後編
ある朝、海がなくなっていた。
正確に言えば、はるか彼方に波打ち際がかすかに見えていて、でも、ハルはみるみるうちに顔を青ざめさせた。この照りつける日差しの中、あんなところまでたどりつくことなんて出来ない。
「潮の満ち干きってやつだと思う……。資料にはここまで干くなんて書いてなかったけど、ここは違う星だものね」
ハルは今まで何を使って食料を得る知識を得ていたのか教えてくれた。暇つぶしのための書庫には古典の小説などもあって、そこから得ていたらしい。
「私達の何代も前の人間だって、こういう環境で暮らしていたはずだもの」
「一体どれだけ調べたの」
書庫といっても、紙の本がおいてあるわけじゃない。膨大な量のデータが収められているはずだ。そりゃハルは成績だっていいし、とっている授業の違う私のレポートも手伝ってくれるし、調べ物は得意なのかもしれないけど。
ははって、ハルが笑い声をあげた。
「いやだ。ここにきてから手当たり次第探したわけじゃないわよ。あなたいつも私に色々貸してくれたじゃない。古典の小説とか。私結構好きなのよ。そういうの読むの。知らなかった?」
全然知らなかった。貸したといっても、苦手な古典の研究レポートを手伝ってもらった時とかのことくらいしか覚えてない。ハルはくすくすとひとしきり笑った後、よし、と気をひきしめるような声を出して背筋を伸ばした。
「森で食料を調達することにしよう。動物がいるのを何度か見たから、罠をかければ捕まえられるかもしれない。大丈夫だって」
それから罠が成功するまでに二日かかった。それが早いのかどうなのかはやっぱりわからない。非常食はまだ少しあるし、余裕のあるうちに成功したのはよかったんだと思う。
捕まえたのは灰色と黒のまだらの毛皮をした一抱えほどの動物だった。短い手足に丸々とした身体。ずんぐりとした風体の割には、やけに大きな牙を持っている。ハルが持ち帰ったときにはもう死んでいた。多分、罠から出す前にとどめをさしたのだと思う。ハルが生きたまま魚を持ち帰ることは最初の時以来なかったから。
肉はひどく固かったから、ひき肉にしてハンバーグで食べた。肉をこねるのをちょっとだけ手伝わせてもらった。ぬちゃぬちゃして気持ち悪い。
「もう、コツはわかったから、今度はすぐとれるようになるよ」
ハルの言うとおり、一日か二日に一匹は大体とれるようになった。内臓に手をださなければ、毒にあたることはまずないから大丈夫だからね。ハルは時々そうやって私に罠の仕掛けや肉の扱い方を話すようになっていた。本当はちょっと怖くてあまり聞きたくなかったのだけど。
「ハルはすごいね。本当になんでもできて」
「そう?」
ハルはコンピューターになにやら打ち込んでいる。よく持ち歩いてる紙の束を確かめながら。
一体何を作ってるんだろう。
「だって、ハルがいなきゃ私なんて生きてけなかったもん。こんなとこで」
ふふっと吐息を吹きかけるように笑いながらハルが顔を上げた。
ゆったりとした動作で立ち上がり、首や肩を軽くひねり伸ばしながらサイドワゴンに歩み寄る。
カシャカシャと茶葉の入った缶を軽く揺すってから、くんっと中を嗅いで。
「そうねぇ。確かに私がいないとあっというまに餓死確定だったわね」
ああ、でもその前に不時着できなかったか、と、お茶の淹れ方を教えてくれた時と同じ口調で言って、ポットにお湯を注ぐ。かたんと、逆さに置いた脇の砂時計。
ミチとユウリの死から三ヶ月以上たっていた。死という言葉も躊躇なくでるくらいの時間と環境だった。
二人のお墓は森の中につくったらしい。いつの間にかハルが一人でやってきてくれた。ハルはなんでも一人でやってしまう。森には私も何度か入ったけど、息苦しくてめまいばかりがして何一つ集めることなんてできなかったのは今も変わらない。あの綺麗だった鳥も、また見つけることはなかった。
サラサラと音もなく砂時計の砂は落ちていく。
