96、湖畔の町防衛戦17 sideアスタロテ ~戦略七~
天魔こと、アスタロテが白兵戦に弱いのは、魔族の間で実しやかに語られる噂のひとつであった。
――曰く、ちょっと走っただけで息を切らす。
――曰く、少し重いものが持ち上げられない。
――曰く、肉体を鍛えることに懐疑的だ。
それは、頭脳と魔力に長けていたからこそ、短所を克服するよりも長所を伸ばすことに固執した結果ということなのだろう。
事実、現在は常人には成し得ぬ十四もの魔法の同時行使と、竜軍師ファルカオの策を見破る慧眼を見せている。
天は二物も三物もアスタロテに与えたようだが、どうにも体を動かす才能だけは与えなかったようだ。
いや、正確にいうと、魔法で何でも出来るのだから、体を鍛える必要性を感じていなかったというのが正しいのか。
故に、一度白兵戦に持ち込まれたアスタロテは、驚く程に弱い。
それはもう、攻撃に特化したわけでもないルーファスの一撃を受けて、艶っぽく息を荒らげてしまう程に弱いのだ。
震える腕で体を支えながら、アスタロテはゆっくりとその場に立ち上がろうとする。
だが、そんな彼女の目の前に塞がるようにして、立つ人影がある。
――無論のこと、ルーファスである
「天魔……ッ」
彼は血走った目と、わなわなと震える唇で、恨み言のように言葉を発する。
「貴様……ッ」
ルーファスの手にあるのは、風魔法で創りだされた極太の棍だ。
攻撃範囲が広く、刃物と違って取り回しが良い上に、風で出来ているので驚く程軽い。
早さを信条としている彼としては、風の武器は実に使い勝手が良いことだろう。
逆にそれで殴られたアスタロテの方は、その表情を気持ちのままに歪めていたが……。
そんなアスタロテの様子にも気付かぬ様子で、ルーファスは鬼の形相を浮かべて唾を飛ばす。
……それが、精一杯の抵抗であるかのように。
「俺に……、何を……、したァ……ッ!」
憤怒の形相のままに、ルーファスの体は怒りにプルプルと震える。
……だが、それだけだ。
それ以上は動けないし、動かせもしない。
むしろ、アスタロテを殴った場所から、此処まで一瞬で移動してきたルーファスを褒め称えるべきだろう。
十二柱将の中でも、速度に関して突出していることを謳い文句にしているだけはある。
アスタロテはその様子を確かめた上で、小さく息を吐く。
これ以上、動かれたのならどうしよう、と思っていたことはおくびにも出さない。
「煙幕の中に少々強烈な毒を仕込みましたわ……。それこそ、十二柱将様でも動けなくなるレベルのものですわ……」
「まさか……、あの爆炎……」
「初手で爆発を起こしておけば、勝手に勘違いして足を止めると思っていました……。あれは、ただの煙幕……。爆炎ではございませんわ……。ただ、闇雲に進めば音が鳴る仕掛けは施していましたけども……。どちらにしろ、ルーファス様はあの煙幕の中、足を止めざるを得なかったのですわ……」
そして、その煙幕の中にそれと判らぬように混ぜたのは、粘膜から吸収される強力な毒素だ。
アスタロテに不似合いなコートには、攻撃を受けた際にその毒素と煙幕を周囲に撒き散らす仕掛けが施されていたのである。
その仕掛けを作った拓斗と、その毒素を用意した琴美には感謝してもしきれないといったところか。
彼女は、ゆっくりと懐からひとつのクッキーを取り出し、自らの影の中へと向かって投げ入れる。
【闇魔法】影走り――。
その魔法は、影の中の空間へ物質を送り込む、もしくは、影から影へ術者が渡ることができるといった効果がある。
そして、彼女は自分の影の中へ、『目印』となるクッキーを投げ入れた。
そのクッキーには、琴美が作ってくれた毒素に対する高い解毒作用があり、服用者はこの辺一帯に撒かれた毒素に対して高い抵抗力を持つことになるだろう。
故に、彼女の隊の冒険者に被害はなく、ルーファスが率いていた魔族たちにのみ、強い痺れと倦怠感が訪れているはずだ。
「それで……、俺の動きを止めて……、俺にトドメを刺すつもりか……、天魔……」
「いえ……、ルーファス様には申し訳ないのですけれど……」
よろよろと立ち上がろうとするアスタロテ――。
――その背中を、影から突き出してきた細い腕が支える。
「ルーファス様には、もっと酷い目にあって貰うことになるかと思いますわ……」
「まさに天魔……、その二つ名は……、伊達ではないな……」
アスタロテの影の中から出てきた腕は、彼女の背を支え、体を支え、やがてその白磁のような肌を陽光の下、露わにする。
「すまない、遅くなってしまったか?」
そう言って、煌めく金髪を零すのはスーツを着用しているキルメヒアだ。
彼女もまた、【闇魔法】影走りの使い手であった。
恐らくは湖畔の町の司令室から、森門までを影を抜けてやってきたのだろう。
