見学
以前の2話と1話を統合して、加筆しました。
放課後、悠斗は大きくため息を吐いた。あの後、見学だけでもいいから! としつこく粘る優歌に根負けし、見学を了承してしまったのだ。
「俺は、何で」
しかし了承してしまったものは仕方がない、覚悟を決めてここは行くしかない、と悠斗は音楽室へと足を向けた。
「あ、葛西君! 来てくれたんですね!」
音楽室の扉を開けると満面の笑みの優歌が彼を出迎えた。
「……見学、だけだからな」
憮然と言い放つ悠斗に彼女はそれでも笑顔のまま大きく頷いた。
「うんうん、わかってるよ! でも練習を見て入りたくなったらいつでも言ってね!」
じゃあ、これから練習始めるからね! と言い放つ優歌にふと疑問を覚えて悠斗は問いかけた。
「他の部員は?」
「私だけだよ?」
「――は?」
思わず聞き返した悠斗に罪はないはずだ。
「ちょっと待て、如月さんだけって、つまり部員は一人……?」
「そうだよ、言ってなかったっけ」
全くの初耳である。悠斗はそのあんまりな事実に目を覆いたくなった。
これでは合唱部ではなく独唱部である。
つまり。
「部員がいないから俺に声をかけたっと」
「そうだよ、でもそれだけじゃないよ? ほら、もったいないって言ったでしょ?」
確かに言われた。だが、それだけでは悠斗にここまで執着する理由としては薄いような気がする。
もしかしたら彼女は知って(・・・)いる(・・)のかもしれない。
だが、そうだとしてもそれは関係のないことだ、悠斗にとっては全て終わったことなのである。
「ほら、練習を始めますよ」
教室の奥にあるピアノの前に腰掛けていた若い先生が声を上げた。彼女はこの高校の音楽教師、伊月奈々代。おそらくこの合唱部の顧問もしているのであろう。
「葛西君も、今日は見学と聞いていますけど、もし歌いたくなったら歌っていってもいいんですよ?」
そう言う先生へと悠斗はペコリと一礼をすると適当な席へと腰を下ろした。
「それでは発声練習からはじめましょうね」
発声練習、合唱部ならば必ずと言って通る道だろう。練習を行う前に声を出し喉を開き慣らしていく作業である。また声を使う者としての重要な基礎訓練でもあるのだが。
――これは。
想像以上である。
彼女の高く澄んだその声音は聞く者の心を癒す。これがただの発声練習だとしても、だ。
綺麗な頭声のファルセットから、複式呼吸のしっかりした低音まで、音域はおよそ3オクターブ程だろうか。
その声を聞くだけでわかる、この少女は才能に溢れている。しっかりと指導さえすれば化ける逸材だ、と。
「はい、それまで」
伊月先生の声に優歌は発声練習を終える。そして大きく息を吐いた。
「あー、緊張したー」
その声に先生はクスリと笑みをこぼす。
「でも、いつもより声出てましたよ? いつもこの調子なら言うことないのですけれど」
それを言わないで! と優歌は笑って答える。
「ね、葛西君、どうだった? 歌いたくなった?」
いや、と悠斗は首を振る。
「そっかぁ、じゃあ仕方ないね」
なら私の歌で歌いたくさせたらいいだけだから! と優歌は自信ありげに言うのであった。
「今日はね、葛西君が見学に来てくれるってことだからね、誰でも知ってる曲を歌うことにしたの!」
じゃーん、と彼の目の前に広げられた楽譜のタイトルは『翼をください』日本人ならば誰しもが耳にしたことのある、言わずと知れた名曲だ。
「これなら歌いたくなってもすぐ歌えるでしょ? 授業でもやってたから男子パート覚えてるよね?」
はい、これあげる、と彼女は悠斗へと楽譜のコピーを渡した。
「あ、あぁ、ありがとう」
じゃあ歌いましょうか! と優歌は悠斗へと手を差し出す、思わずその手を掴みかけたが瞬時に我に返る。
「いや、俺は歌わないからな!」
その言葉に優歌は冗談だよ、と笑ってピアノの側へと歩み寄った。
「じゃあ、先生よろしくお願いします!」
はいはい、と呆れたように笑う伊月先生は、ピアノに向き直った。
そうして始まるピアノ伴奏、そして優歌は歌いだした。
