夏の夜の誕生日には優しいキスを
「久保田課長、こちらの書類確認お願いします」
丸井商事経営企画部・経営企画課。
八重咲葉月が課長の久保田のデスクまで来て、書類を久保田に差し出した。
「うん、問題ない。これを今日の午後の会議に使うから、すまないけど人数分コピー用意して」
「承知しました」
軽く一礼し、その場を辞そうとしたときだった。
「あ、八重咲君」
「はい」
「寝癖は直して」
「は……?」
「今日は寝坊したみたいだね。髪の毛がはねてるよ」
葉月はばっと髪の毛に手をやった。
「し、失礼しました! すみません。ちょっと席を外させていただきますっ」
「ごゆっくり」
バタバタとその場を後にする葉月の後ろ姿に久保田はクッと笑いをかみ殺した。
◇◆◇
「あちゃー、やっちゃった」
女子社員用トイレで鏡の中をのぞき込みながら、葉月は頭を抱えた。
ミディアムボブの右サイドが外向きに思い切り元気よくはねている。
確かに今朝は寝坊して、ろくに櫛も入れずに慌てて出社してきたけれど。
まさか久保田は、変な想像をしてはいまいか。
髪の毛を整えながら、純情な葉月は真っ赤になる。
それは、葉月の新人歓迎会の飲み会の席のことだった。
勧められるまま断ることができず杯を重ね、葉月はすっかり足腰にきて帰ることが覚束なくなった。
その葉月を責任持ってマンションまで送り届けたのが久保田だ。
そのときも久保田は葉月に肩は貸したが、指一本触れないという体で葉月を扱った。
そのときの久保田の紳士ぶりは葉月の乙女心に火をつけたと言える。
この前の食事の時は、ちょっといい雰囲気だったんだけどなあ。でも、やっぱりお酒は飲ませてもらえなくて。
結局、子供扱いされてうやむや……そう思うと、葉月の心はどんよりと落ち込む。
自分も悪いのだと言うことは葉月にもわかっている。
葉月は今の関係を壊したくないのだ。
同じ部署の上司と部下。
たまにアフター5の食事に連れていってもらって。
何もない。何もないけど、久保田の葉月を見る目は優しい。
とはいえ入社して三年間、久保田から口説かれたことなど一度もない。
葉月は密かに久保田のことを想っている。
入社したての頃は、デキル上司への憧れの感情だった。
それが『恋』へと変わるのに時間はかからなかった。
告白はしない。できない。
久保田は葉月より十二歳も年上の大人の男だ。この年の差は、まだ二十五歳の葉月には大きい。
何より葉月には、今の優しい関係が壊れるのは怖い。
だから、現状に甘んずるしかない。
葉月は鏡の中の自分を見つめ、ため息を吐いた。
◇◆◇
「東城圭です。今日からお世話になることになりました。よろしくお願いします」
四月も末、折り目正しく礼をしながら彼は、経営企画課の朝礼で葉月にそう挨拶した。
今年の男性新入社員の中でも東城は一番背が高く、引き締まった体躯、涼やかな甘いフェイス。さぞ女性にモテるだろうと思われる。
ルックスだけでなく東城は、新入社員トップクラスの成績で入社してきたらしい。
「入社三年目の八重咲葉月です。東城君、よろしくね」
そう挨拶を返しながら、そんな優秀な新入社員の『教育係』になることに葉月は身の引き締まる思いだった。
◇◆◇
「そう。だから、このケースの場合、コンプライアンスを重視して……」
そのとき。
葉月は就業時間を過ぎていることに気づいた。
「もう、こんな時間ね。今日はこれで終わりにしましょう。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
「あ、東城君」
葉月は東城に何気なく声をかけた。
「今日はありがとう。あなたのサポートのおかげで助かったわ」
その日の午後、葉月のパソコンがダウンするトラブルがあり、そのとき冷静に対応したのが東城だったのだ。
