第一夜:翁
空が朱と藍に挟まれて、全てが色を失う昼と夜の間を逢魔ヶ時と呼ぶそうだ。人ならざるものに出会ってしまう恐ろしい時間。
けれど、ほんの短い時間。何かと逢ってしまう確率など、ひどく少ないに違いない。
「お嬢ちゃん。お嬢ちゃん」
糸のように細い目の男が手招きする。
あれは人じゃない。影の形が違うもの。
「お嬢ちゃん」
異形にあうのは稀だから、恐れるのだ。
それが常なら、恐ろしさも麻痺してしまう。
「お父さん、屋根の上に変なものが居るよ」
「そんなつまらない嘘を言うもんじゃないよ」
「嘘じゃないよ。だって、ほら……」
そう言って指差した私を父はおかしなものを見るような目でみた。
きっと、屋根の上でうごめく何かを見つけた私と同じ目だったに違いない。
己の見るものが人と違うと知った時、私はその存在を口にするのを止めたのだ。
手招きされるよりも、奇異な目を向ける人の方が遥かに恐ろしい。
誰もが言う。あの子はおかしい。
もう小さな子供じゃない。
見えてはならないものの区別はつくようになった。
だから、それを切り離して私は普通の人になったのだ。
学校の帰り道。
川沿いの桜並木。
ひときわ古く大きな桜は八分咲き。
見惚れるような光景に、小さな違和感。
細い枝の上に腰掛ける老人が居る。
花を見上げる人々に笑いかけ、時折枝をゆすり花を散らし、歓声をあげる人々にまた目を細める。
交わってしまった視線を瞬時にそらした。
桜の木の上に老人が座っているはずがない。あれは幻だ。
例え物心ついた日から、この季節に出会っていたとしても。
日毎に芽吹く蕾と同じ速度で育つ老人の着物に描かれた桜がどんなに好きだったとしても。
見えてはいけないのだ。
「お嬢ちゃん」
初めて聞くその声は柔らかく、思わず返事をしてしまいそうになる。
十数年、この道を通っているが、声をかけられたのは初めてだ。
「お嬢ちゃん、見えることが辛いかい?」
その問いに答えるわけにわいかない。
だって見えていないのだから。
「お嬢ちゃんは幸せものだよ?あの連中より、ずっと美しく季節が過ぎていくのを知ることができるだろう」
老人は、顔を付き合わせてヒソヒソと話ながら此方を見る二人を指差した。
変わり者の私の話をしているのだろう。
「わしのような者にも会えるしな」
老人がおどけて着物の裾をちょいとあげる。描かれた桜が一気に花開き、風に揺れた。
綺麗と出掛けた言葉を飲み込むと、老人は残念そうに微笑んだ。
その表情があまりにも哀しげで心臓がキュッと苦しくなって、そこにいることが出来なくなって駆け出した。
「嫌わないでやっておくれよ」
背中にぶつかった言葉にも振り向くことが出来なくて、逃げるように桜のトンネルをくぐりぬけた。
何日も何日も、遠回りしてあの道を避けていた。
一昨日の雨と突風で満開だった桜も散ってしまっただろう。
あの老人は花が散った後は姿を見せない。
きっと春風に乗って北に行ってしまったに違いない。また来年まであうこともないだろう。
「あれ…」
視界が開ける。見事だった桜並木に穴があった。
そこにあったはずの老木が無惨な切り口を晒してなくなっている。
「……」
あまりに強い風に耐えることが出来なかったのだと気付いたのは、ずっと後になってからのことだ。
その時は、ただ涙が流れた。もう二度と逢うことができない悲しさに。
あの老人が桜の精であったのか、それとも春告げの者だったのか…知ることさえ出来なくなった。
「お嬢さん」
優しい声に、はっとして振り返った。
その勢いと泣き顔に声をかけてきたおばあさんは驚いたようだったが、声と同じ優しげな笑みを浮かべた。
「どうしたのかしら?」
その声があまりに優しく心を満たすから、普通のふりをするのをやめてしまった。
「嫌ってなんかいなかったの。彼らのこと好きだったのに、見えないふりしたの…変な子って思われるのが嫌だった。でも嫌ってなんか…」
けれど、伝えることもできなかった。
どうして、あの時伝えなかったのか。
後悔は涙となって溢れでる。
「大丈夫よ。彼らは私たちよりずっと長くいきているのよ。きっと知ってたわ。伝わっていたわよ」
「おばあさんも…」
ー見えていたの?
その問いは笑みにかきけされ、強い風が二人の間を抜けた。
「季節が移っていくのね」
風に乗る薄衣をまとった美しい人が、その目に写っていたかは分からない。
けれど、「綺麗ね」その言葉にただ頷いた。
あの日言わなかった分まで強く。




