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第六夜:子守唄

 明かりの消えた部屋。

 それでも煌々と光る月に照らされて青白く光る。

そんな中、女は手鏡に己の顔を映す。

 白髪と深く刻まれた皺が女の年を物語る。


「もう、すっかりおばぁちゃんね」


 それでも女は美しかった。

 すぐそこに死期が迫っていようとも、どんなときよりも穏やかだった。

 木漏れ日の中で読書するときよりも。

 孫たちと戯れるときよりも。

 穏やかに微笑み、窓から見える月を抱いた海をみつめた。

 記憶が蘇り、一層暖かになる。


「幸せね」


 自分自身に言った言葉。

 答えなど決まっていて、質問など返ってくるはずではなかった。


「もう少し、幸せになってみたくはありませんか?」


 不意に現れたのは見知らぬもの。

 新月の闇を纏った青年だった。


「こんばんは」


女は夜の訪問者を快く迎えた。


「驚かないのですね」


「私は長く生きたもの。その間に驚くことはたくさんあったわ。」



「そうですか」


「ええ。年月では貴方に及ばないけれど」


「私をご存知で?」


「わたしのおばぁ様から聞いたことがあるの。満月の夜に現れた吟遊詩人のこと」


「……吟遊詩人ですか」


 戸惑った声を出す青年に女は微笑んだ。


「そうよ。おばぁ様はまだ子供で、たった一人で留守番を頼まれた夜のことよ。怖ろしくて眠れなかったときに夢幻ジンを呼び出すお呪いをしたの、そうしたら願いを叶えてくれるという人が現れたんですって。おばぁ様は歌をねだったのよ」


(怖ろしいことなんて、全て忘れてしまうほど美しい声だったよ)


「あなたが吟遊詩人?」


「さぁ?」


「願いを叶えにきてくれたの?」


「ええ。貴女が望むなら吟遊詩人になりますよ」


 青年は首を傾げる。

 さぁ、願い事は?


「わたし、もうすぐ死んでしまうでしょうね」


 それは確信に近い言葉。

 青年は何も言わない。


「長く生きたものね」


 白くなった髪。

 体中に刻まれた皺。

 ベッドから起き上がることもままならない。

 老いは日増しに進み、自覚できるほど先は短い。

 それでも


「幸せなのよ」


 決して楽な暮らしばかりではなかった。

 夫にも先立たれた。

 けれど、子どもが生まれ、孫が生まれ、優しさが増幅していく。


「幸せなのよ」


 女は目を細めた。

 全てを愛しむように。

 これ以上何を望むというのだろう。

 若さを取り戻す?

 老いていく事さえ愛しいのに。

 子どもたちの輝きを見つめ、自分の奇跡を辿る。

 死からの脱却を?

 その間際さえも幸福なのに。

 きっと愛しいものたちに送られるのだろう。

 恐れは感じない。


(とても美しい歌声よ。けれど少し哀しい)


「あなたの願い事は?」


「私の?」


 青年は怪訝そうな顔をした。

 こんな質問をされたことなどないのだ。


(後悔したの。あの人のお願いを聞いてあげればよかったって)


「そうよ」


「……私は貴女の願い事が聞きたいのですが」


「わたしの願いはあなたの願いを聞くことよ」


「……」


 青年は長いこと沈黙していた。

 長い間、人の願いを聞き続けた者の願い事は?

 立ち尽くす青年を女は暖かく見守る。


(お礼も言っていないの。途中で眠ってしまったのね。目が覚めたら、彼はいなかった)


 丸い月が傾きかけた頃、青年はようやく口を開いた。


「名を……」


「名前?」


「名前を呼んで欲しいかな。もう私の本当の名を呼ぶものはいないから」


 青年はひどく寂しそうにわらった。

 どんなものも、陽の中で生きる限り、彼と共にあることはできない。

 全て朽ち果て、彼を置いて逝く。


「そう。あなたの名前は?」


「……ジルフォード」


 どれほどぶりであろうか己の名を告げるのは。

 

「ジルフォード。いい名前ね」


 何百年ぶりであろうか。

 陽の者が彼の名を呼ぶのは。


「ジルフォード。来てくれてありがとう」


(もう一度会えたら、必ずお礼を言うわ」


「おばあ様の分もお礼を言うわ。歌を歌ってくれてありがとう」


「…どういたしまして。…………本当にこんなことで?」


 いいのかと言葉は続かなかった。


「ええ。言ったでしょう。ジルフォード。幸せなのよ」


「……」


「よかったら歌って。おばぁ様に聞かせた歌を」


 ゆっくりとした旋律。

 それは祈り子の子守唄。

 さざなみと共に押し寄せて、血潮と連動していく。

 母胎のように暖かく、静かに心に浸透して魂を満たす。

 器からあふれ出したものは辺りに広がって、全てを優しく包み込み、緩やかな幸福が落ちてくる。


「おやすみ。ジルフォード」


 青い瞳は閉ざされる。

 けれども微笑みは変わらない

 天の調べのなか、もう哀しさは見つからない。


「おやすみなさい」


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