「……そうだ、東城君。今日これから予定ある?」
葉月は言った。
「今日は金曜日だし今からご飯に行かない? 今日のお礼と懇親も兼ねて奢るわよ」
「え? いいんですか?」
「着替えてくるから、社の入り口で待ってて」
「了解です」
そうして、葉月は東城が部署に来て初めて彼を食事に誘った。
◇◆◇
「乾杯」
「乾杯」
古民家風のスペインバルで二人は乾杯している。
店内はレトロでノスタルジックな雰囲気、程よい喧噪音が心地いい。
「やっぱり、八重咲さんってこういうところに来るんですね」
「やっぱりって?」
「こういうお洒落な所が好きそうに見えます」
「ここは美味しいモノ食べられるから気に入ってるだけ。東城君こそこういうとこよく来るの?」
「僕はこの前まで貧乏学生ですからね。普段は安い居酒屋で安いチューハイしか飲みません」
そう言いながらも、ジントニックを飲む東城は葉月より三歳も年下とは思えないほど大人っぽい。
葉月は東城を誘ったものの、どんな話をしていいのかわからない。
『教育係』として一対一で後輩社員を指導するのは初めての葉月は、プライベートではどこまで踏み込んでいいのかもよくわからない。
暫く葉月はオーダーしたチーズや生ハムのタパス、トルティージャなどをつまみながら黙って飲んでいたが、ややあって言った。
「東城君は仕事の飲み込みが早いし、同じ課の先輩として言うことないわ」
「ありがとうございます。八重咲さんの教え方がいいんですよ」
そう言って、東城はにこりと笑った。
笑顔は年相応だなと、葉月は思った。
それから二人はぽつぽつと話し始めたが、早くも酔いが回ってきた葉月は自然、口がなめらかになる。
「東城君は彼女はいないの? 社内の女子が騒いでるわよ。あなたを落とすのは誰かって」
「くだらないですね」
「あ、小馬鹿にした態度!」
「すみません。でも、本当、勘弁してほしいですよ。そういうミーハーなの、嫌いなんです」
「そう言えば総務の新人の子、あなたにお弁当を作ってきて玉砕したって聞いたわ」
「なんでそんなこと知ってるんですか」
「噂は千里を走るからねえ」
「俺は悪人ですか」
東城が言った。
「八重咲さんこそ彼氏は?」
「いないわよ」
「じゃあ、好きな人はいるでしょ」
「好きな人かあ……。遠いなあ……」
葉月はホワイトレディのグラスを見つめる。
「遠恋ですか?」
「近くて遠い恋よ」
そう、葉月にとって遠恋ではない。物理的距離で言えば、久保田は近い。
でも、心の距離はどうだろう。
葉月にとって久保田は手の届かない存在だ。
「私ね。久保田課長が好きなの」
そのとき。
何故、葉月はそんなことを東城に告白したのかわからない。
ただ、誰かに聞いてほしかった。
今の自分の孤独な気持ちを。
「社内恋愛ですか」
「そうよ。悪い?」
「悪くはないですよ。節度を保っていれば。で、課長も八重咲さんのことが?」
「そんなわけあるはずないじゃない!」
思わず葉月は語気を強めた。
「すみません」
「謝らないでよ。ほら、追加オーダーは? ドリンクでも食べたいものでもなんでも好きなモノ頼んで」
その場を取りなすように、葉月はメニューを広げた。
約二時間後──────
「八重咲さん、送ります。家、どこですか?」
真っ赤な顔をして気持ちよさそうに酔い潰れている葉月に、東城は困ったようにさっきから声をかけている。
「まったくなんでこんなとこに来たんですか。ろくに飲めもしないのに」
そう怒ったように東城は言った。
「久保田、課長……」
そのとき一言、葉月は呟いた。
閉じた目には長い睫に涙が光っている。
葉月はそのまま、隣に座っている東城にもたれかかるとすぅーっと一瞬、軽い寝息を立てた。
