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霧の彼方の虹  作者: 鷹 樹
36/37

36: 魂のかけら


それから数日、イリスもハーディも大切な客人の世話のため、そして条約締結に向けたあれこれのため、目が回るような忙しさに翻弄されていた。


ある朝、そろそろ湖畔のイリシアが見ごろのはずだとサーラが言い出した。


「イリシア…?」

イリスの問いかけにサーラが答える。


「湖から川が流れだすあたりにも群生地があったはずよ。秋の終わりにとても大きな花をつけるの!」


ああ、あの大きな蕾が気になっていたあれのこと?


「どんな花が咲くんですか?」


「ふふふっ。きっと聞いてしまうと見たときの感動が薄れてしまうわ。だから、なにも聞かずに見に行った方がいいと思うの。特に朝露に濡れた一面のイリシアは圧巻よ!」


そう言って、サーラとタナトスは朝食のあとさっさと馬に二人乗りして花を見に行ってしまった。

二人にとって、出会ったときの大切な思い出の花らしい。


ことあるごとに仲の良さを見せつけられ胸やけがしていたイリスだったが、そんな思い出を大切にしている二人が少し羨ましくもあった。


私たちにはまだこれといった思い出の場所がない。

うーん、洞窟の帰りに寄った大樹ぐらい?


初めて口づけを交わした朝の、ハーディの色めいて伏せられた睫毛や背中に回された力強い腕をふいに思い出して、ぼっと顔に火がついた。


わわわ。…じゃなくって。


…あとは、ハーディを腕相撲で沈めた伯館の大広間とか?

ハーディを突き飛ばしたサーラさんの別荘の前庭とか?

なんだろ。なんだかな、私って…


…里にいたときから一緒だったらよかったのにな。

そしたら里の桜とか秘殿の梅とかいろんな思い出ができたのに。


つらつらとりとめのないことを考えていたら、ふと狭霧や焔や槐さまの顔が浮かんできて哀しくなった。


…もう、誰もいないんだ、この世界には。


“激動の”といってもいいほど落ち着かない日が続いていたせいか、最近三人のことを考える余裕がなかったことに気づいてしまった。


なんだか自分がすごく薄情な気がしてやるせなくなる。


むしょうにもう一度みんなに会いたい。

会って、何度でもごめんねって言いたい。



*×*×*×*×*



イリスがへこんでいる。


あれは昔のことを考えているときの顔だ。

ここ最近の“激動の”日々が落ち着いて、いろいろなことを考える余裕ができてしまったのか。


いやもちろん、考えることは大事だ。

いろいろ考えて自分なりに消化しないと先には進めない。


だけどイリスは優しすぎて…。すぐに自分を責めすぎる。


焔も、槐さまも、彼女が哀しむことなんて望んでいない。

いつだってその幸せだけを願っていた。

もちろん俺だってそうだ。


誰より彼女の幸せを願っていたのは俺なのに。

その幸せを邪魔してるのが俺ってどういうことだ。


…ようやく見つけた。ついに手に入れた。


彼女を幸せにするために、今この世界にいる。

心から笑う姿を、もう一度見るために…



イリスを見つめながらほぼ無意識に考えていたせいか、いつの間にか目が合っていた。


へらりと笑って声を掛ける。


「伯爵たちは花を見に行ったんだってね」

「あ、あの大きな蕾の花、イリシアっていうんだって…。朝早く見に行くと圧巻だってサーラさんが…」

「んー? あのでっかい蕾か…。明日朝食前にちょっと行ってみる?」

「え、いいのかな」

「ここんとここき使われすぎでしょ俺たち。にいさんに言っとけば大丈夫だよ」



もちろん『にいさん』と『とうさん』にはさんざんからかわれたし、『でぃおさん』にもからまれた。


知るか。ほっとけ。



*×*×*×*×*



サーラたちは二人乗りで見に行ったことを知ったハーディの強硬な主張により、背中と腿にぴったり貼りつくハーディの体を感じながら馬に揺られているイリスである。


細身なのにけっこういい大胸筋と大腿四頭筋もってる…。


…いや、だから!

こういうところがやっぱり残念乙女なのかな。

…もしかして乙女の枠にも入れてもらえてないとか。

そういえば、一度手合わせしなきゃとか言われてたっけ…

え? ってことは、戦士枠?

え、そうなの?


イリスが照れ隠しのあまりそんなどつぼに勝手にはまっていることなど知る由もないハーディは、ご機嫌でイリスとの逢瀬を楽しんでいた。


あー、やっぱりこの角度から見るつむじが超かわいい。

見えそうで半分隠れてる耳たぶも、すごくかわいい。

襟足のおくれ毛も、ちょっと色っぽくってかわいい。

ちょっとこっちを振り向いてくれないかな。


「イリス、イリス」

「え、なに?」

あ。睫毛が少し見えるこの角度、最高にかわいい!


「んー! イリスが腕の中にいて最高に幸せ!」

かわいいつむじに顎をぐりぐりと押しつける。


剣技のシミュレーションに没頭していたイリスは、ふいにきた乙女的展開についていけずじたばた暴れた。


「痛い痛い、地味に痛い! ハーディの馬鹿っ!」


…うぁ、そんなまっかな顔で『ハーディの馬鹿』って!

しかも涙目で! かわいすぎるでしょ!