この砂時計はハルの私物だ。使用人の仕事をするときには使わないもので、屋敷の使用人棟にあるハルの部屋に遊びに行くと、これを使ってお茶を淹れてくれた。黒ずんだ木枠のシンプルなもの。古典が好きみたいだし、こういうレトロなものが好きなんだろうか。タイマーとかじゃなくて何故わざわざそれ使うのかと前に聞いた時には、落ちてくのって見てたら楽しいじゃないって言われた。ガラスを支える木枠と平行に、細く垂直に落ちていく砂を一緒に見続けて、眠くならない? って聞いたのを覚えてる。
淹れてくれたお茶は薔薇色でふわりと甘みの強い香りがした。
「どう?」
「美味しい。ミントみたい。すっきりするお茶ね? 新しいの出してきたの?」
昨日淹れてくれたお茶はいつも通りだったし、屋敷に居る時みたいに飲み切らないうちから色々と封を切っておくのはやめようねって前に言ってたのに。
不思議に思って聞けば、悪戯が成功したみたいな顔して細い指を唇に当てながら笑うハル。
「やっと毒性のない草を見つけたの。でも食べるにはちょっと美味しくなかったからね」
毒性もないけど栄養価もなかったし、硬くて噛み切れやしないのよって。
いつの間にそんなことしてたんだろう。
ふぅって息をお茶に吹きかけてからカップにつけるハルの唇は、少しかさついている。
もともと化粧っけはあんまりなかったけど。
ハルは美人なんだから磨いたらもっと素敵になるってばと、みんなでお化粧してあげた時には、なんでこんなにつるつるなのって嫉妬したくらいだったのに。
なんでもできるハル。
なんでもできるから無理しすぎなんじゃないだろうか。
ここにきて初めてそう思った。
「ねえ、ハル」
「ん?」
くいっとお茶を飲みほしたハルは、椅子にもどってまた画面に向き直る。
「なんだか顔色悪くない?」
「そう? モニターの光が反射してるだけでしょ」
「そう、かなぁ」
だって部屋の灯りはモニターなんかよりずっと明るい。
「……もし、さ」
よく見ようと覗き込んだ私から少し目をそらしたハルが、唇を湿らせながら言葉を濁した。珍しい。
「もし、私が先に死んだらね、私の肉、食べていいよ?」
「やだっなにそれっ」
考えたこともない。ハルが死んじゃうなんて想像つかない。ましてやハルを? ユウリのまだらに変色した顔色が頭の中でよみがえった。ありえるわけがない。
ハルがあんな風になるわけがない。
「だって、私がいなきゃ罠も仕掛けられないじゃない。食べ物、とれないよ?」
「だからってそんなことできるわけないでしょう。だってハルは友達なんだよ?」
ハルはちょっと首をかしげて、目を閉じてかすかに笑った。
「言うと思った。そういうとこ好き」
「もう、ふざけてるし! いやな冗談言わないでよね」
そういうとこもなにも当たり前のことでしかないのに。
そんなのありえることなわけないのに。
「ほんとほんと」
「もう!! ハルは時々すっごい悪趣味!」
「そんなことないよ。綺麗だと思うもの」
少しむっとして、お茶をもう一口とうつむいた私の頬に、すっと伸びてきたハルの細くて白い指。
外に出る時はいつもしっかりグローブをはめているから、ハルの日焼けは顔だけ。
意思の強そうな切れ長の目が、モニター光をちらちら反射している。
頬をなぞる指先も少しかさついているのか、ほんのわずかなひっかかりを感じた。
「……でもね、そういう時はね、食べてもいいんだって。そうやって生き残った人の話読んだことあるもん」
「やめてってば! ぞっとする! だってそれならハルは私が先に死んだら私を食べるの?」
「食べるよ? それしか生きる方法がないならね」
なんのためらいもなく、そう言った。
この星に来てからのハルは何度もこんな表情を見せた。それまでは見たこともなかった顔。物心ついたころから一緒に過ごしてきたのに、そんなときはすごく遠いところにいる人のようで、知らない人のようで、いつも言葉がでなくなった。
そんな一瞬の沈黙の後、私の頬をきゅっと軽くつまんでハルが吹きだした。
「その顔! 冗談よ。だって私は罠をはれるし。食べ物をとってこれるのに、わざわざあなたなんて食べないってば。やせっぽっちで食べるとこなんてないじゃない」
からからと本当に楽しそうに笑うハル。
でも、ハル、ミチとユウリのお墓をすぐに作らずに、倉庫に一度いれたのは何故なの?