そんな葉月の呟きは聞かなかったかのように東城は、酔いの回っている葉月の肩をそっと抱いた。
◇◆◇
「東城君」
「おはようございます」
「おはよう」
その翌週の月曜・朝八時。
葉月が出社すると東城はもう出社していた。
「早いのね」
「週末のトラブルの後処理が気になって」
「それ、私の仕事よ。ごめんね。もうそこまでできてるの?」
「すみません、勝手に」
「ううん。助かる」
そうやって、朝のひとときを葉月は課内で東城とふたりきりで過ごしている。
「東城君。この前はごめんなさい……」
葉月は言いにくそうに口ごもったが、切り出した。
「あのとき、言ったことは忘れて」
「久保田課長のことですか?」
葉月は目を逸らす。
「言われなくても誰にも言いません」
「あなた自身も忘れて」
「僕も忘れたいですよ」
「え?」
「何でもありません。それより、八重咲さん」
「何」
「元気出してください」
そう言ってふわり笑った。
その笑顔に葉月は思わずキュンとした。
◇◆◇
「あー、この季節になるとこれが一番ね」
葉月は美味しそうに生ビールの中ジョッキに喉を鳴らしている。
「東城君は優秀で本当に助かるわ。まだ入社して三ヶ月なのに、早くも即戦力だものね。今日の四つ橋工機さんとの打ち合わせも新人とは思えなかった」
その日の午後、葉月は東城を伴って四つ橋工業機器を訪れ、打ち合わせを行った。東城は経営企画課員として過不足ない働きだったのだ。
そして、帰社せず直帰ということもあり、葉月は東城を飲みに誘ったのだ。
「八重咲さん、大丈夫なんですか? 飲めないくせに」
「一杯なら大丈夫。仕事してるとね、この生一杯が最高に美味しいのよ」
それは事実だった。
アルコールは強くない葉月だが、仕事上がりのビールの味はわかっている。
「ささ。東城君もぐぐっと」
「ほら、やっぱり八重咲さん、もう酔っ払ってる」
「大丈夫、大丈夫」
ほろ酔い気分の葉月に東城は気が気でない。
「冷やし中華お待ちっ!」
そのとき、男性店員が葉月達のテーブルに冷やし中華とエビチリ、枝豆の皿を運んできた。
「いただきましょう」
「美味いですね、ここの冷やし中華」
「でしょう? エビチリもピリッと味が効いてて、私のお気に入りなのよ」
上機嫌で葉月が答えた。
葉月は最初、ほんのビール一杯のつもりでいたのだが、仕事の話からプライベートの話まで期せずして二人は盛り上がった。
東城は優秀なのも当然で、東京の国立大学経済学部出身だが、やはり学生時代、かなりモテていたらしい。
中学時代から女子との縁が切れたことがほぼないらしく、自分を巡って複数の女の子が醜い争いをした時期もあり、それで東城は少し女性不信になっているきらいがある。
自慢げに話すわけではないのに、漏れ出てくるエピソードの数々にいちいち葉月は驚いた。
「八重咲さんは彼氏は?」
「言ったでしょ。私は久保田課長一筋」
「学生時代のことですよ」
「うーん、私、中高大と一貫女子校で、縁がなかったなあ」
「どこの学校なんですか?」
「大津摩女子」
「あのお嬢様学校ですか?! それは学外の野郎共がさぞかし群がってきたでしょ」
「それほどでも。私、中高時代は家庭科部で、大学時代は学内の美術サークル所属だったから、男の子とは縁がなかったわね」
「だからそんなに純情なんですか」
「え?」
「なんでもないです」
そう言うと東城は何杯目かになるビールを飲んだ。
しかし、ふと東城が言った。
「八重咲さん。久保田課長って、独身なんですか?」
「そうよ。指輪してないでしょ」
「指輪してなくても既婚ってこともあるでしょ」
「大丈夫。本当に独身」
「でも、課長なんで独身なんですか? 仕事はできるし、あの歳で腹も出てなくて格好いいし。男の自分でも惚れますよ」
