前編
こんなはずじゃなかった。
これは夢に決まってる。
そんなことばかりを何日も叫び続けていた。
本当は、何日もかどうかはわからない。一晩だけだったのかもしれない。
時間にしたらどれくらいになるのか、その星は一日が二十四時間じゃなかったから、目安になるものが何も無い。
その時の私に夜が来たのかどうか認識する冷静さは、どちらにしろなかったとは思うけど。
吹く風は熱く重く、木漏れ日は閃光のように鋭く肌を刺して。
分厚くて傘にでもなりそうな葉の影に入れば、背後を何かがうなり声とともに走り抜けていく。
船に備えてあった作業着はサイズが大きすぎて、ごわごわした厚手の布はただでさえよろめく足にまとわりついて邪魔だ。ふくらはぎまでくる合成素材のブーツだって重いし、中でつま先が遊んでいる。
「待って、ハル、待って」
私より頭半分も背が高いけど、ハルにだって作業着は少し大きいのに。ブーツだって大きいはずなのに。
まるで少年のように細く、けれどどこかしなやかな背中が、木々と胸までくる繁みの向こうで見え隠れする。激しい息遣いと鼓動が、自分のものではないかのように耳の中でこだましていて。
地面を無尽に走る太い蔓や根に、足をとられてなかなか先に進めない。ハルは屋敷の庭を歩くみたいにすいすいと行ってしまう。
なんで、こんなに私とハルは違うんだろう。
「ハルってば、――ひぃっ」
突然視界が塞がれたのに驚いて、悲鳴をあげてしゃがみこんでしまった。
ばさばさと空を叩く音が頭の上を通り過ぎてから、恐る恐る見上げれば、鮮やかな黄色と青が視界の端を横切っていく。
絡まり合うように伸びた太い枝や蔦の合間をすり抜けていったそれは、宝石みたいに見事な色彩にいろどられた尾羽をもつ鳥だった。
つい見とれていたら、ハルがいつの間にか戻ってきてくれていた。
「そろそろ戻ろうか」
いつもハルが森に入っている時間はもっと長い、と思う。
ハルにしつこく言われて纏めた髪はすっかりほどけて、汗だくなこめかみや首筋にはりついていて気持ち悪いし、高い湿度は息苦しくて、私にしてみればまるでもう丸一日走り回っていたような気分だけれど、でも、私に合わせてくれてるんだろう。
ハルの息遣いはまるで乱れていないし、声だっていつも通り涼やかだ。
「今ね、すごく、きれいな鳥が、飛んで行ったのよ」
指差した方向にはもう何もいなかった。そう、とその重なり合う葉しかない暗がりを見上げるハルの表情は逆光で読み取れない。
空にまたたく星ですら個人で所有できるこの時勢では、ちょっとした星間旅行も自家用の宇宙船で可能になる。
そう、私くらいの資産家の娘ともなれば、友人の失恋にかこつけて、別荘である「星」へ旅行することだってできるのだ。誕生日に贈られた私専用の宇宙船は小型ではあるけど最新型だし、大昔の富豪がクルーザーで無人島へ遊びに行ったような安全で気軽な旅行。古典の授業で習ったことだから、クルーザーってどんなものかはよく知らないけれど。
私の「親友」であるハルが最近つきあってた男性と別れたことを肴にして楽しもうと、仲良しの四人で、いつものように母星を旅立っただけだった。自動操縦で簡単につくはずだった。何も難しいことじゃない。何度も何度も繰り返してきたこと。
なのに、何故。
私は機械のことは全くわからない。一体何が起きたのかわからない。覚えているのは激しい振動と目がおかしくなるほどの光と、鼓膜がやぶけそうな悲鳴。
私達の中で唯一理系であるハルが、赤や黄色の光が点滅するパネルをいじりまわしていた。整備不良だとかわめくハルの声をかき消さんばかりに、ビービーと不安を掻きたてる警告音が頭上で響き渡る。
そんなバカなことがあるわけがないのに。私がいつ遊びに出てもいいように、我が家専属のエンジニアがいつでも整備していたのに。こんなはずじゃなかったのに。
こんなの夢に決まってるって、ミチとユウリとでしがみつきあいながらへたりこんで、ただ意味のない悲鳴をあげつづけていた。
たどりついたのは無人の星。空気も私達が生きていくのに丁度いい星。
ハルはそういった。
でもそれにしてはかなり湿度は高い。昼は真っ白に照りつける太陽が空気をゆらゆらと揺らし、夜は青と濃い灰色でマーブルに飾られた月がずっしりとのしかかってきていた。
