19: 魔の差す瞬間 (七年前・早春)
本日4話目です。
順番にご注意くださいませ。
ブノアの狩りの腕は素晴らしかった。馬を巧みに操り強弓をなんなく引き絞って狙いたがわず矢を放つさまは、サーラが筋肉ばかと評するだけあった。
だが、精神力に大いに問題があった。サーラが警告したとおり山上の狩場の雪はまだ深いところが多く、馬を取り回しにくかったり野鳥の群れまでなかなか近づけなかったりする。獲物を仕留めるのはもっぱらリヨンとルーで、ブノアは不機嫌になる一方だった。二匹がタナトスを信頼しきって甘えているようすもますます癇に障る。
「おい、タナトス。そいつらのことが気に入ったぞ。どちらか一匹俺によこさないか」
領主の嫡男の言葉にサーラの側仕えが逆らうわけもない、とブノアは横柄に命じた。
タナトスはブノアがどういう人物かこの一日ですっかり見切っていた。こんな尊大で器の小さい俗人に可愛いリヨンとルーを渡せるわけがない。いや、誰にも渡すつもりはないが。
「なるほど、それほどお気に召されましたか。ではこういたしましょう。ブノア様はたいそうすぐれた狩人でいらっしゃるご様子。あちらのカメリアの木の、右に突き出した枝の先に残っている三輪の花がご覧になれますか?」
「もちろんだ」
「わたくしとブノア様が交互に三射ずつ射て、多く落としたほうが優れた猟犬の主にふさわしいということでいかがでございます?」
なかなか見せ場のない今日の狩りに、腕の良さを褒めたたえる機会をこしらえてへつらおうとしているのだと思いブノアは機嫌がよくなった。
まあ、一射でも当たればたいしたものだ。
なに、俺にとっては朝飯前だが。
早速、ブノアから射ることになった。
一射目。右端の花にかするようにだが当たり、地面に落とすことができた。
「さすがブノア様でございます」
「お見事!」
伴の者たちが口々に褒めたたえる。
「はっはっは! わけもない!」
続いてタナトスが矢を放つところまでは余裕だったブノアだが、次の瞬間一気に青褪めた。矢はカメリアの花芯を射抜き花弁がばっと飛び散ったのだ。
「これはこれは。まぐれにも当たってしまいました。これでひとつずつでございます。ささ、ブノア様次をどうぞ」
ブノアはわなわなと震えはじめたが、いや待て、と気を取り直した。今のはまぐれだとタナトスも言っているではないか。あと二射のどちらかでもうひとつ当てればいいだけだ。
この一射、という気迫がない射手に勝負の女神が微笑むわけがない。ブノアの矢は枝を大きく外れて彼方へ飛んで行った。
弓の名手の自尊心を傷つけられて満面に朱を注ぐブノア。
そんな彼の様子を気にもとめず、タナトスは静かに弓を構えた。
…ブノアが当てるようならこっそり風を遣おうかとも思ったが、そんな姑息な手に頼るまでもなかったな。
まだ使い慣れない弓矢というハンディはあったが、タナトスの武芸の才は三国一と知れ渡っていたほどだ。きりりと引き絞り放った矢は、みごとに花の根元の小枝を貫き、赤い塊はぽとりと地面に落ちた。
「これはこれは、いいほうにそれてくれて助かりました」
タナトスが、ほんとうはハズレなのに勝ってしまって申し訳ない、と眉尻を下げて頭を傾げて回れば
「こんなこともあるのですねぇ。驚きました」
「いやいや。運も実力のうちですから。お見事お見事」
などと、ブノアの伴の者たちもその場を収めようとする。
だが、ブノアにはわかってしまった。
あれはまぐれではない。
奴は初めからあそこを狙って、そして当てたのだ。
あの細い小枝にこの距離で。思わず背筋がぞくりとする。
「ブノア様の見せ場をさらってしまって申し訳ありませんでした。ですが、あちらをご覧ください。ちょうどリヨンとルーが兎を追いたててきました。なにぶん冬ごもりで身は肥えておりませんが、せっかくの三射目です。ぜひあちらに」
