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青の記憶  作者: 糸輪
3/5

青の嘆き

「はっ!」


自虐的な嘲笑を発し、律はいびつに唇を吊り上げた。

始への、そしてなにより自分への怒りが、ぐらぐらと腹の底から煮立ってきた。

始は律に己の死を知らせなかったのだ。

律は始を一人ぼっちで死なせたのだ。

なんてことだ――!


「また騙してくれたのか。あんたはっ、あんたはいつもそうだ!」

『あなたが私の苦しみを取り除こうと行動することは予測していました。安らかな死を、与えようとしてくれることも』


静かに浮かび上がる言葉たち。

律がこうして怒り、悲嘆にくれることもまた、始は予期していたのだろう。


『私は止めたかった』


ぐっ、と息をつめ、律は血の滲むような叫びを絞り出した。


「ふざけるなよ――!」


腕の中の冷たい人を力の限り抱き締めて、唇に歯を立てる。

きしきしと左目の心機が痛むようだ。

人間にとっての心臓に当たるそれは、ドールの左の眼窩に収められているらしい。

自分では見たこともないので真実は知れないが、恐らく正しいと律は感じている。

なぜならば、痛むのだ。

悲しいこと、切ないこと、苦しいことに直面する度、つきつきと左眼の奥が鈍く痛む。

今も痛かった。

律はただ悔しくて、悲しかった。


「当然だろ! 死んでほしくなんかない。あんたには生きていてほしい――なのに、病気になったこともずっと隠し通して」

『生まれたときからの病です。初めから決められていた寿命でした』


激しい勢いで首を振る律の頬を、遅れて靡いた黒髪が叩く。

活動的に短く切られたそれは、店にいた頃は長く伸ばしていた。

非日常的な長さの頭髪が許され、むしろ推奨される環境であった。


露を含んだ咲き初めの青い薔薇を絡ませ、濡れたような艶を宿す美しい黒髪を、一瞬でもいいから触りたいと誰もが懇願した。

彫りの深い眼窩の奥に嵌められた黒曜石の双眸を、そこに宿る青の燐光を、崇めぬ者もいなかった。

律はいつだって気まぐれな子供のように振る舞い、不敵で傲慢な態度をとっていた。

男も女も、人間もドールも、神に愛された律の麗姿を食い入るように見つめ、他愛ない律の戯言を至高のものとして戴いた。

律の周りには己を崇拝し、愛を乞う人間しかいなかった。

こんなにも律を翻弄し、心機を軋ませる存在は、この人しか知らない。


「だからって、医者にかかりもせず――なにを考えているんだよ。治療をしていれば、そうしたら、まだ」

『手遅れの身体をこんな風にサイボーグ化して、ここまでずるずると生き長らえさせたのは、あなたでしょう』

「当たり前だ。誰が死なすもんか、誰が――」


今さらだ、と律は絶望した。

腕に抱いているのは、誰の亡骸だ?

この期に及んで口にしても意味のない、遅すぎる台詞だ。




『でもあなたがそうしてくれたことを、私は嬉しく思いました』

「嬉しい?」

『はい。だって、私のためにしてくれたのでしょう?』


律には分からなかった。

ごつごつしたコードとパーツが抱いている腕に当たる、こんな機械だらけの無惨な身体にしてまで救いたかったのは、果たして本当に始だろうか。

それは、始と共にいたいと欲する、律の身勝手な願いではないだろうか。

なのに、どうして始は喜ぶのだろうか。

始は騙されている。

律の嘘に騙されている。


「なんで俺はドールなのだろう」


律の紅唇から、ぽろりと言葉が零れた。

思わず落としてしまった音だった。

だが、律の素直な本音だった。


「ドールなんかじゃなきゃ、良かった」


ドールでなければ、人間であれば、始は最期のときを律と過ごしてくれたかもしれない。

こんな風に、出し抜くような仕打ちをしなかったかもしれない。

律も、本当に始のことだけを思って、延命のために奔走したかもしれない。

始を騙さなかったかもしれない。

寂しそうに、一人ぼっちのように始が微笑むこともなく、もし律を残していかなくてはならなくても、あんなに不安がったりはしなかったかもしれない。


律が人間なら、始は病気になったことを教えてくれて、二人で治療をしようと決意して、まだ笑っていて、生きていて、律が人間なら、人間なら――。




『私は、生きる前から決められていた残り時間に絶望し、生を疎んでいました』


不意にパネルに並びはじめた文章に、律は視線を奪われた。

脈絡のない言葉に驚いたのもあったが、始が自身の過去を話しているからだ。


『人口統制された社会システムの中で、受精卵の頃から政府機関によって管理され、他の胎児たちと共に人工子宮から生まれ落ちた。なのに、私の身体には欠陥があった。出来損ないだった』