原始の地球を思わせるその星は「開発調整星域」に入っていて、植民地化を先延ばしにされているのだとも、ハルが言っていた。航行不能寸前の宇宙船は、どこかに不時着させるしかなく、手近な場所にこの星があったのはラッキーだったと。どこがラッキーだというのか。
私達は女性ばかりの四人。
見渡す限りの海と、岩場と、密林しかないこの星で。
狂人の甲高い笑い声みたいな鳴き声が、遠くからいくつも聞こえるこの星で。
非常食だって一ヶ月持つかどうか。だって私達は体感時間にしてほんの十時間ほどの旅行をするだけのはずだったんだから。一日二十四時間の計算で一ヶ月。この星は一日が三十七時間だった。水だけは日に一度バケツをひっくり返したような雨が降ったから心配いらないにしても。
通信設備は無事だったと、SOSは常時出してるから、すぐに救援が来るはずだと、疲れをわずかに滲ませながら顎まである前髪を掻きあげてハルはそういった。「開発調整星域」なんだから、全くの未知なる星なわけではないのだからと。
それに出発の時には航空局に義務付けられている予定航路の提出だってしてある。私達が行方不明になった時点で捜索がはじまっているはずだ。そして、予定航路からこの星はさほど離れているわけではない。宇宙空間における「さほど」が一体どれだけのものなのか、私には見当がつかないけれど、ハルがそういうのならそうなんだろうと思った。
だから、私達は安全な宇宙船の中ですごしている。だってハルがそうしてていいって言ったから。それでもハルは時々外に出て何かを調べているようだった。
あの子はほら、育ちが私達と違うから。と、ミチが言った。
「私達はそれなりに裕福な家で育ってきたけれど、ハルは奨学金で大学に入ってきたじゃない? それにあなたの家で雇ってる使用人なんでしょう? 違うのよやっぱり」
そんな言い方しないでよ。ハルがいなきゃどうなってたかわかんないんだからと、私はミチに言ったけど、それは普段からよく影で交わされていた会話で、それがなんだか日常に戻ったような気がして、少し笑ったのも本当。
確かにハルは私達とは違う。
ハルの母親は私の母の使用人で、ハルと一緒に住み込んでいたから、物心ついたときにはもう当たり前のように仲良く遊んでいた。ハルの父親が誰かは知らない。はじめからいなかったと思う。母親も私達が十歳になる前に病気で亡くなった。それからのハルは私の家で手伝いをしながら暮らしてきた。
母親が亡くなった時のハルのことを、涙も見せないしっかりした子だと大人たちはひそひそと話していた。ほんのちょっぴりの棘を含んだ口調で。
きゅっと口元を引き締めて、まっすぐ前を向いているハル。
泣いていないわけがないと思った。もし、私だったら、そんな風に立ってなんていられない。私はママがいなくなってしまうことを想像するだけで涙が出てきてしまう。かける言葉もなかなか出てこなくて、だから、つい「ハル、私がハルのお母さんになってあげるから」と、泣きじゃくりながら伝えた。その日ハルが口元をほころばせたのはその時一度だけだった。今思い出すと顔が熱くなる。私がハルの母親だなんて。
無口でおとなしいハル。
背が高くて、手足や首はすんなり細く長く伸びてて、頭だってよくて、そこらへんの男の子よりずっと格好よかった。
他の使用人みたいに媚びるわけでもなく、年に何回かしか顔をあわせない親戚みたいに馴れ馴れしくもなく、ただ、そこに静かに立っているような子だった。
私は好んで友人同士の集まりにハルを連れ出した。友達なのよ、親友なのと、そう言って。
三週間がすぎても、通信機器がSOSへの応答を伝えることは無かった。食料は底を尽きかけている。
ユウリがおかしくなったのはそんなとき。わけのわからないことを叫びながら、残りの食料をかき集めて部屋に閉じこもってしまった。閉ざされた扉の前で私とミチがおろおろしていると、ハルが魚を持ってきた。観賞用以外の生きている魚なんて見たのはその時が初めてで、言われないと魚だなんてわからなかった。
「海でツッテきたの」
きょとんとしてる私達にハルはにっこりと微笑んで。
それから魚をツルための仕掛けを見に行った。