なんてそつのない男だ。犬の手回しの良さにも怖気が立つ。
気の利いた答えを返すこともできぬまま、唇をかんで兎をにらんだ。
つがえた矢の狙いをふと兎の向こうの犬に定めてしまったのは、ほんの一瞬の出来心だったのだ。
決して意趣返ししようなどと考えたわけではない。
だがこんな時に限って狙い通りに飛んだ矢は、兎の頭上をを素通りして一直線にルーの眉間に刺さり、ブノアの行く末を定めてしまった。
*×*×*×*×*
今日も山鳥料理がこれでもかと並ぶ別荘での最後の晩餐の席。ブノアは顔になんとか出さずにいたものの、心の底から怯えきっていた。
まずい。まずい。出してはいけないところに手を出してしまった。あいつは何だ。人を超えた力を持っているあいつは。 神? いや、決して神などではない。悪魔だ。魔王だ。
ブノアの放った矢がルーに突き刺さったた瞬間、微笑みを浮かべていたタナトスを取りまく空気が一瞬だけゾッと凍り、また何もなかったようにゆるんだ。
今の矢がハズレではなくアタリなのだとタナトスにはバレている。ブノアにははっきりわかってしまった。
ああ、畜生! なんであんなことをしてしまったんだろう!
さらに恐ろしいことには、確かに矢が命中したはずのルーが何ごともなかったように兎を追いたててきて、まるでブノアの首を噛むように-----と不気味な赤い目に睨みつけられたブノアには感じられた-----兎の首にガブリと牙を突き立てたのだ。
その後も、息を引き取った兎をくわえたままブノアから視線をはずそうとしないルーに、ブノアはひとことも発することができなかった。
「おやおやブノア様。兎を仕留めたルーが褒めてくれとおねだりしておりますよ。どうぞ、なにかひとこと」
「あ…、あ…、よくやった」
その後の狩りも散々だった。獲物を仕留めるのは犬とタナトスばかり。しかも、もう遠慮するのは馬鹿らしいとばかりの勢いで。
さすがに伴の者たちも、早春の湖畔にいるせいだけではない身震いが止まらなくなり、身を縮こまらせて別荘に戻ったのだった。
というわけで、内心怯えきったブノアが虚勢を張っていつもの横柄な態度でサーラにこんな話をしてしまったのも、愚直に保身を図る必死さゆえだったのだ。
「サーラ。ウラーヌではジヴェ将軍もお前の帰りをお待ちだからな。ずいぶんお待たせした分、丁重にお相手するんだぞ」
「ジヴェ将軍が…? でもわたくし、まだ茶会や夜会にはあまり出られないかと…」
「何を言う! いいか。ここだけの話だが、父上の具合があまり思わしくない」
「えっ? でも、秋の園遊会でお会いしたときはなんとも…」
「薬と化粧でごまかしていたんだ。進行のはやい病にかかっていて、侍医の話ではもって二年。政務をとれるのは長くて数か月だそうだ」
「そんな! もっと早く教えてくださればよかったのに!」
「政治のことをお前に話してもしかたなかろう?」
サーラの顔が歪んだ。
父のことは決して好きではない。いい思い出もほとんどない。だがそれでも、父なのだ。生死にかかわることを「お前は関係ない」とばかりに切り捨てられるのはあまりにひどい。
サーラの気持ちに無頓着なブノアは、さらに言い募る。
「早ければ夏までに爵位は俺のものになるだろう。そのときにはジヴェ将軍の後押しがほしい。お前にも何が求められているかぐらいわかるだろう。子供じゃあるまいし、まったく」
見るに堪えない現実から目をそらして王子様との淡い幸せにひたっていた日々が、あまりにもあっけなく幕切れを迎えてしまった。
…いやだ。いやだ。ジヴェ将軍の舐めるような目つきが頭に浮かび、瞼をきつく閉じる。
ブノアがまだ何かまくしたてていたが、サーラの耳にはもう何も届かなかった。