「そうね……。なんでなんだろ。前に尋ねたことがあるけど、「仕事が恋人」みたいなこと言ってらしたわ」
「それ、やっぱりかっこよすぎます」
枝豆を口に放り込みながら、東城が言った。
「そうよ。課長は格好いいのよ」
「八重咲さん、酔ってるんですか」
いつの間にかトロンとした目をしている葉月を心配そうに東城が見つめる。
「この前と同じマンションなんですよね? 送りますから」
「ごめんね」
「泣き上戸ですか……」
呆れたように東城は呟いた。
葉月はいきなりしくしくと泣き始めたのだ。
葉月にとって、久保田への恋心はもはや抑えきれないところまで大きくなっている。
つい先週も、葉月は久保田に誘われて食事に行った。
お互い独身だからこそ気安い関係で、それは不自然なことではない。しかし、久保田は葉月のことを、年の離れた妹のように思っている節がある。それが心地よくもあるし、何より今の優しい関係を壊したくないから、葉月は久保田に告白できない。
でも、その想いも限界まで膨れ上がっている。
「ねえ、東城君。どうしたらいいの。私、どうしたら……」
さめざめと泣く葉月に
「帰りましょう、八重咲さん」
東城は優しく葉月に言い聞かせた。
◇◆◇
「ここですよね」
葉月の部屋の前で東城が言った。
「ありがとう、東城君。送ってくれて。一人で帰れたのに」
「何言ってるんですか、酔っ払いのくせして。八重咲さん、酒癖悪すぎます」
その東城の言葉に葉月は首をすくめる。
電車に乗って帰る間に酔いはほとんど覚めていたが、確かにスマートな飲み方ではなかったことを葉月は反省した。
「あ、珈琲飲んでいく? 東城君。美味しい豆があるの」
部屋の鍵を開けながら、葉月は何気なく東城を見た。
葉月にとってそれは、ほんのお礼の気持ちに過ぎなかった。
「……まったく。年下だから俺は男の数の内に入ってないんですか」
「東城君……?」
東城が、切なげに葉月を見つめている。
「俺が送り狼にならないって保証あるんですか」
「送り……?」
次の瞬間。
東城は葉月の両手首を掴み、葉月の体をドアにロックした。
「東城、くん……?!」
「八重咲さん、隙だらけです」
頭の上から東城の囁き声が降ってくる。
ガンガンと葉月の頭が鳴っている。
早い二日酔いなのか、頭が割れるように痛い。
これは悪い夢……?
でも、体が熱い。
東城の唇が近づいてきて、葉月は思わずぎゅっと目をつぶった。
「東城く……」
怖々と目を開けると、薄く目を開いた東城の顔が間近にある。
唇が離れた後の東城の顔だった。
涙目の葉月に東城は言った。
「今夜はこれで帰ります」
東城は葉月からスッと体を離すと言った。
「すみません。怖がらせて……唇を奪って」
葉月から一瞬目を逸らしたが、東城は続けた。
「今度は八重咲さんの恋人として口づけさせてください」
「恋、人……」
「おやすみなさい」
そう言い残し、東城は身を翻し去って行く。
後には呆然と葉月が一人取り残された。
◇◆◇
「素敵なお店ですね」
そこは、オープンしたばかりのダイニングバーレストランだった。
店内は黒い色調で統一されていて、天井も高い。照明が落とされ、落ち着いた雰囲気だ。
八月某日。
珍しく定時で仕事をあがろうとしたとき、久保田が葉月に声をかけ、二人は久しぶりに食事を共にしている。
「好きなモノ選んで」
メニューを久保田が広げる。
一見して、フレンチ系のメニューだった。
フレンチのアラカルト料理にはあまり慣れていない葉月は、少し困ったような仕草をした。
その表情を見て
「前菜の盛り合わせ、カルパッチョのサラダに……若鶏のフリットか鴨のコンフィなんかどうかな。それに、牛フィレ肉のパイ包み焼きも」
と、さりげなく久保田が勧める。
「お願いします」
葉月は久保田にお任せすることにした。
「食前酒はどうする?」