宇宙船は船体を岩場に半分乗り上げる形で停泊していて、ぽかりと壁に空いた作業用ハッチから外壁にそって伸びる非常階段の踊り場が海面にせりだしていた。そこに何本も立てかけられた棒。棒の先に糸を下げているだけで捕まえられるなんて、魚って間抜けなのかしらとつぶやいたら、ハルは何がおかしいのか、くすくすとまた目を細めて笑った。
バケツの中で時折小さな水しぶきをあげるのは、ぬらぬらと光る緑色のうろこに手が切れそうなぴんと張ったヒレ。ぎょろぎょろと瞳孔が動く目蓋のない目玉と、ぱくぱくと声もなく閉じたり開いたりする口は醜くて。船内のどこかの部屋に一匹だけ持っていったのは成分分析のためだったらしい。戻ってきたハルが「毒、無いみたいだから食べられるよ」といったとき、卒倒しそうだった。
だってこれは本当に魚なの? 私が知っている魚は、ひらひらとした半透明な尾びれが優美だったり、綺麗な色の鱗がきらきらとしていたのに。
「あなた達に料理しろなんて言わないってば。私がするから。私が食べて三時間たっても生きていたら、あなた達も食べるといいわ」
片眉を上げて口の端で笑うハルの表情は、今まで見たこともないもののように思えた。
簡単な調理設備のあるキッチンで、ハルが魚を調理するのをドアに半分隠れながらミチと見た。
ナイフを魚のエラに差し込んだとたん、あふれ出た鮮血。
胴を押さえつけられた魚はそれから逃れようとするように、バタバタとすごい勢いで尾をテーブルに打ちつけた。
逆立つひれからは太い針を倍ほども伸ばして空を貫き、尾からは何本もの細い舌のようなものが飛び出てきて痙攣しながらテーブルの端へと這っていく。
まるでそれぞれが意思をもつ指先のようなばらばらに乱れもがく様に、ミチは悲鳴をあげて、私はその場にへたりこんだ。
その時のハルは驚いた素振りなんて全然見せなくて、多分驚いてなんていなかったからだろうけど、わずかに顰めた眉の他は何を感じているのか全然わからなくて、でも、ハルの白い頬についた一粒の血しぶきから目が離せなくて、その暗い赤は今でも鮮やかに目の前に蘇る。
グリルで焼いた魚の身をハルが食べてから三時間がたった。
ソファでゆったりと寛ぎながら何か書類みたいな紙の束をめくっていたハルが、それをくるりと筒に丸めて作業ズボンの脇にあるポケットに突っ込んで立ち上がる。
「大丈夫みたいね。今温めなおすから」
そういってキッチンに戻り、すぐに脂がはじけるような匂いとともに現れて、私達の前に皿を置いた。
ユウリが食料をもって閉じこもってから丸一日。
ミチはおずおずと匂いをかいでから口に入れた。それからあっという間にぺろりと平らげたらしい。私はといえば、口元にまでもっていって匂いを嗅いだとたん、トイレに駆け込んだ。出るのは胃液だけだったけれど、えずいている間中、あのまぶたのないぎょろりとした目玉に見下ろされている気がした。
ベッドに戻って眠り込み、目がさめたときには酷くおなかがすいていて。ふらふらとみんながいるはずの部屋に行くと、何かを書きつけていたハルがその手を止めて、バターとスパイシーな香りのする皿を出してくれた。
「貯蔵庫にあったハーブをつかってみたから。ニオイ、大丈夫だと思うよ」
金色のソースのかかったそれは、ふんわりとした噛み心地で、じゅわりとまろやかな脂が口の中に広がって、とても美味しかった。私の涙分、少しだけしょっぱかったけど。ごめんね、と呟いたのをハルが聞き取れていたかどうかわからない。
私とミチはそれから雛鳥のようにハルが食料を持ってくるのを待っていた。
「魚ばっかり……」
ミチは三日目にはそう呟いていた。酷いこと言うと思ったけど、四日目には私もちょっと魚の匂いにうんざりした。
「なんかね、木の実とかは毒性が強いものしかまだ見つけられないの」
ハルは森の中にまで入るようになっていた。
武器を持っていってはいたけど、船外に出れば照りつける強すぎる日差し、むせ返る湿気。
後に私もハルに連れられて何度か外に出たけど、十分といられなかった。採取なんてできるわけがない。だって、私は湿度も温度も完全に調整された環境でしか暮らしたことがないのだもの。ハルは私と同じ屋敷で暮らしていたのだから、ハルだって同じはずだけれど、やっぱりハルは「違う」のだ。ミチは何度もそう呟いたし、私も頷いた。
「森の中に入っちゃえば、日差しはあまり届かないから大丈夫なのよ」