始は決して、律と出会う前の自分のことを語ろうとしなかった。

これまで知らなかった始の内心の想いを、律は初めて目にしたのだ。


『価値のない存在であることが辛かった。劣等感に苛まれて仕方なかった。自分というものを持つのさえ面倒で、それこそ魂の込められていない人形のように虚ろでした』


規則正しい字体で並ぶ言葉の内容と、律が見てきた始とは、どうにも一致しなかった。

始はときどき、寂しそうに笑うことがあった。

だが、人形のように空虚な様を見せたことなどなかった。

危うげながら、いつもいつだって、全身全霊で生きていた。


『無気力になっていた愚かな人間に、生きることを教えたのは、ドールのあなたです』


言葉の意味が理解できなくて、律は思わず腕の中の始を見下ろした。


『あなたが、言ったからですよ』


寝ているように穏やかな顔だ。


『生きろ、と』




※※※※※




パネルに浮かぶ文字は遅くもなく速くもなく、長い間秘されてきた始の古い時間の記憶を表示してゆく。


『ドール職人の一点物のセクサロイドとして作られ、人間たちを押しのけて、夜の世界の頂点として君臨していたあなた』


夜街は律の支配する城であった。

律の思い通りに動く人間たちと、持ち切れないほどの豪奢な富、権力――。

だが、ある一人の客が起こした騒ぎのせいで、それは砂上の楼閣であったのだと律は知った。


『そんなあなたが、不幸な事件のせいで、その座から引きずり落とされた後、どうなるのか見たかった。どんな醜態を晒してくれるのか、見苦しくあがこうとするのか。あなたの無様な姿が楽しみでした』

「え?」

『あの店で、私はあなたをずっと見ていた。そして、憎んでいた』


衝撃に律は唇をわななかせた。

自分の肩に頭を凭れている人に、信じられないという表情をする。

始は、律を憎んでいた――?


『人間の私よりも優先され、大事に扱われるドールのあなたを、憎んでいました。出来損ないの私は、ドールよりも劣る、のだと。あなたが蔑んでいるように感じていた』

「そんなの、思ったことない!」

『知っています。あなたは私の存在すら、気にかけていなかった』


とつとつと電工盤に記されてゆく言葉が悲しくて、辛くて、律は遮ろうと口を開いた。


「劣るとか、そんなのはおかしい。俺は馬鹿な客のせいで性交機関がブッ壊れて、使い物にならなくなった。それをあんたが、なんの道楽か拾って――」

『拾ったのではありません。買ったのです』

「はあ?」

『今まで内緒にしていましたがね。[ゴミ捨て場]にあなたを連れて行ったとき、すでにあなたの所有権を得た後でした』


明かされた新事実に律の頭は混乱した。

買った?

壊れたオンボロドールの律を、わざわざ金を出して得たというのか?

今まで、オーナーに律を捨てに行くよう命じられた始が、気まぐれで壊れたドールを拾ったのだとばかり思っていた。


『あなたの復帰を願う客は多かった。オーナーも破格の修繕費を出してあなたを修理しようとしていました。止めたのは私です。そして私は、壊れかけたあなたを買いました』

「壊れたドールをかよ――アホじゃないか、あんた」

『それでも私には高すぎて。おかげで、ためていた金は全てパアです。一文無しになってしまいました』


始の凪いだ苦笑が聞こえてきそうな語調だ。

律は無意識に耳を澄ませた。

無性に始の声が聴きたかった。


『人生で一番高い買い物でしたが、一番嬉しい買い物でもあったのですよ』


遠い記憶を懐古するかのように、少しの間を置き、パネルは言葉を続けた。


『買い取ったあなたを連れて店を出て、[ゴミ捨て場]、スクラップ場に連れて行ったのは、あなたの恐れを助長させるためです。あなたを怯えさせたかった。私は優越感を味わいたかった。見下したかった。嘲笑いたかった。踏み付けたかった。私はあなたに、勝ちたかった』