「え? いいんですか?」
いつも久保田との食事のときはソフトドリンクしか飲ませてもらえない葉月は驚いた。
「ああ、今夜は……。いや、ミモザはどう? 『世界で一番美しく美味しいオレンジジュース』だよ」
「じゃあ、それを」
「僕はギムレットをいただくよ」
久保田はウェイターにオーダーを告げた。
「乾杯」
「乾杯」
グラスはカチリと小気味のいい音を響かせる。
綺麗な黄金色のミモザのカクテルに葉月は、アルコール以前に雰囲気に酔いそうになる。
ましてや、すぐ横には久保田がいるのだ。
チラリとカウンターの右隣に座る久保田の顔を盗み見る。
痩せてやや陰りのある横顔はやはり葉月にとって、大人の男の顔だ。
「最近、ずいぶん東城君と仲がいいみたいだね」
「え? そうでしょうか」
「ああ。今日も一緒に昼飯食ってただろ」
「社食ですし、仕事の話がありましたから」
「昼飯くらい仕事を抜かないと保たないぞ」
そう言うと久保田はグラスをあおった。
「それでなくても君は体が丈夫じゃないんだから」
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
丸井商事は福利厚生が充実していて、女子社員が生理休暇を取ることにも理解がある。だから、体の弱い葉月はよほど仕事に支障を来さない限り、ほぼ一ヶ月に一日のペースで休暇を取っている。
久保田もそれは了承していて、日頃から葉月の体調をそれとなく気遣ってくれる。
久保田はやはり葉月にとって優しい上司だ。
「ところで。君と東城君はどういう関係なんだい?」
「え? 職場の先輩後輩ですけど」
「それ以上でもそれ以下でもない、と?」
「はい……」
葉月は久保田が何を言おうとしているのかよくわからなかった。
もう一度、久保田の横顔にチラリと視線を遣るが、久保田の本音はつかめない。
あの日以来、葉月は東城と努めて普通に接していた。
避けるでなく、必要以上に親しくするでなく。
しかし、東城は仕事の話は遠慮なくどんどん葉月にもちかけてくる。今や東城は葉月の後輩として、職場になくてはならない戦力になっている。そのため、久保田の言うとおり、仕事の話が長引き、食事を共にすることもたまにあった。
でも、『職場の先輩後輩』……そう、それだけのこと。
実際、彼にはもっと相応しい、自分より若い彼と同期の女子社員がたくさんいる。
そう思うと、キリリと胃が痛むのは何故だろう……。
「どうして今夜はお酒を許して下ったんですか」
葉月はこの場に酔いそうになっている自分を感じている。ここはあまりに大人の空間で、二十五やそこらの小娘の自分がいていい場所ではない。
「一人の大人の女性として君を扱いたくなってね」
「大人の……?」
そのときだったのだ。
「八重咲君」
「はい」
真剣な久保田の言葉に、葉月は思わず隣の久保田を振り返った。
「君が好きだ」
久保田は葉月の顔を見つめ、はっきりとそう言った。
「課長……」
驚きに葉月の体が固まる。
「東城君が入社してきてから、わかったよ。僕は、他の男に君を奪われたくない。この三年間、君とは上司と部下との関係を少しだけ逸脱した曖昧な関係を続けてきて、それが心地よかった。君とは年が離れているけれど。そうだな。君はまるで妹のように可愛くて、手を出すつもりはなかった。でも、ケジメをつけようと思う」
「ケジメ……?」
「僕と結婚を前提に付き合ってほしい」
今、確かに久保田は葉月に告白したのだ。
結婚……課長と結婚……。
三ヶ月前なら、嬉し涙を浮かべ、二つ返事で有頂天になっていただろう。
でも、今の葉月は違う。
東城の心がわからない。
どうしてあの晩、自分を抱き締め口づけたのか。
葉月にはわからない。
きっと東城にとっては一夜の戯れ。
でも。