生い茂る大きな葉、樹と樹の間を縫うように渡るツタ、私の両手でかかえる位の幹をもつ樹。風の強さとは全く別の強さの葉擦れの音が、あちらこちらで走る。
手前から樹は三本くらいまでしか数えられないような暗がりの中。
確かに一度見かけた極彩色の鳥は綺麗ではあった。だけど綺麗なものなんて、快適な船内でいくらでも流行の映画を上映して楽しめる。
何もあんな不快さしかない森の中に入ってなんて行かなくても。
ハルの真っ白だった肌は最初こそ痛そうに赤くなって薄皮もすこし剥けていたけど、そのうち段々浅黒く落ち着いてきた。汗だくで戻ってきては、その日採ってきたものを成分分析にかけ、なにやら書きつけているようだった。
「ねぇ、どうして助けがこないのかしら」
ハルがいつものように外に出ている間、ミチが言った。
私は持っていた刺繍針をちくりと布に刺し止めて、だらしなくソファに寝転がるミチに目を向ける。洗い立てでぱりっとした作業着の襟を飾る紫と紺と緑の糸が象る蔦模様は、きっとハルによく似合うと思う。綺麗な刺繍を刺すのは好き。私たちみたいに裕福な家庭で育った余裕ある者こそが楽しめる特権なのだと教わった。ハルだって私が刺した刺繍付きのハンカチやエプロンを、いつも喜んでくれていた。
「おかしくない? ハルって凄く落ち着いてるよね」
なんだか、ミチの目の焦点が私と合わないような気がした。いつもの「ハルは違うよね」って口調とは違う。
「私達はハルがいないと生きていけないけど、ハルは私達がいなくても生きていけそう」
やめてよと私の言った言葉にも反応しないまま。
人差し指と親指の腹にあたる刺繍針の感触が冷たい硬さを伝えてくる。
「私達の中で、こんな場所で必ず生き残れるのって、ハルだけだよね」
「でも、ハルは私達のために今だって食べ物を探しにいってくれてるじゃない」
「ねぇ、私知ってるんだ。あなたのパパって結構、敵をいっぱいつくって恨みを買うようなお仕事の仕方してるって。そうよね。あなたのところは私やユウリよりずっとずっとお金持ちだもの」
一体ミチは何がいいたいんだろう。
「だからいつも屋敷の警備は万全よね。最新型の宇宙船での旅行は、屋敷で過ごすと同じくらい安全だから、私達だけで遊びにでることができるって、ねえ、そうだったよね」
そう、本来は安全なはずだった。だからなんだっていうの。
ユウリが部屋に閉じこもってから二週間目。頑なに開かない扉の前で何度呼びかけても返事は無い。食料だって尽きているはずなのに。
なんとかしてとハルに頼むと、面倒くさそうなため息をひとつついて、なにやら工具を持ってきた。
オートドアだから、船全体に動力を行き渡らせばなんなく開けることはできたのだけど、今は私達が生活をするだけの動力でぎりぎりに抑えていた。エネルギーは節約しなきゃいけないでしょう? と言ったハルは、火花を散らしながらすぐにドアを開放させた。
もっと早くそうしてくれてもよかったのに。
そうしたらあんなことになってなかったのに。
ドアを開けたとたん、どこか甘ったるい吐き気を呼ぶ匂いが流れ出した。部屋に散乱した非常食はどれもこれも封が切られ、ドロドロに変色して床中に撒き散らされたまま。
足の踏み場を探しながら部屋に踏み込む私とミチを、ハルは解放させた扉に寄りかかり見つめている。ユウリ、ユウリと呼びかけながら、据え付けられたベッドの向こう側を覗き込み、クローゼットを開いて、トイレのドアも開けて。
ハルはやっぱりその場を動かず、小脇に工具を挟めたまま、右の人差し指と親指の爪の先を弾きながら見つめていた。その姿を視界の隅に収めたまま、私とミチは部屋の奥に進んでいく。
ユウリは、バスタブ一杯に張られた水の中に目を見開いたまま浮かんでいた。
唇の両端はキレイに持ち上がってて、口元だけ見たら、いつものユウリの笑顔だった。
ぶよぶよとふくらんでまだらに色を変えた肌や輪郭はとてもユウリとは思えなかったけれど。
そこから先はぼんやりとしか覚えていない。
どうしてなの。私が何をしたっていうの。なんでこんなことになるの。こんなの夢に決まってる。
そう叫び続けた。
ミチも叫んでた。ユウリを見て先に悲鳴をあげたのはミチだった。
なんでもっと早くドアをあけなかったの。できたでしょう。ハルならできたでしょう。
なんでそんなに落ち着いてるの。最初からわかってたの?
