1: 揺らすのは、なに
狭霧 狭霧 どうしてこんな…
神様 お願い なんでもするから…
ああ、いやだ
もうあの夢は見たくないのに
*×*×*×*×*
今日もイリスは微塵もぶれない。
…ぶれてたまるか。
「おまっ、ほんとに神力つかってねーの?」
悲鳴に近いディオの声に、イリスは組みあった右手ごしにくすりと笑ってみせる。
「腕力に神力が関係ある?」
ぶるぶる震える彼の手に視線を落とし、ぐっと力を籠めて
「…ないな」
ごんっとテーブルに叩きつける。
「いっだーっ!」
「ほーら、剛力女王が負けるわけねーだろ」
「イリスが負けるっつったばかものどもめ、金出せ、金」
「くっそーっ! 隊長とさんざん打ちあったあとならちょっとぐらい勝ち目がある?なんて思った俺がばがだっだー!」
「ディオでもかすりもしねーか! さすが女王様」
イリスはオーリン王国騎士団聖騎士隊に所属する十七歳の乙女だ。剛力女王などと不名誉な二つ名を頂戴しているが、見た目はすらっと華奢でとてもそんな怪力の持ち主には見えない。切れ長の黒い目に、艶やかでまっすぐな黒髪をうしろでひとくくりにしている。
ふんっと鼻で笑うイリスの肩にバルドがげらげら笑いながら肘をのせてきて、手に持ったグラスをわざとらしくぶるぶる揺らす。
「こいつのばか力なめんなよ。打ちあって手が痺れてんのは俺のほうだっての」
「可憐な美少女のふりしやがってー! 詐欺だ! 詐欺!」
「ふん、なにを今さら」
ぶれたりしない。
ないったらない。
「くそ強い虹色の神力持ちで、隊長を凌ぐ怪力持ちで、おまけに王子に求愛される美貌の女神さまってかぁ? おまえ、どんだけ恵まれてんだよぉ」
恵まれてなんか、ない。
大切なものはなにひとつ、この手に残らない。
「みなしごの平民が十ニ歳の王子様とどうなるってーの。ばーか」
そう言って立つイリスの肩にバルドが腕を回してくる。
「おかげで儲かったし一杯奢ってやるよ」
そのままカウンターに連れていかれ座らされる。
腕は肩に回ったまま。
「隊長、弱いのにあまり飲み過ぎないでくださいよ。またあの日みたいに部屋まで担がされるのごめんですからね」
「おー。一年前のな。あんときゃ悪かった。気がついたら朝でびっくりしたわ」
バルドはあの日のことを覚えていない。彼が寝落ちするまで酔いつぶれたのは、五年前に出会ってから今日まであの一回きりだ。
「もうあんなばかやるような年でもないしな…って、まだ二十二だよ! 年寄り扱いすんな!」
でも、イリスは覚えている。なにもかも。
呻くように「愛している」と言われたことも。
背骨がきしむぐらいきつく抱きしめられたことも。
何度も重ねられた熱い唇も。
「ここだけの話なんだけどな。南の王領の盗賊団がやばいらしいんだ。強い炎の神力持ち(マルティス)がいるらしい」
肩に回された腕の力強さに、心が揺らぐのを止められない。
そんなに顔を近づけてこないでってば!
…まだ勘違いしたいのか、私は?
もう泣くのはごめんだってのに…。
どうせ私は部下のひとりに過ぎないのに。
「聖騎士隊から少数精鋭の班を組んで、隠密行動の遠征をすることになるだろう。お前の力は欠かせないから頼んだぞ」
そう。どうせ私を傍に置くのは、私が強い神力持ちだから。それは十二歳でバルドに拾われた五年前から変わらない。
「じゃ、飲み過ぎたらやばいし先に帰るわ。あいつらが暴れそうになったら適当にシメといて」
バルドの逞しい背中と短めの茶色い髪が扉の向こうに消えるのを、やるせない気持ちで見送る。
心の奥底に小さく小さく押し込めようとしても溢れてきてしまうこの気持ちは、どうしたらいい。
誰にも気づかれない内にどこかに捨ててしまわないと。
あの堅い背中をきつく抱きしめかえすことは、もう二度とない。一年前のあの夜、あのひと言を聞いてしまったから。
「…愛してるんだ。ユーナ」