葉月にとっては初めての口づけ……。
唇を奪われたくらいで心まで奪われるなんて、あまりにも安すぎる。
でも、東城は魅力的だ。
仕事ができて、優しくて……。
それは、目の前の久保田も同じ。
久保田は大人で、包容力があって。結婚したら、頼れる存在になってくれるだろう。
なのに、どうしてこんなに心が揺れるのか……。
「課長……」
「八重咲君」
大きな瞳に涙をいっぱい溜めている葉月を前に久保田は軽くため息を吐く。
そして、葉月の右手をそっと優しく握り締めた。
◇◆◇
「東城君……!」
その晩、葉月がマンションに帰ると部屋の前に東城が立っている。
「東城君……どうして」
「八重咲さん、誕生日おめでとうございます」
東城は呟いた。
「どうして、私の誕生日」
「前に、八重咲さんの名前の『葉月』は誕生月からつけられたって話してくださったことあったじゃないですか。『八重咲』の八重もたまたま『八月八日』生まれの自分にぴったりだって。その話を今日会社のデスクでカレンダー見て思い出したんです」
東城はしかし、葉月から視線を逸らした。
「今日一緒に退社した課長と……誕生日祝ったんですか」
「ううん。課長にも同じ話をしたことあるけど、課長は覚えていらっしゃらなかったわ」
そう。
誕生日に久保田から食事に誘われるなんて、思いも寄らなかった。
ましてや、告白されるなどとは。
「私ね……。課長から正式なお付き合い、申し込まれたの」
一瞬、東城の眉根が歪んだ。
「そうですか。おめでとうございます」
「……それだけ?」
葉月は背の高い東城を見上げた。
「なんで私が一人で帰宅してきたかとか、考えない?」
「えーと、課長は送ってくれなかったんですか?」
「マンションの前まではタクシーで送ってくださったわよ」
う。ダメだ。
なんか理不尽な怒りが込み上げてくる……。
そんなことを感じながら、葉月が言った。
「全部あなたが私の……唇を、奪ったからじゃないっ」
「八重咲さん」
東城はどうしていいかわからずにオロオロと
「泣かないでください、八重咲さん」
困ったように葉月をいなした。
「責任取ってよ」
「え、どういう?」
「とりあえず、部屋に入って。私の二十六の誕生日、一緒にお祝いして」
拗ねたように上目遣いで東城を見つめる葉月が、東城には可愛い。
「喜んで。なんならバースデーソングでも一緒に歌いますよ。あ。でも……」
「何?」
「すみません。俺、何もプレゼント用意してなくて」
いくらいても立ってもいられなかったからと言って、好きな女性の誕生日にプレゼントも持たずに部屋の前で待ち伏せしている自分は立派なストーカーだなと東城は思った。
しかし、葉月は呟いた。
「プレゼント。……東城君ならすぐ用意できるわ」
「何ですか? できる限りご要望にお応えします」
そう真摯に言う東城に
「……私に……して」
と小さく葉月は呟いた。
「え……? 今なんて」
「何度も言わせないで。私にキス、して……」
葉月はそう呟き、ボンと顔を赤らめた。
「八重咲さん、本当に可愛すぎます」
喜びに顔が赤くなるのを感じ、東城は顎を片手で覆った。
「「八重咲さん」はやめてほしい。二人きりの時は名前を呼んで」
「じゃあ……葉月さん。僕のことも「圭」って呼んでくださいね」
見つめ合う。
「圭、くん」
「葉月さん」
ふたりのシルエットがゆっくりと重なる。
"今度は八重咲さんの恋人として口づけさせてください……"
あの夜の東城の言葉が葉月の脳裏に蘇った。
それは、葉月が昔から夢見ていた『恋人からのキス』という『誕生日プレゼント』。
真夏の夜の夢物語……。
本作は、遥彼方さま主催「共通恋愛プロット企画」参加作品です。
プロット提供は遥彼方さまでした。
遥さま、お読みいただいた方、どうもありがとうございました!