わいわいやって馬を辟易させている内に群生地に到着した。


朝日の中、大ぶりの葉にコロコロと朝露が煌めいてとても美しいが、蕾はこの前見たときのように閉じている。


「ん? もしかして陽がもう少し高くならないとダメ?」

「だからサーラさんが朝露に濡れているのが圧巻だっておすすめしてくれたのかな」


二人は馬を降り、体をほぐしがてら散歩することにする。山の朝の空気はいちだんと爽やかで、北に向かって広がる群生地の緑と湖水の淡い青色が清々(すがすが)しい。


「イリス」とハーディが呼ぶので振り向くと「ん!」と右手を差し出してきた。

おずおずと左手を伸ばすとぎゅっと握ってくる、剣だこのできた男らしい手。


なんだかあらたまると恥ずかしい。頬が染まるのがわかる。


「かわいい、かわいい」とわしわしと頭をなでられた。

「やっ! ぐちゃぐちゃになるっ!」

でも嬉しい。


なんだろう…なんだか懐かしい気分になってくる。

二人を包むほわほわとしたぬくもりが霧散してしまわないよう、ギュッと手を握りしめて静謐な空間に佇んだ。


陽が昇っていき湖面の色が変わり始めるころ、ふいにポンっと音が鳴りそうな勢いで蕾がひとつはじけた。


少し先が尖った瑠璃色の花びらが六枚、鐘を逆さにしたような形にふぅわりと広がって淡い黄色の花芯が覗いている。はねを開いたり閉じたりしながら休む大きな蝶を思わせる幻想的な姿に思わず息を呑んだ。


わぁ…と声を出すまもなく、目の前に広がる群生地の至るところでぽぽぽぽぽっと大輪の瑠璃色がはじけだした。

まれに紺碧に近いものや白に近いものなど濃淡もあって、まさに圧巻だ。



『焔! 焔はなに色が好き?』


秘殿に近い泉の花菖蒲は(いろどり)にあふれていた。


『俺は藤色かな。花らしいかわいい色だろ? 罔象は?』

『ぜんぶ好き! でもすっきりした紫紺の花がいちばん好き!』

『お前らしいよ』 焔が優しく笑う。 『狭霧は?』

『ぼくも…ぼくも…』



「…凛としたイリスみたいな紫紺の花がいちばん好きだ」


開花に見惚れていたイリスの体がピシッと固まった。


限界まで開かれた目が恐る恐るハーディへ向けられる。


ハーディの栗色の瞳は懐かしげにイリスを見つめていた。


「すっきりとした立ち姿が菖蒲(あやめ)みたいにかっこよくてすごく綺麗だ」


「…狭霧?」


「うん。気づくのが今になってごめん菖蒲」


狭霧だけが呼んでいた罔象の愛称に体が震える。


驚きに慄いていた睫毛をゆっくり閉じると、朝露のように大きな雫がコロコロとその頬を伝っていった。

ハーディは思わずイリスのか細い肩を抱き寄せる。


「ずっと辛い思いをさせて…長いあいだ一人で悩ませてほんとにごめん。誰よりも幸せになってほしいって願ってたのに、俺がイリスをいちばん苦しめてたね」


イリスがハーディの胸に顔を押しあてたまま首を振る。


「もう一人で泣かないで。これからはずっと一緒にいよう」


イリスが涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、ハーディが辛そうに眉を寄せていた。


「ちが…。悲し…て泣いてるんじゃ…」


やだ、涙でうまくしゃべれない。


どうしよう! 狭霧が!

狭霧が生きてた!


「信じられ…! ほんと? ほんとに狭霧?」


「…そうだよ。信じられない? 里の話をしようか? 社の前には大きな琵琶の木があって、食いしん坊の菖蒲あやめはてっぺんまで登って懐いっぱいに抱えては降りてきたよね。裏の厠の戸が壊れたときは、ぎぃぎぃ鳴るのが怖いから一緒に行ってって夜中に起こされた」


「狭霧っ!」


イリスが首にかじりついてくる。

細い腰をぎゅっと抱きしめ返して黒髪に頬をこすりつける。


「ごめん。ほんとにごめん」

いっぱい泣かせた。いっぱい苦しめた。


「ずっとイリスを苦しめてた。ごめん。でもいま俺、幸せすぎてどうにかなりそうだ」


「わ…たしも! 嬉し…!」


山の業火に晒され炎にひき裂かれた二人が、今この世界で共に生きている。その喜びや幸せを表せる言葉などなかった。


涙で濡れた顔を近づけてイリスからキスをした。

しっかり唇に感じるぬくもりに狭霧がちゃんといることが確かめられて、また涙が出る。


「泣きすぎで目がとけちゃうよ、イリス」

ふっと眉尻を下げて髪をなでてはキスをくり返す。


今度はイリスが笑みをこぼした。

「ハーディが狭霧だと思うと…ふふっ…なんか変な感じ…」


「んっ。どうして? …おんなじだよ」


「だって…、九つまでの狭霧しか知らない…」


思わずむっとして大人のキスをしてしまう。


「ちょっ…まっ! んんーっ!」


頭の後ろをがっしり抑えてかわいい舌を堪能する。


「もう…はっ…子供じゃないでしょ…」


イリスの涙が止まって別の意味でうるうるになるまでさんざん攻め立てる狭霧(ハーディ)だった。


二人を包む湖畔の光は、どこまでも眩く暖かい。






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