8: 不気味な犬
狭霧 狭霧 どうしてこんな…
神様 お願い なんでもするから
あの子の笑顔を もう見せないで
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兵団の皆との夕食を終えて就寝前の和気あいあいとしたひとときを楽しんでいたとき、その知らせは飛び込んできた。
「犬が出ました! 川の近くで羊を襲っています!」
「神力持ち三人! すぐ出れるか?」
「うぃっす!」
今回は、いやがらせのように犬だけで羊を殺しにきたらしい。現場に駆けつけると、妙にうす青い光を放つ犬が羊の喉笛をくわえて唸っていた。その眼は羊の体から滴る血のように赤い。
「なんてうすっ気味悪い野郎だ」
ディオが低い声で呟き、得意の氷の矢を打ち込んだ。犬は羊をくわえたまま身をひるがえすと川のほうへ駆けていく。なぜかダメージを受けたようすはまったく見られない。
「どうなってんだ!」
ディオもショックを隠せないようだ。
ハーディが叫んだ。
「三手に分かれて挟み撃ちする!」
ハーディは川上から。イリスは川下から。ディオは中央から。それぞれ騎士を引き連れて回り込み、犬を追い詰めていく。様々な攻撃を受ける犬は、一瞬ひるんだ様子を見せはしてもダメージをまったく感じさせない。やがて、川が大きく曲がって小さな崖になっている上に出た。
「くっそ! これならどうだーっ!」
ハーディがこれまでにない特大の炎を打ち込む。
「キャインッ」
初めて悲鳴をあげた犬が崖から落ちていった。
「っしゃっ! 炎の大技なら効くんだなっ!」
喜んだハーディは、次の瞬間愕然とした。
徐々に消えていく炎の向こう側で怯えたような顔をしたイリスが、一歩、二歩と後ずさっていくのだ。崖までもうあとがない。
「イリスっ! 止まれっ!」
ハーディの絶叫もむなしく、両手を前に差しのべるようにしたイリスは仰向けのままゆっくりと落ちていく。
「くそっ!」イリスの腕を掴もうとしたハーディは、後を追うように崖に飛び込んだ。
*×*×*×*×*
全力で稔りの力を展開した蔦の網の上に、イリスを抱え込んだハーディは激しく落下した。
「っつっ! 畜生! イリス? イリス? 大丈夫か?」
腕の中のイリスに問いかけるが、なにも返ってこない。
急いで二人に癒しの術を施す。
身体は無事らしいが、まだ心が戻ってきていないようだ。
「イリスっ! ハーディっ! 大丈夫か?」
崖の上から焦ったディオの声が降ってきた。
「二人とも大丈夫だ! 心配ない!」
ふと気づくと、崖から落ちたというのにくたばらずに起き上がった犬が、どこか痛めたようすはあるものの、のそのそと羊をくわえて川上に向かって走り出した。
「俺たちは犬を追って川上に行ってみる!」
ハーディは崖の上に向かって叫んだ。
「決して深追いするんじゃないぞ! 無理そうなら何もせずに戻ってこい!」
「わかった! 様子を探ってくるだけだ!」
ハーディはイリスから体を離し、両肩に手を置いた。
「イリス、イリス、俺の声が聞こえるか?」
生気のなかったイリスの目にだんだん光が戻ってきた。
「あ…。わたし…また…?」
「イリス。犬が川上に逃げていくんだ。わかるか?」
イリスはハーディの指さすほうに顔を向け、遠ざかる犬をぼぅっと見ていたが、だんだん険しい顔つきを取り戻していった。
「わかります。追いましょう」
*×*×*×*×*
数時間後。川はすっかりちょろちょろの狭い沢になり、岩だらけで非常に進みにくくなっていた。やがて、左のほうへ上る急斜面に細い道がつけられているのが目に入った。
「ここまで来ると、山頂の神域と言われる場所ももう近い。フォボスに行くにはこの左の道を行くんだ」
「でも犬は、沢沿いに右にいきましたね」
「ああ。どうする。まだ行けそうか?」
「私なら大丈夫です。先ほどはとんだ失態をお見せして申し訳ありませんでした」
「いや、それは全然…。じゃあ、もう少し追うぞ。この先に行くのは俺も初めてだ」
実はイリスはこの先に入るのが初めてではなかった。でも、今それを言うのも憚られた。詳しく説明することになったらめんどうだ。
やがて二人は、霧がぼんやりとただよう野原のようなところに出た。背の低い野花が咲き乱れ、その先には急な崖がある。
イリスは全身が粟立つのを抑えられなかった。
あのときと何もかも同じだ…。
どうしよう。狭霧…。
崖に近づくと、最近造られたような細い階段があるのがわかった。見上げるとけっこう急だ。
「どうする。上にフォボス軍がいるかもしれない」
「こっそり覗いてみましょう。見つかりそうになったら即撤退ということで」
警戒しながら階段を昇り、そっと崖の上に頭だけ出す。崖の上は下と比べ物にならないほど霧が濃く、すぐ隣にいるハーディの顔もよく見えないほどだった。
イリスは胸の鼓動が激しくなり息が詰まりそうだった。
まさか…まさか…もしかして…
「イリス。お前の風でこの霧をなんとかできないか」
ハーディに言われてハッと我に返る。
「なるほど…やってみます」
そうっと少しずつ風を送ってみると、じわじわと視界が開けていくのがわかった。やがて二人のいる場所から十歩ほど離れたところに見えてきたのは、洞窟の入り口が開いた小さな岩山だった。
「こんなところにあんなものが? さすが神域だな」
ぼそぼそと呟くハーディの声はイリスの耳には届いていなかった。
ガンガンと血の巡りがうるさくて頭が痛くなる。
「うそ…うそだ。そんなことがあるわけ…」
ハーディが訝しげにイリスに視線を戻した。
「どうしたイリス…って! お前! 大丈夫かっ!」
イリスの顔はまっ青に引きつっている。
「やだ…、やだ! 狭霧っ!」
こめかみにぐっと拳を押しつけたイリスの声がだんだん悲鳴のようになる。
「ばっ、静かにっ!」
「そこに誰かいるのか!」
凛々しい声が洞窟の中から響いてきた。
ハーディは慌ててイリスのようすを確認すると
「ちっ! 撤退だ!」と呟いてイリスを肩に担ぎあげた。
その瞬間、イリスと洞窟から出てきた男の視線が交わった。
イリスが「ひっ!」と息を呑むのと男が「お前はっ!」と叫ぶのが同時で、次の瞬間、ハーディは崖下めがけて飛び降りていた。
ああ 狭霧 どうしよう…
怖い 怖いよ…
あの人が この世界にいるよ…