影の中に沈み込むクッキーを目印にして、その影を目指せば、アスタロテの居場所まで一直線というわけだ。
「合図通りですので、問題ありませんわ……。それよりも、クッキーは……?」
「あぁ、指示書通り頂いている」
そう言って、キルメヒアは自身のスーツの懐より魔族文字で七と記載のされたカードを掲げてみせる。
それを見たアスタロテは気が抜けたのか、思わず笑みを零していた。
「重畳ですわ」
「あぁ。そして、この指示書には続きもあったな」
キルメヒアは目の前で哀れに立ち尽くすルーファスを、冷酷な目付きのまま見据える。
その視線に危険なものを感じとったのか、ルーファスは首筋に震えが走るのを止められない。
「その視線……、その佇まい……、只者ではないな……、貴様……」
ルーファス・カーマインがカイン・キルメヒアの姿を見たのは、凡そ五十年ほど前の話になるか。
その時のキルメヒアは、男の姿をしていた。
故に、彼は『彼女がキルメヒアである』と判断できない。
だからか。
ファルカオに口を酸っぱくして言われていた『カイン発見と同時に、報せを入れよ』の命令を実行しなかったのは。
その辺の動きは、恐らくアスタロテにも読めてはいまい。
まさしく、偶然の産物――、いや、キルメヒアを惚れさせた浩助の手柄か。
何せ、彼女は惚れた相手に合わせて性別を変えるという特殊な習性を持っているのだから。
キルメヒアはルーファスの問いに答えることもなく、実に嫌そうに彼に近付くとその耳元に唇を寄せる。
「何を……?」
訝しむルーファスに対するキルメヒアの対応は、無慈悲にして無情だ。
「不運だったな、ルーファス・カーマイン」
異常発達した犬歯が、ガッとルーファスの首筋に突き立てられる。
普段は闘気で覆われ、軽い斬撃ぐらいなら通さないルーファスの皮膚も、キルメヒアの犬歯の前では薄紙を破るようにあっさりと傷を付けられ、その血を止め処なく垂れ流してしまう。
そんな中、ルーファスが驚きに視線を動かすが……、抵抗できたのもそこまでだ。
キルメヒアは大して美味くもなさそうに、ルーファスの血を啜ると、その唇を濡らす朱で丁寧に自分の唇にルージュを引く。
これは、昔から血を吸った後の彼女の癖だ。
血を吸った者に対する感謝と……、鎮魂の意味を伴った儀式――。
「……これで、貴様は自分の眷属となった。理解できるか、ルーファス・カーマイン?」
「…………。……はい。理解できます」
ルーファスの瞳から次第に色が失せ、その緊張していた体から力が抜けていく。
それを見て、アスタロテはクッキーをキルメヒアに投げ渡していた。
そのクッキーをキルメヒアはルーファスの口を開け、無理矢理喉の奥へと突っ込む。
「嚥下しろ」
「……はい」
言われるがままにルーファスは従い、人形のようにただただ彼はキルメヒアの指示を待つ。
痺れが取れるまでにはもう少し時間が掛かるだろうが、言っても五分は掛かるまい。
それだけ、『吸血鬼』の身体能力というのは常軌を逸する。
そう、ルーファスは最早速度を売りにしているだけのチンケな魔族などではない。
栄光ある吸血鬼の末席にその名を連ねたのだ。
聞く者が聞けば、身震いするほどの光栄。
だが、キルメヒアは面白くもなさそうに続ける。
「お前はこれからアスタロテの手足となって働け。これは命令だ。絶対にこの命令は順守しろ」
「……はい」
「では、アスタロテ。後は任せるぞ」
「えぇ、有難う。キルメヒア」
そこまで言うとキルメヒアは自分の仕事は終わったとばかりに影の中へと帰っていく。
後に残されたのは、傷ついたアスタロテと従順な下僕と成り下がったルーファスのみ……。
アスタロテはその可愛らしい唇を開いて、少しだけ躊躇った後で言葉を続ける。
「ルーファス『さん』、申し訳御座いませんけど、あそこで罠に嵌っている御自分の元配下の血を全員分吸ってきては下さらないかしら?」
「……それは、眷属を増やせということですか?」
「えぇ、丸々、貴方の配下を全て吸血鬼に変えて欲しいの」
「……それが、主より命令権を譲渡されたアスタロテ様の『命令』ならば」
ルーファスは動き出す。
動きはまだぎこちないが、大分、痺れの方は回復してきたようである。
この分なら、ルーファスは自慢の速度を活かして、あっという間に自分の部下たちを吸血鬼へと変えていくことだろう。
そうなれば、ルーファス隊は丸々、湖畔の町の防衛に回せる戦力となる。
「敵三千の部隊が、大した労なくして味方三千へと変わる……。相変わらず、キルメヒアの戦略兵器としての役割は大したものですわ……」
ゆっくりとルーファスの部隊が、アスタロテの部隊に変わっていくのを見ながら、アスタロテは艶然と微笑む。
その視界の片隅では、慌てた様子で薬瓶を持ってくる明菜の姿が映し出されており、アスタロテは彼女を心配させないためにもゆっくりと柔らかく微笑みを浮かべるのであった。




