20: サーラの覚悟(七年前・早春)
本日5話目です。
順番にご注意くださいませ。
その夜。サーラが眠れずに窓から外を眺めていると、タナトスが庭を歩いているのがバルコニー越しに見えた。
ああ。こんな風に眺めていられるのも今日限りかしら。
…涙が出そう。
もしかして、明日にもジヴェ将軍の閨に送り込まれる…?
恐ろしすぎて鳥肌がとまらなくなる。
ふと気づくと、タナトスが屋敷を見あげていた。
え、もしかして私を見ている? …まさかね。
視線を外せないまま窓際に佇んでいると、一歩、二歩と力強く足を速めながらタナトスが近づいてきた。
え? まさか。ほんとうに?
バルコニーに遮られて姿が見えなくなったと思ったら手すりにくるりと蔦がからまり、二階の手すりを乗り越えてタナトスが窓の向こうに現れた。思わず息が止まる。
タナトスの唇が声を出さずに「開けて」と動き、サーラは迷わず中へ迎え入れた。
「サーラ。サーラの気もちを確かめにきた」
「え、私のきもち? え?」
「サーラは将軍のものになるのも、帝室へ送られるのもいやだと言っていたはずだ」
「え…ええ! そうなの! いやでいやでどうしたらいいかわからないの!」
もしかして助けてくれるの? タナトスが私を?
期待に胸がふくらむ。
「その気もちは、たとえ辛い重圧や責任に押しつぶされたり、寝る暇もないほど忙しい毎日になるとしても変わらないか」
「え? ええ。いやでたまらない男のものになることに比べたら、それぐらいなんでもないわ!」
「それを確かめたかった。これから一年、サーラが思いもしなかったようなことが起こり続けるだろう」
タナトスが決意を秘めた目でサーラの肩に両手をのせる。
「とりあえず明日。サーラにとってかなり辛くて恐ろしいことが起こる。それに対する君の覚悟を見せてもらいたい」
「私の覚悟…?」
「そうだ。それによって、これからの動きを決める」
なんだか思っていた展開と違うみたいだ。
ふわふわ浮かれていた心がしゅっと冷えた。
でも、タナトスが私のために何かしようとしてくれている。
しかも、私が気もち悪い男に抱かれずにすむようにって。
そうよ! それだけで十分じゃない!
サーラは唇をひきしめてタナトスをきっと見返した。
「あなたを決して失望させたりしないわ!」
タナトスが優しく微笑んだ。
それだけでサーラの胸は爆発しそうになった。
「準備に忙しいからもう行く。サーラはよく寝ておけ」
タナトスはするっと窓からバルコニーへ出ると、目の前にいたのが嘘のように一瞬で消えてしまった。
まだ胸がどきどきする。
甘いことは何も起こらなかったが、タナトスが寝室まで訪ねてきてくれた。
それだけで一生心の支えになりそうな気がして、サーラは思わず寝台に走りこんできゅっと丸くなった。
*×*×*×*×*
サーラとブノアを乗せた馬車の前後を、サーラの信頼する者たちがはさむようにして護衛する。その後ろには、ブノアの大勢の侍従たちを乗せた馬がぞろぞろと連なっていた。
一行がウラヌス川沿いの急峻な谷に挟まれた細い道にさしかかったとき。ブノアの侍従たちの馬のすぐ前に突然いくつもの岩が落ちてきて道をふさいでしまった。馬の嘶きと侍従たちの騒ぐ声が山肌に響き渡る。
「どうしたんだ。後ろが騒がしいな」
窓から顔を出したブノアが傍の者に尋ねた。
「落石かなにかあったようです。調べてまいりますのでしばらくそのままお待ちください」
そう言って馬を駆り去っていくのはエドだった。
ブノアは憮然として腰をおろしたが、待てど暮らせど報告が来ない。いいかげん苛立ちが頂点に達しかけたとき、馬車の扉がバタンと開いていきなりタナトスが入ってきた。
サーラは目を伏せたまま、なんの反応も見せない。
「なっ、無礼な! はやく降りろ!」
「おや。おとなしく話を聞いていただければ痛い目にあわせず穏便に、と思っておりましたのに」
後ろ手に扉を閉めるタナトスにブノアはぞっとした。
あの笑みだ! 犬に矢が突き刺さった一瞬タナトスが見せた、何もかも凍りつかせるようなあの!
「は…話ぐらいなら聞かなくもない!」
「それは助かります。こちらも血を見たくはないのでね」
「ちっ? 血がなんで関係あるっ!」
「まぁ慌てずに」
ブノアの裏返った声を嘲笑うように眉をあげながら、タナトスは懐から小振りの刀を取り出し鞘を払った。
「この刀はすごいのですよ。秘法によって虹色の神力持ちがとてつもない妖力をこめたものでしてね」
「それっ…が…どうしたっ」
背中をいやな汗が伝い落ちる。
「犬たちもこの刀で生まれ変わった神獣だと言ったら?」
ひっとブノアが後ずさる。
が、狭い車内でいくらもさがれはしない。
「おやおや。だから、私も血を見るのは気が進まないと言ってるでしょう? 一つだけ約束してもらえればいいんですよ」
「なっ、なにをっ!」
「ウラ領の爵位をサーラ様にお譲りください。ブノア様には病気になっていただき、静養のためにどこか別荘にでもこもっていただきます」
ブノアが顔をまっ赤にして叫んだ。
「ふざけるな! そんな話を呑めるか!」
「…それは残念」タナトスはサーラのほうを振り向いた。
「サーラ。覚悟を見せてもらうぞ」
タナトスはサーラの手に妖刀を手渡し、ブノアの身体を押さえつけた。
「ほんの小さなかすり傷でかまわないんだ、サーラ。ほら、この額なんか広くて付けやすそうでいいじゃないか」
妖艶な笑みを浮かべながら前髪を掬いあげ、頭を固定する。
サーラは愕然として、手の中の妖刀とタナトスのあまりにも美しい笑みを見比べた。
彼女はようやく悟った。
「狂ってる…。あなたはどこか狂ってしまっているのね…」
タナトスは心外だと言わんばかりに目を瞠ってみせた。
「どうしても手に入れたいものがあれば、力の限りを尽くす。それは誰しも当たりまえのことじゃないのか? 俺は心根の美しいお前が救いようのない馬鹿に理不尽に虐げられ苦しんでいるのをなんとかしてやりたいと思ったし、俺の野心にも都合がよかった。それだけだ」
その言葉が、サーラの胸にすとんと落ちた。
「…わかったわ」
妖刀を逆手に構え、ブノアににじり寄る。
「や…やめろ! サーラ!」
サーラの表情は微塵も動かない。
「お…俺が悪かった! 将軍のことはもういいから!」
一瞬動きを止めて、サーラは悲しげに微笑んだ。
「お兄様。遅すぎたのよ」
馬車の外で待つ者たちの耳に絶叫が響き、さらにブノアがみっともなくあがく声が続いた。
「サーラっ畜生っ! タナトスっ何をする! サーラのブローチで、えっ、自分の指を?」
外の者に、そのあとに続くタナトスの声は聞こえなかった。
「だから血を見るのは気が進まないと言ったでしょう?」
しばらくしてタナトスが馬車を降りてエドに頷いたとき、車内にはぼうっと淡い光を放ちながら座席に横たわるブノアと、決然として背筋を伸ばすサーラの姿があった。




