100、湖畔の町防衛戦21 side則夫 ~砕心~
「田中君、ちょっといいかな?」
湖畔の町が、人族と魔族の戦場となるその三十分前――。
作戦会議本部でもある、有馬旅館の廊下にて田中則夫は柳田美優に呼び止められていた。
確か、彼女は則夫と同じ隊(通称、田中隊)に所属されることになっており、不慣れな戦闘の準備に追われていたはずなのだが、その様子には先程までの焦りが見られない。
どちらかといえば、どこか緊張した面持ちであると則夫は感じる。
「……どうしたでござるか?」
――無味乾燥。
表情の全く動かぬままに、則夫は問い返す。
現状、湖畔の町は魔族に囲まれている。
アスタロテの予想では、昼頃に魔族の襲撃があるだろうということだが、なるべく早めに戦闘準備は終わらしておきたいとばかりに、則夫は掻き込むようにして昼飯を食べ、拓斗の蔵出し装備を部隊員へ配給し、作戦や行動の指針を固めていたのだが――。
そんな中を一体何事か。
どうやら、美優は則夫に話があるようだ。
則夫の無機質な視線に、一瞬、美優は怯みかけるが、意を決したのか、大きく吐息を吐き出すと、決意を込めた瞳で則夫を見つめてきていた。
則夫は思わず視線を逸らす。
……どうも、こういった真っ直ぐな態度というものが苦手なようだ。
「少しだけ時間をくれないかな?」
「それは、作戦や装備の話でござるか? それなら歩きながらでも……」
「うぅん、もっと大事な話」
美優の真剣な視線に則夫は言葉を失う。
あまり我が強い方ではない彼女からのお願いというのも珍しい。
則夫は残りのスケジュールを考えながら、まだ時間的な猶予があると判断し、美優の言葉に静かに頷く。
「分かったでござる。ただし、あまり長くは取れないでござるよ?」
「うん。ありがと」
満面の笑みを浮かべるなり、美優は則夫の手を取って歩き始める。
普通ならその行為にどぎまぎしたり、照れたりしようものなのだが、則夫の感情は変わらない。
あの時から、ずっとこうだ。
彼の感情は何かが抜け落ちてしまったかのように、抑揚というものが薄くなってしまった。
唯一、彼が心を取り戻せるとしたら、沙也加関連の出来事の時だけであろうか。
(御蔭様か、【傍観者】などという良く訳の分からないスキルがMAXになってしまったぐらいでござる……。これは、もしかしたら、スキルの要因もあるのかもしれぬでござるな……)
それを大して重要な事として捉えず、則夫は他人事のように思う。
それが、人間として色々と欠落した結果であるということを知らずに……。
●
「ここだよ、入って」
「一体、何でござるか……?」
怪訝な表情で則夫が部屋に入るのとほぼ同時――。
「おい、柳田。こんな所に呼び出して一体何の用だよ?」
――部屋の中から聞き覚えのある声が響く。
「……オタナカ? ……どういうことだ、柳田?」
有馬旅館の誰も使用していない一室にて、完全武装の状態で待機していたのは小日向龍一であった。
彼は、部屋に現れた則夫を一瞥すると、あからさまに視線を外して美優の方にその意識を向ける。
龍一が則夫に良い感情を抱いていないことは、則夫も知っていたことだが、やはり面と向かってやられると無味乾燥の彼としても精神的に辛いものがあるか。
則夫は静かに龍一から視線を外していた。
「うん、少し二人で話し合って欲しかったから……」
「あぁ!? コイツと話すことなんかねぇよ!」
「小日向君が田中君のことを嫌ってるのは知っているよ……?」
凄む龍一に、美優は臆することなくそう返す。
本来なら凄まれた時点で、ろくに返事を返せない程気の小さい彼女なのだが、今日ばかりは違うというのか、真っ直ぐ龍一の目を見て、その言葉を繋ぐ。
「……でも、これから私達は戦場に出るんだよ。……死んじゃうかもしれない場に立つんだよ。……今日で今生の別れになっちゃうかもしれないんだよ」
美優の頬が興奮したように朱に染まり、それが本気で考えた結果の言葉であることを二人に如実に伝える。
それが分かるからこそ、龍一は渋い顔を見せる。
「……同じクラスの仲間だっていうのに、喧嘩別れしたまま、そんなことになったら絶対悔いが残ると思う。だから、仲直り……、できないかな?」
美優は勇気を振り絞って、二人にそう告げる。
彼女としては精一杯のセッティングに、精一杯の配慮を重ねた言葉を投げかけたつもりであった。
だが、則夫の表情は暗いまま変わらないし、龍一の表情も優れない。
美優は根気良く二人の言葉を待ち――。
「……悪いが、そいつはできない相談だ」
先に拒絶を示したのは、龍一の方であった。
彼は憎悪と嫌悪を含んだ瞳で則夫を睨むと、吐き捨てるようにして言葉を絞り出す。
「俺はあの時の事を忘れねぇし、忘れるつもりもねぇ……」
あの時――希望が絶望に変わった時のことは、今も龍一の胸の奥に刻み込まれている。
あの時のことを思い出すだけでも、嘔吐感を覚えるほどなのだ。
誰が、そんな状態で全てを水に流して手を取り合うことができようか。