最初からわかってたんでしょう!?
叫んでたのはミチ。そのはず。私じゃ、ない。
運動神経なんて私と変わらなかったはずのミチが、パッと動いたかと思ったら銃のようにも見える工具を構えていた。うすぼんやりとした記憶では、スローモーションに思えるけど、確かにその動作は素早かった。
授業のバスケットボールでは、ハルの手からボールを奪うことなんて一度もできたことなかったのに。
ミチは奪った工具の火花が散る先端をハルに突きつける。
近寄らないで。変だと思ってたんだから。
なんでそんなに色々くわしいのよ。
最初からこの星に来る予定だったんじゃないの?
ほんとは船、壊れてなんかないんじゃないの?
私に動かさせてみなさいよ。ほら、早くコックピットに向かうの!
やたらめったらに振り回される工具の先を、ハルは鬱陶し気にすいすい避ける。
ミチは、私よりも少し背が低くて、運動だって苦手だからちょっとだけ私よりふっくらしている。勢いづいたミチの二歩分をハルは軽やかな一足分で、二人の間の距離を開けてしまう。
苛立ちにもつれた自分の足にひっかかって倒れこみそうになったミチを、ハルは支えようとした。そう見えた。
でもミチはハルを振りほどこうとして、腕をばたつかせて。
「あ」
それはどちらの声だったのか。そのまま重なり倒れこむ二人。
ぐぅっと、息を詰めたようなうめき声が上がったのと同時だった。
ユウリとミチの遺体は、ハルが食料保存のための倉庫に運んだらしい。どうせ食料なんて残ってないし、船の中で一番涼しいのはあそこだから。そういってハルはシャワーを使いに部屋に戻った。
私はひたすらに叫び続けていた。多分そう。叫び声は聞こえなかったけれど、喉が裂けるように痛かった。
何度かノックする音は聞こえた。私は部屋のドアを開けなかった。このままでいたら、あの工具で、またハルがドアを開けるだろうか。それともずっとこのままだろうか。ハルはユウリの部屋のドアを私達がせかすまで開けようとはしなかった。
うつらうつらと眠りに落ちたり、自分の体の痙攣で目が醒めたりを何度も繰り返した。深い眠りに落ちようとすると、ナイフをつきたてられたあの魚が見下ろしてきた。その魚はミチの顔をしていて。
「ほら、これなら食べられるでしょう?」と、ハルが皿を差し出す。金色のソースがかかったミチ。青と灰色の光をゆらめかせる月を背にしたハルの顔はよく見えない。
私はずっとハルを「友達なの」と誰にでも紹介してきた。
皆おなじように資産家の子供として生まれ育った人間の中で、ハルは静かに微笑んでひっそりとそこにいた。ハルにアプローチをかける男性も何人かいたのを覚えている。ハルはそのうちの一人と最近別れたのだ。ハルは口数こそ少ないけれど、言うべきときはきっぱりと自分の意見を主張する人で、その主張の仕方もストレートすぎるきらいがあった。そういえば、この旅行はハルの別れ話の顛末を聞く予定だったのだ。
部屋の窓から月の光が差し込んできている。どのくらいこうしていたんだろう。最初は不気味にしか思えなかったこの月の光がとても柔らかく感じて、しばらく見上げていると大きな月の斜め下に、もうひとつ小さな月があるのがわかった。
私はドアを開け、ハルがいるはずの部屋に向かう。ハルは疲れたような、ほっとしたような顔をして笑った。それから、どうして彼と別れたの? との私の問いにきょとんと目を丸くして。
「私が想像以上に言うことを聞かないから痺れをきらしたみたいよ?」
そういって笑った。いつでも場の雰囲気を壊さぬように当り障りの無い言葉を使う私達からみると、憧れさえ抱く笑顔。
いつだって背筋をしゃんと伸ばしていたハル。ハルは今まで私に嘘なんかついたことなかった。私以外の誰に対してもそうだった。