――今、私の願い事が叶うならば、翼が欲しい。
素晴らしい歌声だ……やはり頭声がきれいに出ており声に淀みがまったくない。
だが、やはりというべきか、ピッチを外す部分が目立って見えた。
いや、これだけ素晴らしい歌声を持っているからこそ、そのミスが目立つのだろう。
本人もそれを自覚しているのか、歌っている姿に余裕はなかった。
むしろ全身を緊張させているかのように力んでいる。
先生もそれを知ってのことか苦笑を浮かべていた。
これは、音痴というよりも歌い方に問題があるように悠斗には思えた。
だが彼女には才能がある。人を惹きつけてしまう何かを彼女は持っている。
優歌の歌を聞いて彼はそう確信した。
そして曲は最後のサビへと入る。だが、その時優歌の声が裏返る、体を緊張させすぎたのだろう。優歌もそれを自覚してか恥ずかしそうに頬を赤く染める。
一曲が終わり優歌は悠斗を伺うように見た。
「あの……どうだった?」
悠斗は迷う、正直に言っていいものかどうか。
「酷評でもいいから、正直に言って欲しいな」
彼女は彼のその迷いを読み取ったかのように言葉を発する。
悠斗は伊月先生へと視線を向ける。
本当に言ってもいいのか、と。
先生はゆっくりと頷いた。これは許可が下りたと判断してもいいだろう。
「まず言うなら、ピッチが合ってない」
うっ、と優歌はうめき声をあげる。
「それと力みすぎ」
うぐ、とまたも彼女からうめき声があがる。
「最後声裏返ってた」
もはや彼女はなにも言わなかった。
「あぁ、それから」
「ま、まだあるの?」
彼女は悠斗へと縋るような声を上げた。
「自覚なかったのか?」
「せ、先生によく言われるけど」
そうか、ならよかったと悠斗は頷いた。
「まぁ、指摘するだけなら誰にだって出来ると思うから、少しアドバイスをしようか」
その言葉に優歌は一気に顔を明るくした。
「まず最初にピッチを合わせるためには音をよく聞くこと、発声練習の時にはできてたんだから、先生にお願いして自分のパートだけを弾いてもらえばいい、それかパート練習用の音源を聞いてそれに合わせて歌うか、とにかく音をよく意識すること」
うんうん、と頷く優歌の姿を確認して悠斗は言葉を続ける。
「最後声が裏返ったのはおそらく力みすぎているからだと思う、全身が緊張しているから声に余裕もなくなる、もっと力を抜いてリラックスするといい。多分如月さんは自分の歌がよくピッチを外すことを理解しているんだと思う。だから間違えないようにと力んでしまって余計に声に余裕がなくなるという悪循環が生まれるんだ。だから、それに気をつければいい。」
それと、と悠斗は更に言葉を重ねた。
「最後に、笑顔」
笑顔? と優歌は首をかしげる。
「そう、笑顔、合唱は暗い顔で歌っていても暗い声しか出ない。明るい声、綺麗な声を出そうと思うのなら笑顔は必須だ。もちろん、ただ普通に笑えばいいってものじゃないけど」
そこまで言って悠斗は我に返った。いくら優歌が素材として優秀だとしてもここまでアドバイスしてやる義理などなかったのだ。
それに、調子にのって講釈を垂れたが、もう自分は歌をやめた身、これは出過ぎた真似だったことだろう。そもそも、自分はもう歌うつもりなどないのだから、こうしていることも無駄だろう。
「……悪い、いろいろと言いすぎた」
謝る悠斗に彼女は首を横に振った。
「ううん、そんなことないよ、私は葛西君がアドバイスしてくれてとても嬉しいよ!」
その笑顔にかつての少女の面影を重ねてしまった。
『ずっと私のためだけに歌ってね』
そう、悠斗に呪いを残した少女に。
「――っ」
彼は椅子から立ち上がると鞄を掴んだ。
「どうしたの?」
その行動に優歌は疑問を示す。
「悪い、今日はもう帰る」
悠斗の言葉に難色を示すと思われた優歌だが。
「そっか、気をつけてね?」
とあっさりと了承したのである。
「先生も今日はありがとうございました」
伊月先生へと一礼をし、彼は出口へと足を運ぶ。
扉を開いて、少し立ち止まると。後ろを振り返り。
「部活、頑張れよ」
そう、告げた。






