
不気味な気配を彼女は感じた。
五感以外の何かが、彼女に恐怖を与えていた。それが何かは分からなかったが、徐々に明確なリアリティを持ち始めた。
不意に想像をする。
……もしかしたら、ここはミラーワールドの中なのじゃないか?
そう想定するのなら、光の概念も空間の概念もないこの場所を説明できる気がする。犯罪者達には、このような場所を創り出す事はできないだろうしそもそもその必要もない。
――ならば、
自分はコンピュータ内に再現された佐伯一美のコピー人格であるはずだ。そしてそれが事実であるのなら、これから自分は人体実験の題材にされてしまうはずだ。
やがて身体があるのなら、腹であるだろう辺りに熱を感じた。しかもどんどん熱くなっていく。そこで彼女は思い出した。ミラーワールドのコピー人格を使って、自分達は人体が耐えられないような熱を与え続けたら、どんな変化が人間の脳に生じるのかを実験する予定だったのだ。
現実の身体では、神経が焼けて感じられない程の熱を人体に与えたらどうなるのか?
――そんな! 冗談じゃない!
彼女はなんとか逃げようとした。暴れようと手足を動かす。しかし、そもそも空間と呼ぶべきものがそこに存在しているのかも分からないのだ。意味があるとは思えなかった。データとしての身体、データとしての人格、データとしての意識。
暴力を加え続けられたなら、現実の人間なら死ねるだろう。否、仮に死ななくても意識を失って苦痛からは逃れられる。だが、“ミラーワールド内のデータ”に過ぎない彼女には、それすらもできなかった。
否、そういう風に設定されていた。
現実では行えない、非現実的で非人道的な実験を行うからこそこのプロジェクトには意味があるからだ。
――誰か助けて!
彼女は叫んだ。
だが、その叫び声すらも、この空間内ではただのデータに過ぎなかった。何の意味もない。
こんな酷い事が認められて良いはずがない!
一体どうしてコンピュータ内の人格に意識がないなんて事が言えるんだ? 誰も確かめた事なんてないのに!
そろそろこういう問題も考えないといけない時代になって来たような気がします