17: シフレスの春 (八年前・晩秋)
本日2話目です。順番にご注意くださいませ。
美少女の別荘とやらいうところは、恐ろしく立派な石造りの建物だった。
外観にほどこされた細かな彫刻や金属の装飾だけでも度肝を抜かれたが、中に入ると南蛮人の豪商の家でしか見ることのないような贅の尽くされた洋灯や布張りの長椅子や箪笥など。
この少女はいったいどんな身分の姫君なのだ。忠利はあっけにとられた。
侍従に案内されて入った風呂が、またすごかった。温泉から直接湯を引いているとのことで、つるつるした石造りの十人ぐらい入れそうな風呂桶に、なみなみと湯が溢れている。
侍従の手にまかせて髪を洗ってもらうと、不思議なよい香りの泡々としたシャボンというものですっきりと汚れを落としてくれた。
真新しい上等な服を着せてもらい客間に案内されると、サーラが嬉しそうに瞳を輝かせて迎えてくれる。
「丁重なもてなしかたじけない。すっかり寛がせていただき疲れも取れたような」
「まあ、喜んでいただけてよかったわ! お兄様の服がとてもお似合いよ!」
まさに物語から抜け出した黒髪の王子様がそこにいるのだ。
「兄君の? それはいけない。高貴なお方であろう?」
「あら、伯爵の嫡男ってだけの鼻持ちならないやな男だもの。こんないい服もったいないぐらい。だから気になさらないで!」
はくしゃく、というのは一国の領主のようなものだろうか。
「それよりあの…、大事なことをまだお聞きしてなかったんですけど…、その…」
「ん? なんであろう?」
もじもじと頬を赤らめる様は、なんとも可愛らしい。
「あの、お名前を教えていただけます? なんてお呼びしたらいいか…」
「ああ、これは迂闊だった。遠呂智忠利と申す。忠利と呼んでくだされば」
「タナート…ス? タナトス様ね!」
「ただとし、…いや、それで結構」
忠利は苦笑して、まぁ、どうでもいいかと思った。
「姫は? なんとお呼びすれば?」
「やっ、やだ! 姫なんて!」
頬に両手をあてて慌てるサーラ。
「サーラです。ウラ伯爵家の娘、サーラ」
「では、サーラ殿とお呼びしても?」
「どのなんていらないわ! 呼び捨てにしてくださいな」
「いや、そういうわけには…」
「いいの! ぜひサーラと!」
忠利は一瞬戸惑ったが、キラキラした瞳に見つめられ、片眉をあげて降参した。
「では…。サーラ」
「はいっ!」
一事が万事この調子で、素直なサーラのひたむきな好意に忠利も毒気を抜かれるようだった。
「タナトス様の犬が仕留めて下さった鳥と兎で、料理長が腕をふるっていますの! 彼の作る鳥の炙り焼は絶品なんですよ! ぜひお召し上がりになって!」
こうして豪華な夕餉を馳走になる。…ふぉーくとないふの扱いには往生したが、驚くほど美味な肉料理にでせーるとかいう食後の甘味は、舌がとろけるほどだった。
「この辺は夜になると狼が出ることもあるんですよ! ぜひ泊まってらして!」
そう言われて見たこともないようなふかふかの寝台に案内される。寝心地は抜群で、次の朝の目覚めのよさは半端なかった。
*×*×*×*×*
サーラに引き留められる体で別荘に長居する内に、忠利はこの世界の基本的なことだけでなく、サーラを取り巻く家庭環境やフォボス帝国とオーリン王国の関係についてもかなり詳しくなっていった。
別荘の者たちもまた、サーラがこの先嫁がされるかもしれないあんまりな相手に常々憤りと憐れみを感じていたので、思いがけなくサーラに訪れた王子様との甘酸っぱい青春に「せめてひとときの思い出を」と応援したくなるのだった。
サーラは、タナトスがどこからやってきたのか不思議でならなかった。タナトスがまとっていた奇妙な衣装はきれいに洗わせてこっそりクローゼットの奥にしまってあるが、見れば見るほど馴染みのないつくりのものだった。
彼が連れてきた二匹の犬もとても変わっている。野鳥や野兎を狩ってくるほど優秀な猟犬でタナトスもとても大事にしているのに、餌を与えているようすがない。たまに夜に見かけると、うっすら青白い光を放っているように見えるし、目の色が爛々と赤いのはちょっと怖い。
タナトスは夜になると、月に誘われるように庭を一人で歩いていることが多かった。サーラが寝室から見おろすと、顎に手を当てたり首を振ったりして何か考えこみながら、隙のない歩みを進めている。
一度だけ、ドキドキしながらこっそり後を追いかけてみた。
どんな顔をなさるかしら。くつろいだ夜着に上着をまとっただけのタナトス様もほんとに素敵!
気配を殺して、すらりと引き締まった背中にそっと近づく。
そのとき、月を見あげた彼が溜息とともにせつなげにこぼしたひとことが、サーラの胸を刺した。
罔象…。そなたにはもう会えぬのか。(
みずはってだれ…? 思わず立ち尽くす。
遠ざかる彼に声をかけることはできなかった。
*×*×*×*×*
忠利が別荘にやってきてから十日ほどたったある日。二人は忠利の犬-----別の名があったが、リヨンとルーとサーラが名づけたのでそのままになった-----と侍従のエドを伴って山の上に狩りに来ていた。
「サーラの乗馬の腕は目を瞠るものがある。ここまで乗りこなす女性は見たことがない」
「ふふっ。タナトスこそ、馬も弓も素晴らしいわ」
すっかりくだけた口調が板についた二人だった。
川の近くでひと休みしようとしたとき。
敷物の用意をしようと先に降りたエドの馬が蜂に驚いて暴れ出し、サーラのまたがる馬にぶつかった。シフルも仰天して走り出す。髪をととのえようとうっかり手綱から手を放してリラックスしていたサーラは、必死に腿の力で体勢を戻そうとするがかなわず落ちそうになる。
「サーラ様っ」
エドの悲鳴に、少し離れた場所で馬に水を飲ませていた忠利は慌てて馬にまたがった。
リヨンとルーがシフルを驚かさないように減速させる中、忠利はなんとかシフルに並走してサーラを腕に抱え上げた。
ちょうど岩が所々顔を出している川岸に差し掛かっており、落馬すれば命が危うかったかもしれない。
「あ…、あ…」
馬からおろされても青褪めて脚に力の入らないサーラは、ただひたすら忠利にしがみつくばかりで言葉も出なかった。
「タナトス様っ、ありがとうございます! ありがとうございます! サーラ様になにかあったら、私の命もなかったでしょう! リヨンとルーとタナトス様は、命の恩人です!」
エドがぼろぼろと涙を流し、土下座せんばかりの勢いで感謝の言葉をくりかえす。
「なにもなかったのだ。サーラ、お前は無事だったのだから。もうなにも怖くない。大丈夫だ」
サーラを抱きしめ慰めるように背中をなで続ける忠利が、サーラとエドにとってかけがえのない運命の王子様と主になった瞬間だった。
やがて年が変わり、あたり一面雪に覆われる本格的な冬がやってきた。




