117、湖畔の町防衛戦38 side??? ~終幕、そして2~
「退いていく……? ベリアル軍が……?」
吸血鬼の軍勢を率いながら、道中を急いでいたアスタロテが何かに気付いたかのように、呆然と言葉を吐き出す。
魔族が退く理由――。
その理由は多々考えられたが、その中で最も可能性が高い一つを弾き出し、アスタロテは上空を見上げる。
宙に浮く椅子に座りながら見上げる先には、黒い鳥のような影が空を横切る姿が見えた。
その影が、何やら子供のような人影を腕に抱いているのが見えた気がして、アスタロテは端的にルーファス・ヴァンパイアに指示を飛ばす。
「三人一組となって、あの上空の影を追って下さい! 目的地が判明した時点で報告に一人返すようお願い致しますわ! あと、なるべく見つからないようにお願い致します!」
承知、とばかりにルーファスと他二人の吸血鬼が頷いて隊列を離れていく。
空を行く飛行物体に、地上からの追跡が成功するとも思えないが、それでもルーファスの部隊は魔族の中でも随一の行軍速度を信条とした部隊であった。
一縷の望みを賭けてみても、分の悪い賭けにはならないはずである。
「頼みますわ……。私の予想では……、いえ、此処でそれを言っても詮無き事ですわね」
今は、敗走しかけている田中隊の後詰めに向かったキルメヒアの援護に向かうのが先だ。
そもそも、総大将のキルメヒアが前線に立っている、この事態が異常なのだ。
ともすれば、戦局が一気に決してしまうだけの危うさを秘めている。
「全くもうっ、無茶ばかりして、私を心配させないで欲しいものですわ……!」
臍を噛む思いで苛立ちの篭った嘆息を吐き出し、アスタロテは彼女には珍しく眉根を寄せるのであった。
●
「伊角先生! 敵軍が退いていくんですけど、どうしますか!?」
「そんなの無視です! それよりも、怪我をしている人の手当てを優先して頂戴! 逃げる敵より、救える命です!」
「は……、はい!」
「私も有馬君に教えて貰ったから、【スキル】応急処置くらいはできます! 治療がし易いように怪我人を一箇所に集めて――」
「あの、先生っ、その……、亡くなってしまった人たちは……、どうしましょう……?」
「…………」
生徒からのその言葉を聞き、真砂子は一瞬言葉を失う。
この戦場では、そこまで生徒たちに被害が出ていないとはいえ、それでも儚くも命を散らしてしまった者たちがいる。
その事を考えると、真砂子はきゅぅと心臓が締め付けられるかのような苦しさを覚えるのだ。
失ってしまった命は戻らない。それは、世の理だ。
だが、この世界は、真砂子の知る世界の理で動いているのか?
それを疑った時、真砂子は大声で檄を飛ばしていた。
「命を落とした子たちも一緒に集めて! なるべく欠損を無くすよう回復に努めます!」
「え、でも……」
「勿論、薬に制限はあるから、生きている子が優先です! ですが、此処は異世界です! 蘇生の方法がないとも限らないでしょう! それが、判明した時のため、遺体はなるべく綺麗な状態で保存するようにして頂戴!」
「は、はい!」
「では、始めましょう! あ、勿論、警戒するのも忘れないで下さいね! 何処に危険が潜んでいるか、分かりませんから!」
パンパンと両手を叩く、真砂子の号令に従って冒険者たちが一斉に動き始める。
まだ望みは薄いものの、真砂子の『蘇生の手段があるかも』という考えは、人々に希望を与え、その動きを軽やかなものへと変える。
その様子をしっかりと観察していた真砂子は、総合司令部へ念話を繋ぐと、死者の蘇生に関しての可能性と、遺体の保存状態についてを連絡事項として手早く通達する。
(これが、少しは生徒たちの心の負担を軽くする事に繋がれば良いのだけど……)
言ってから気が付く。
その言葉は、そのまま自分自身にも当てはまっているという事に……。
(可能性としては薄いかもしれない現実を拠り所にするなんて、そんなの不確定で良くない事なのに……)
それでも、真砂子の胸の苦しみが幾分か柔らかくなっている事を知り、彼女は嘆息を吐き出すしかない。
心のケアが必要なのは、生徒たちだけではない。
教師にもそれが必要なのだ。
(それが、分かっただけでも僥倖かしら……)
そう思うのと同時に、決して自分で吐いた言葉を嘘にしないよう真砂子はしっかりと計算を始めるのであった。
●
『くっ、申し訳ありません、お嬢……! 俺たちの事は見捨てて、この戦場から撤退を……!』
『なっ、何を言っているのです……!? 貴方たちは私の部下という以前に、家族のような存在です! そんな貴方たちを置いていくなんてわけには……!?』
『ですが、もうベリアル軍全体に撤退の合図が出てるんです……! 動けねぇ俺たちは正直足手まといだ! だから、せめてお嬢だけでも……!』
『……そんなっ! そんな事、私は認めません! 私もっ! 私も一緒に残ります!』
『いけねぇ、お嬢! 危険だ! ここは敵陣のど真ん中! こんな中で残るなんて、お嬢の身に何かがあったりしたら、俺たちは……!』
『嫌なのです! 私の家族に何か危険が及ぶなんて事は! それなら私が先頭に立って露払いを行います!』
『お、お嬢……!』
じぃ~んと胸打たれた様子で、潤む眼をアイリーンに向ける河馬の魔族。
その様子を脇からこっそりと見守っていた琴美は、にべもなく言う。