いつもの丁寧語を忘れて、過ぎ去った日を語る文字は、まるで違う人間のもののようだ。


『そんな醜い私に、あなたは言ったでしょう』

「始――」

『「あんたは、頑張って生きろよ」って』




そう――たしかに律は言った。


『ドールにだって、原則禁忌を侵さない程度の生存本能は、備えられているでしょう。なのに、もうすぐ捨てられるというのに、命乞いもせず、あなたは』


次の言葉を浮かべないパネルを横目に、律は腕に抱いた始の頬を手の平で包んだ。

冷たい。指の先から凍えてしまいそうな冷たさだ。

間違っても生物の体温ではない。

さっきから、ずっとこうして抱き寄せて、温もりを与えているのに。

ドールの熱源さえ、始の身体は受け取らないのだ。


本当に始の意識が宿っているのは、カプセルの枕元に設置された記憶媒体の中だ。

しかし、律にとっての始は、こうして目に見えて触れることのできる、タムラ始の肉体に他ならなかった。


「俺のこと、憎んでいるのか?」

『言ったでしょう。人生で一番高い買い物だったけど、一番嬉しい買い物でもあった、と』


問いの答えになっていない文字列に、律は始を睨んだ。

パネルの言葉は律を翻弄するように、惑わせるように、夜空に瞬く星のごとく次から次へと浮かんでは消えてゆく。


『あなたの目がね、綺麗だった』


くすくすと、無邪気に笑う始の姿が目に浮かぶようだ。

本当に楽しかったり嬉しかったとき、始は子供のように幼い笑顔で、小さな笑い声を零すのだ。

ずっと見ていたくなる、律の大好きな表情だった。


『遠くから、ずっと見ていた。照明を暗く落とした店の中で、あなたの瞳だけが青く、夢のように煌めいていた。いくら眺めても飽きない、お伽話に出てくる宝物の宝石みたいだった』


ため息ほどの間を置いて、電子の言葉が浮かぶ。


『真っ暗い[ゴミ捨て場]で見たあなたの目も、相変わらず青くて。輝いていて。現実とは思えないくらい、綺麗だった。あなたは綺麗だった』


始の意識体は、宇宙のような記憶媒体の中で、どんな映像を思い浮かべているのだろう。


『自分の心配をすればいいのに、いつも他人の痛みばかり気にして。それはあなたがドールだから? あなたがあなただから?』


答えない律を気にすることなく、パネルは始の文字を宿した。


『あなたの言葉を聞いて、己の感情しか見えない自分が、ひどく恥ずかしくなった』

「始、もういい――」


自分で自分を打っているような台詞が、律にも痛かった。

慰めるように始の身体を抱いて揺すり上げ、はたと気付く。

そうだ、始の身体はもう、死んでいるのだ。

こうして律と触れ合っていることを、始は感じられないのだ。

自分の身体はすでに生命活動を止めたと告げた、始の言葉を思い出す。


――今はもう、何も感じません。




『せっかくの生を投げ出して、何事にも無関心に生きて。もっと精一杯生きれば、良かったのに。馬鹿ですね、私は悲しいお馬鹿さんでしたね』

「始は馬鹿じゃない」

『馬鹿です。大馬鹿者でした』


過去形の表現が、律の心機を痛ませた。

こんなに痛んでばかりでは、自分もすぐに死ぬかもしれない。

埒もない考えに、律はそこはかとなく酔い痴れた。


『輪廻があるとしたら、今度は人間には生まれてきたくないですねえ。また同じことを繰り返しそうだ。猫とか犬とか、ああ、植物でもいいかもしれない。無垢なドールでもいいですね。私が憧れたあなたのような、美しい[人形](ドール)に』


それは、人間として生きてきた始自身を否定する言葉だ。


『こんな罪深く、愚かな生き物にはもう、自分でもこりごりです』

「俺は、どんなあんたでもかまわない」

『おや、そうですか』


真摯な律の声をはぐらかす、なんとも始らしい意地の悪い言葉だ。

始に影響されて、パネルまで性格がねじ曲がったのかもしれない。

先程から徐々にバックライトが弱まっていて、電工盤の文字が読みにくい。


『再びあなたと出会って、語り合い、共に生きたい。あなたに会いたい。そう願う私は、やはり愚かな人間ですね』

「愚かじゃない。俺もそうだ。始に会いたい。始と話したい。始、始と――」

『あなたを買って良かった』


その一行が、律の左の眼窩に、忘れていた疼きを連れ戻した。

甘く熱く疼いて、律の人工知能を狂わせる。

込み上げる想いのまま、心を音に、音を言葉にして、唇から生み落とす。


「じゃあ、俺が人間に生まれるよ」

『あなたが?』

「罪深くて愚かな人間には、俺がなる。あんたは憧れの綺麗な[人形](ドール)になればいい。それで――」


それで、と息を接ぎ、律は微笑んだ。


[人形](ドール)のあんたを、今度は俺が買うよ」


音にならない言葉が、空間に溢れた。

律は始の想いを感じた。

自分の想いも、電子の海さえ遥かに越えて、始に届いていることだろう。


『それは、楽しみですね』


カーソルが躊躇うように点滅してから、新しい文字を浮かべる。


『とても楽しみです』



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