トラウマ
「で、今度は何?」
翌日の昼休み、優歌はまたも悠斗の元を訪れた。
「合唱部に入ってください」
「断る」
全くの即答だった。
「えー、いいじゃんケチ」
「ケチじゃない」
昨日あれだけ断ったというのにこの少女は未だ諦めないのだろうか、それとも見学に行ってしまったことがまずかったのだろうか。いや、まずかったのだろう。
「まぁいいんだ、今日はそれだけを言いにきたわけじゃないし」
優歌は上機嫌に言葉を発した。
「昨日は来てくれてありがとうね! アドバイスもすごい参考になったし。何より私の歌を聞いてくれてありがとう!」
そう言った優歌はとても嬉しそうで。少し照れくさそうだった。
「いや、それは、どういたしまして」
しどろもどろになりながら答える悠斗に彼女は、それでね。と更に言葉をかけた。
「今日も放課後音楽室に来て欲しいんだけど……」
少し尻すぼみになりながらも優歌は言う。
「いや、俺は」
「お願いだから」
優歌は懇願する。
「いや、だから俺は」
優歌は更に懇願を重ねた。
「ねぇ、お願い」
「だから」
「お願い」
「――わかったよ」
不承不承といったばかりに悠斗はため息を吐いた。
「ほんとだね! 聞いたからね!」
彼女は撮ぼ上がらんばかりに喜ぶとその足を教室の外へ向けた。
「じゃあ放課後待ってるから!」
そう言い自らの廊下へと出て行く少女を悠斗は見守るのだった。
昨日彼女の歌声を聞いて歌いたくならなかったといえば嘘になる。
彼女の歌声に惹かれてしまったことも事実だ。
だがそう感じてしまう度にもはや呪いと化したあの言葉が脳裏をよぎる。
『ずっと私のためだけに歌ってね』
と。その度にもう自分は歌わないのだと心に深く刻み込んだ。
だというのに。
なぜまたも音楽室へと足を向けているのだろうか。
否、その理由はわかりきっていた。それだけ彼女の声に惹かれてしまっている自分がいたのだ。
そして……。
「葛西君、今日は歌ってくれる?」
彼女はそう言って微笑むのだった。
「だから、俺は歌わないって何度言えば……」
その言葉に彼女は拗ねるでもなく穏やかに微笑んだままだった。
おかしい、そう付き合いは深くないがこの少女のリアクションが多少過剰なことは知っていた。だというのに、今は何のリアクションもなくただ微笑むだけ。明らかにおかしい。
「どうして歌わないの?」
それは、と悠斗は俯いてそう言いよどむ。
「『ずっと私のためだけに歌ってね』」
その言葉に悠斗は弾かれるように顔を上げた
「なんでそれを」
「葛西君、あなたが歌わなくなった原因を、私は知ってる」
彼は驚愕に目を見開き、一歩後ろへと後ずさった。
「なんで……それを知っている」
「その上で私はあなたにお願いしたいの。お願い、貴方に歌ってほしいの」
「……嫌だ」
悠斗は首を振る。
「葛西君が昔何をしていたのか私は知ってる。貴方は昔」
「――言うなっ」
「昔、葛西君、貴方は昔歌、天使の歌声って評価された天才ボーイソプラノ歌手だった。でも、ある時期から表舞台に全然でなくなった。みんなは声変わりしたんだろうって噂してたんだけど……実際は違うよね?」
そう、実際には違う。たしかに声変わりをして以前の歌声など見る影もないほどに低くなって、しまったが。それが全てではない、むしろ原因の一端でしかない。
だが今重要なっことはそれではない。この少女がなぜそれを知っているのか……。昔のことは調べれば出てくることだ、知っていても不思議ではない。だが、あの言葉だけは知っているはずがないのだ。
「――もういい」
何故知っているのか、それすら問いただす気も起こらない。ただ無性にこの場を去りたかった。
「帰る」
来るんじゃなかった。歌声に惹かれて、等と何をのたまっているのだ。自分はもう歌わないと決めているのだから。全く無駄なことではないか。それどころか知られたくない過去、忘れてはならないトラウマに触れられてしまった。
悠斗は踵を返した。振り返ることもなく扉へと向かい、それを無言で開く。
「それでも――!」
その言葉にぴたりと足を止める。
「それでも私は、貴方に歌って欲しいと思ったから!」
だがその言葉に答えることはなく悠斗は音楽室を後にした。