『食べ過ぎで動けないだけの癖に、何言ってんスか?』
『うるせぇ! 俺だってこんな間抜けな理由で戦闘不能になりたくなかったわ! でも、この料理が美味過ぎるんだから、仕方ねぇじゃねぇか!』
憤りながらも褒めるところは褒める。
昔気質の頑固職人か何かか、と琴美は心の中でツッコむ。
『――というわけですので、私たちアイリーン隊は降参致します。後生ですので、捕虜としての最低限の待遇を約束しては頂けませんでしょうか?』
『……捕虜? そんなもの要らねぇよ。腹減ってきたら、勝手に帰れ』
移動式屋台のテーブルやら、椅子やらを手際よく片付けながら、国崎慶次はシッシッと片手を振る。
それを慈悲と受け取ったのか、アイリーンは少しだけ頬を赤く染めながら、それでも、と喰いついてくる。
『ですが、この場での我々の敗北は確かです。それなのに、何も罰を受けないというのも……』
『そもそも、この町の人口よりも多い捕虜なんか受け入れられるわけがないだろうが。それに、急に人口が増えれば、食料の問題も噴出する。だから、動けるようになった奴から、さっさと魔界にでも何でも帰れ。それで、今回は終ぇだ』
慶次の言うことは最もで、現在の湖畔の町に捕虜五百人を受け入れるだけの許容量はない。
いや、土地面積的には、それだけの人数を収容したところで何の問題もないだろうが、現在の湖畔の町の人口が少なすぎるのだ。
その状態で受け入れるのは、流石に無謀が過ぎる。
『ですが、それでは敗北者としての示しがつきません!』
『知らねぇよ。それより、俺は急いでいるんだ。邪魔すんな』
戦後処理など瑣末事。
慶次には、今すぐにでも自分の目と耳で確認すべき案件があった。
『ダチの安否を確認しなきゃなんねぇんだ……。どうでも良い事で、俺を煩わせるなよ?』
それは、先程まで店を切り盛りしていた無愛想ながらも、職人気質な男の言葉とは思えない程に冷たく昏い。
その変化に気付かぬ程、アイリーンは愚鈍ではなかったが、それでも縋り付くような目で慶次を見上げてくる。
『ならば、敗北者である私は、自分で罰を背負います!』
『はぁ?』
『私だけを虜囚として下さい。その上で、我が隊の皆さんを見逃しては貰えませんでしょうか?』
『お嬢、それはっ!』
幾人もの魔族たちがその意見に反応して、その場にコロコロ転がる。
どうやら、反論しているらしい。
その様子を見ていた琴美は、何となく起き上がり小法師を連想する。
真面目なはずなのに、何だか微笑ましい光景である。
『負けた以上、誰かしらがケジメを付けねばなりません! それは、この隊の指揮官である私にこそ相応しいでしょう!』
『で、ですがっ! お嬢は大親父殿の血筋を引いた御人! そんな御方を残して、我々だけ助かろうというのは……ッ!』
『良いのです。これが敗軍の将の努めですから……』
勝手に盛り上がるアイリーンと部下たちの姿を横目で見ながら、慶次は勝手にしてくれという思いでいっぱいであった。
というか、こんなところで茶番を繰り広げる暇があるのなら、則夫の安否を確認したいぐらいなのだ。
気の抜けた嘆息ををひとつ吐き、慶次は「勝手にしてくれ」と告げて、バイクに跨る。
なら、勝手にしますというような声が返ってきたような気がしたが、慶次はそれどころではない。
「美丘、後は任せる。上手くやってくれ」
「う、上手くッスか? 難しいッスけどやってみるッス……」
動揺する琴美を残し、慶次はバイクを浮き上がらせる。
「行くぜ、相棒」
慶次はそう短く呟くと、戦場であった場所を後にするのであった。
●
『ベリアル様、ファルカオ様より伝令です! 目的のモノは奪取した! 帰還されたし! だそうです!』
『……ぉう、そうか。……っすがはファルカオ、やるじゃねぇか』
『……何だい、尻尾を巻いて逃げるのかい?』
ベリアルの周囲を覆う霧の中から、薄い笑みを浮かべてキルメヒアが現出する。
その姿は、まさに霧と一体化したかの如くに不確かなもので、攻撃を加えたところでも手応えがないのは、何度とないぶつかり合いの中で既にベリアルが実証済の事実である。
彼はキルメヒアの姿を見るなり、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
『……正面からも戦えない臆病者が良く言う。……ちょろちょろ逃げるだけで、攻撃してこねぇ。……鼠か、テメェは?』
『それだけ、君を評価しているってことさ。【固定】されては敵わないからね』
『……まぁいいさ、どっちにしろ不毛な追いかけっこは此処までだ。……目的は達した。テメェはテメェの軽いケツを心底悔やむんだな』
『何……?』
『……引き上げるぞ、テメェら。……ちんたらするんじゃねぇ』
言うなり、ベリアルはあっさりと背を向けて戦場を後にしようとする。
隙だらけの背中ではあったが、不意打ちが成功する気配が微塵もない。
それが、魔界四天王の中でも一番の武闘派、ベリアル・ブラッドという事なのだろう。
その悪魔じみた背中からは、助かったという感情しか浮かび上がってこない。
ベリアルの背が十分に見えなくなってから、ゆっくりと黒い霧が集束していく。
それは、やがてキルメヒアの外套となり、彼女はそれを誇示するかのようにばさりと翻していた。
「まさか、アンちゃん……!?」
そう言うキルメヒアの表情は、ついぞ見たことが無いほどに苦り切っていたのであった。