SOSへの応答を通信機が吐き出したのはそれから二週間後だった。
船内中のスピーカーを通して響き渡るその音に駆け出したのは私一人。
煌々と輝くマーブルカラーの月を背に、無数のライトを点滅させながら降りてくる救援の船を迎えたのも、私一人。
ハルは、その二日前に、死んでしまった。
それまでの生活と、救援が来た日までの四日間は何も食べていなかったせいで、入院を余儀なくされた。それでも真っ白なシーツといい匂いのするお布団と心地よい空調、バランスの取れた食事で、あっさりと回復できた。
屋敷専属のエンジニアが逮捕されていた。わざと航路途中で故障するように設定していたのだ。ご丁寧に嘘の予定航路を届出までしていた。
私たちの不明の知らせに身代金を要求してきたグループは四組。あまりにも私たちの特徴すら伝えられないグループが三組。残りの一組の中に、そのエンジニアがいた。
様子のおかしいその男を取り調べ、正確な予定航路を捜索隊が知った時にはもう「事故」が起きてから三ヶ月をゆうに超えていた。
エンジニアは、父によって倒産においこまれた小さな会社の社長の家族で、彼らは身代金を手に入れた後はそのまま姿をくらます予定だったそうだ。私たちの行方などはなから教えるつもりなどなかったと。つまりミチの言い分が当たっていたということだろう。
そして、ハルは自分の過去を知っていたと、そう、言ったとのことだった。でもハルが仲間かどうかの問いには強く否定したらしい。
ハルは突然倒れて、高熱が引かないまま死んでしまった。たった二日だった。あの星に生息しているダニがもつ病原菌に感染していたと、ハルの身体を調べた医者が言った。潜伏期間は三週間。発症して二日から四日で死に至る。かまれた瞬間は強い痛みを伴って、気づかないでいることはないだろうとのことだった。
「ハルね、自分が死んだら、自分の肉を食べていいって言ってたんですよ」
私がそうつぶやくと医者はしどろもどろになりながら言葉を捜しているようだった。
「ま、まぁ、お嬢さんはそんなことしなかったでしょう? 当然ですが」
「ええ、勿論」
あと十日、いや、五日救援が遅かったらどうしてたかはわからないけど。
「でもね、思うんです。それは自分が死んだ後、私が生きていくにはしょうがないことだって、生きなさいねって言ったのかなって」
「万が一、その指示に従ったとしたらですね、お嬢さんも感染してましたよ」
「……そう、ですか」
ハルは知っていた。エンジニアが恨みをもっていること。
ミチが叫んでた。最初から来る予定だったんじゃないの?
私は知らない。ハルが本当は私のことをどう思っていたのか。
帰ってきてからも、何度も何度も夢にみたあの星の月がのしかかってくる。
「ただ、ですね」
意識が飛びそうになった私に、医者はなおも話し続けた。
「ハルさんは、感染してなくても、それほど長生きはできなかったと思いますよ」
……なんで。ハルは私達の誰よりも生き残れる可能性が高い人だった。
「お母さんを病気で亡くされてるでしょう。遺伝する確率が高い病気なんですよ。彼女も、発病してましたね。おそらく、もって後半年だったことでしょう。彼女、そう告知を受けてますよ。一年前にこの病院でね」
今、私の手元には、あの船でハルが作っていたデータがある。
五センチほどの厚みがあるその紙束は、ハルが打ちこみ続けていたデータをプリントアウトしたものなんだと思う。だってハルが持ち歩いていたのはもっとぼろぼろだった。
これはちゃんと糸を通してしっかりと綴じられていて、インデックスまでついている。
釣りの仕方。餌をつけなきゃいけないなんて知らなかった。
魚の香草焼きの作り方。香草をかけるだけかと思ってたのに、こんなに手間がかかってたんだ。
二百種類を超える木の実の分析表。殆どが毒性のものばかり。なのにどんな見かけのものなのか、角度を変えた画像がそれぞれ二枚はついている。
お茶していた葉は叩いて潰して束ねてから、しっかりと三日は外で陽に当てて干さなきゃいけないってこと。
罠の作り方。どこに仕掛けたらいいのか。見つけ場所を探すときのポイントと、すでにチェックしてある仕掛け場所の候補をマークした地図。
あのずんぐりした動物の牙には毒性があるから罠を外す前にしとめなくてはならないこと。
銃の使い方だって、肉の保存の仕方だって。
あの星で生きていくためにどうしたらいいのか、ハルが自分で調べ上げてまとめたものだった。
覚書程度のものじゃない。明らかに誰かに見せるためのもの。
「ちゃんと生きるのよ。助けは必ずくるからね」
最後に一行、そう書いてある。