第七夜:絵渡り
違うの。違う。こんなんじゃない!
私が描きたいのはこんな色じゃない。
絵筆を投げ出せば、虚しくからりと床を転がっていく音がする。
もうコンクールまで時間が無いというのに、キャンパスはちっとも埋まってくれない。
徹夜続きで、心はどんどんすさんできて、キャンパスの真ん中に激情を表すように真っ赤な絵具でバッテンを書いたのはいつの事か覚えていない。
実に馴染んだはずの匂いが、癇に障るようになったのはいつの事?
傍らのマグマップの中身はとっくの昔になくなっている。
一度、おもいっきり寝てしまおうと思ってもささくれ立った気持ちでは、ふかふかの毛布だって癒しにはならない。
「ねぇ」
「ねぇ、ここで寝てもいい?」
ああ、嫌だ。幻聴まで聞こえてくるなんて。
よっぽど病んでいるのだろうか。
こんな絵具臭くて寝心地悪そうなところで寝ようなんて、物好きな幻聴だ。
唯一寝れそうなソファーは、物置と化している。
「お好きにどうぞ」
会話している私も物好きね。ただの変態?
「ありがとう。ふふ、この淡いピンクいいなぁと思ってたんだよね。寝心地よさそうだもん。ちょっとこのペケは邪魔だけど……」
何のことだろう。
寝心地のよさそうなピンク?
そんなもの部屋に置いた覚えはない。
目を開けてみても、そんなもの見当たらないし、声の主も当たり前だがいない。
「ほんと邪魔ね」
「……」
キャンパスの赤いバッテンの上に、青いしみが付いている。
深い青に、きらめきが混じる不思議な色合い。
そんな色を作った覚えも塗った覚えもない。
目を凝らしてみれば、それが僅かに動いている。
「虫!」
咄嗟に払いのけたキャンパスは、大きな音を立てて、床と激突した。
激突の瞬間、甲高い悲鳴が聞こえた気がするが、気のせいに違いない。
「だれが虫よ!失礼ね」
その声に、キャンパスを覗き込むと、やはり居た。
けれど、どうやら虫ではないらしい。
手足があって、小さな顔もある。
青いのは彼女が着ているローブと帽子の色。
「幻覚じゃないわよ」
ついに幻まで見えると頬を抓ろうとしたら、そんな声が届いた。
親指大の少女は、手を組んで此方を睨んでいる。
「……私、おかしくなったの?」
「アナタが可笑しいかはともかく、私はローサ。絵渡りローサ。虫でも幻覚でもないわ」
「絵渡り?」
「そうよ。世界中の絵を渡り歩くの。今日は歩き疲れたから、アナタの絵で一休みしようと思って」
「意味が分からないんですけど」
「頭悪いのね」
ひどい言葉を吐くと、ローサと名乗った変な少女は、赤いバッテンに足をかけよじ登るとピンクの背景へと倒れこんだ。
可笑しな光景だ。
「信じられない……」
「煩いわね。信じられないなら、信じなくても良いわよ。朝になったらお暇するわ」
「……なんで?」
「行くところなんて山ほどあるのよ」
「……なんで私のところ?」
山ほどあるならなおのこと。どうしてスランプに陥った自分のところに来るのかさっぱり分からない。
「良いと思ったからよ。この色寝心地がよさそうだったの」
「こんなのが?」
「そうよ。一晩足を止めてみるのもいいくらいにわね」
ローサは欠伸をした。
目尻にたまった涙を拭くと、目を閉じる。
「明かりを消してくれると嬉しいわ」
「えっ、……ああ。そうね」
言われるがまま電気を消してしまうと、しばらくぶりの闇が全身を包む。
そういえば太陽の光りを浴びたのいつだろう。
闇の中で、何故か反対のものが頭をしめる。
アノ本の続き読んでないや。
新作のケーキ出たかしら。
全然関係のないことがとめどなく溢れてきて、眠気が襲ってくる。
やはり眠かったのだ。
眠れないと思っていたけれど、体は眠れと言っていたのだ。
「寝心地はどう?」
ローサは、やっぱり幻覚?
「なかなかいいわ。私の目利きは確かなの」
まぁ、どうでもいいか。
もう眠ってしまおう。
今ならきっと、優しいピンクの夢が見れそうだ。
目が覚めたら、ローサが褒めてくれた絵を完成させてみるのも良いかもしれない。
「今度は二晩泊まってもいいと思う色を作って頂戴な」