「コイツは俺たちを裏切った。それが事実で、それが本質だ。柳田、お前も俺と同じでコイツの隊に配属させられたみたいだが、コイツは危なくなったら平気で俺たちを裏切るぞ。その覚悟だけはちゃんと固めとけ。いざとなった時に裏切られたショックで動けなくなってもらっても困るからな」
「…………」
龍一の言葉に何を返すでもなく、則夫はその会話を傍聴し続ける。
「た、田中君はそんなことしないよ! 何言ってるの、小日向君……!?」
「……本性ってのは、本当にヤバイ時になったら現れるもんだ。コイツの本性は腐ってやがるのさ。それを納得した上で俺は戦えって言ってるんだ」
「そんなこと……」
美優の記憶の中の則夫は決して、そんな男ではない。
死にそうな美優を助けてくれて、死にそうだった慶次を助けてくれて、クエストが難しいからと手伝いを頼む時には、何も言わずに手伝ってくれるような優しい男だ。
悪い人間ではないし、むしろ、頼れる人間ぐらいには思っている。
……だが、同時に、則夫の内面を覗いたことがないのも事実なのだ。
――彼は我を出さない。
出さないようにしているというよりも、根本的に主体性が薄いために本質が見えてこないといった方が正しいか。
だからだろう。
美優は龍一の意見を頭ごなしに否定することができない。
それだけ、則夫のことを分かっていないと言われたような気がして、彼女は唇を強く噛む。
(田中君に、『見てて』って言われたのに……)
命を救ってもらった代償に、田中則夫という男を見ていて欲しいと言われたのに、その本質にまで及んでいなかったと知り、美優は臍を噛む。
そして、その本質が一体何であるのか測れていないことにも落ち込む。
「……オタナカ、テメーにも言っておくぜ。戦場で俺が死にそうになっても関わるんじゃねぇ。その代わり、俺もテメーがピンチになろうが関わらねぇ。その方が、互いに気が楽だろ?」
「拙者は……」
だが、二の句が続かずに則夫は言葉を飲み込む。
それを了承と受け取ったのか、元々答えなど期待していなかったのか、龍一は話は終わりだとばかりに無言のままに部屋を出て行く。
その足音はどこか粗雑で乱暴で、彼自身の内から出る怒りを体現しているかのようであった。
苛立った、もしくはささくれ立った気持ちが透けて見える。
「私……、余計なこと……、したかな……?」
止める暇もなく、部屋を出ていった龍一の背を見ながら、美優は悲しいやら、悔しいやら、複雑な感情が入り混じった表情を浮かべていた。
全ては良かれと思ってやったことだ。
死ぬかもしれない明日を思って、最善だと思った行動を実行に移しただけである。
だが、結果は、誰も得をせず、いたずらに時を使って心の傷を抉ったのみ――。
美優は、自分の力不足が悔しくて思わず眦に涙を溜める。
こんなつもりではなかった――。
その表情はそう言いたげだ。
だが、それを慰める言葉を則夫は持っていない。
いや、そんな余裕が則夫には無かったというべきか。
「……はぁはぁ。……くぅ」
「……田中、君?」
則夫の様子がおかしい。
見つめる美優の目の前の則夫はいつもの無味乾燥とした、何を考えているのか分からない表情を青褪めさせ、激しくなる動悸を押さえつけるかのように、荒く短い呼吸を繰り返していた。
まるで心不全のような症状に、美優も思わず駆け寄る。
「大丈夫!? 田中君!? ど、どうしよう!? そ、そうだ! 薬! 琴美ちゃんから薬を貰ってくるね!」
そう言って、駆け出そうとする美優の手が取られる。
則夫は真っ青な顔をしながら、ゆっくりと頭を振っていた。
「……はぁはぁ。……大丈夫でござる。心配ないでござるよ……」
「し、心配ないって……」
「これぐらいなら……、五分もすれば収まるでござる……」
「そ、そうなの……?」
そもそも、則夫の『コレ』は肉体に起因するものではなく、精神に起因するものだ。
感情を鈍らせるような薬でも服用すれば、改善されるかもしれないが、これから戦場に赴こうという時に、判断力が鈍るのは避けたかった。
やがて、則夫の言葉通りに、五分程経ったところで則夫は体調を復調させる。
相変わらず、小日向龍一とは相性が悪い――、そう思わずにはいられなくなるほどに、則夫は龍一に精神的障害を抱えていた。
「落ち着いたでござる……」
「大丈夫、なんだよね……?」
小声で確認してくる美優に対し、則夫は頷きを返す。
どちらにしろ、則夫がここでリタイアすることは許されない。
状況が苦しくなろうと、状態が芳しくなかろうと、則夫には激戦区で働いて貰わねばならない。
何せ、八大守護でも上位を任せられる則夫の代わりはいないのだから――。
「では、拙者は行くでござるよ……」
「え……? そんな、もう少し休んでも……」
「美優殿……、もうあまり時間は残されておらぬのでござるよ……」
戦闘開始である正午までは最早二時間を切っている。
則夫はそれまでに、部隊を整備し、戦える状態を作っておかなければならない。
一応、軍備のやり方については、アスタロテに最初に軽く講習を受けていたが、それでも不備に備えてなるべくなら早くに動きたいという思いがあった。
「だ、だったら、私も手伝うよ!」
「…………。分かったでござる……」
二人は肩を並べて歩く。
戦闘開始までには、あまり猶予は残されていなかった。