35: 水に散った花
本日二話目です!
順番にご注意くださいませ!
タナトスがまだ忠利にもなっていなかった元服前のこと。
数えで十の彼には、三つ年上の菊姫という美しい姉がいた。
この姫、見た目は可憐で儚げだが中身がなかなかやんちゃで、どちらかというと学究肌の弟を無理やり連れだしては無茶を強いて怪我をさせ、母上から叱られる毎日だった。
そんな男勝りの姫にも好いた男がいて、その前ではふだんの暴れっぷりはどこへやら、ひたすらしとやかにおほほなどと口を隠して笑ってみせるから女は恐ろしい。
ある秋の日、とてつもなく偉そうにふるまう客人が現れた。神域を見物に来たとかいう、父上が世話になっている大領主だそうで、何があっても怒らせてはならないときつくきつく言い渡された。
怒らせないためには目につくところにいなければいいのだ、と姉弟は里の川で魚を追ったり、山で柿を取って食べたりしてすごしていた。
その日も弟が好きな魚をとってやると張り切った菊姫が、濡れた着物の裾を河原で焚火にかざして乾かしていたとき。
ふと気づくと川のむこうから馬に乗った『決して怒らせてはならない』お殿様が、膝上まで晒した白い脚に舐めるような視線を這わせていた。
よくわからない恐ろしさを感じた姉弟は、慌てて火の始末をしてお殿様の反対のほうへと駆け出した。
「はやく! はやく!」
姉に急き立てられるが、体の大きさが違うし緊張しすぎてうまく走れない。
馬の追ってくる音が背後に迫ったかと思うと、姉の体が宙に浮き馬の上の男の腕の中に捉えられた。
姉の悲鳴もじたばた暴れる手脚も、あまりに恐ろしすぎてなぜか現実味が感じられなかった。
あっという間に姉を攫った馬は見えなくなった。
夜になって母と姉の忍び泣く声がふだん使われていない蔵のほうから聞こえた。が、子供の彼にはどうしたらいいのかわからず、何をすることもできなかった。
その日から姉は人が変わったように笑わなくなり、外で遊ぶこともなくなった。
姉と思いあっていた男が、なんとか姉と話をしたいと必死に言い募ってきたが、姉は決して会おうとしなかった。
三月たったある夕刻、彼はまっ青な母に姉を知らぬかと訊ねられた。
氷雨が降り続いているというのに、屋敷のどこにも見当たらぬという。
なぜか彼にはわかった。姉はあの時の川にいると。
慌てて駆けつけると、果たして菊姫はそこにいた。
凍てつくような寒さの川の中に。
前日から降り続いた雨で流れは激しく、姉の脚で立っているのがやっとに見えた。
「あねさま! あねさま! 死んでしまいます! はやくこちらに!」
涙ながらに叫ぶ彼にちらりと虚ろな視線をくれたものの、彼女は一歩も動こうとはしなかった。
彼は必死になって姉のほうへ蔦を伸ばすが、幼い彼の弱い力では姉まで届かない。
やがて姉のからだがぐらりと傾ぎ、水に流され始めた。
「あねさま! あねさまーっ!」
姉は腹に子を宿し自ら命を絶ったのだ、と母に教えられた。
貧しい小領主のままでは、大領主にいいように喰いものにされる。
領地を豊かにし、少しでもよい血縁を結び、のしあがっていかねば…いずれとって喰われるだけだ。
このとき、己の神力の弱さを誰よりも恨み、誰よりも武術を鍛え、誰よりも強い野心を抱く忠利が生まれたのだった。
*×*×*×*×*
くそっ! あと少しで誰からも指図されない俺たちの国ができるところなのに!
「サーラ! サーラ! しっかりしろ!」
激しく流れる冷たい水の中、サーラの瞼がうっすらと開き青くなった唇がわずかに震えた。
「サーラ! もう少しだ! 死ぬな!」
そのとき、はるか上の方から叫び声が聞こえた気がした。
「タナトス! いま行く!」
「がんばって!」
あれは、 罔象とハーディか!
そうだ! 罔象なら!
「頼む、罔象! サーラを死なすな!」
タナトスは口角をあげて叫ぶと、サーラのこめかみに唇を押しあてて囁いた。
「こんな俺を愛してくれるお前との日々は悪くなかった。
幸せになれ」
蔦からタナトスの手が離れた。
驚きに歪むサーラの目の前で、流されていくタナトスの姿がだんだん小さくなり、滝に消えた。




