全ての始まり
駄文ですけれどどうか読んでやってください
今でも忘れることなどできない。あの熱気を、あの喝采を。
この体を包み込んだ熱狂的なまでの高揚感、そして凍りつくかのような緊張感。
叶うならばもう一度あの舞台へ立ちたい。だがその願いが叶うことはないだろう。
ならばこの願いは捨てるべきだろう。いつまでもそんな願いに縋っていられるほど現実は甘くないのだから。そう思っていた。
だが、その意固地に凝り固まったこの心を解きほぐした人がいた。
意固地に凝り固まった心を解きほぐした歌があった。
かつての舞台とは違う、規模も責任も何もかもが違う、だが彼女は俺をもう一度あの舞台へと押し上げてくれたのだ。
まずは、彼女との出会いから、話していくこととしよう。
春……が過ぎ夏も盛りに差し掛かり、日に日に近づいてくる夏休みに生徒が心躍らせている頃、少年は一人、選択を迫られていた。
「えぇっと、ごめん、もう一度お願いできる?」
対面に立つ少女は瞳をキラキラと輝かせながら少年へと死刑宣告にも似たその言葉を放ったのだった。
「だから、葛西君、合唱部に入ってください!」
「お断りします」
一考の余地もない全くの即答だった。
「な、なんでですか、葛西君部活入ってないはずですよね」
確かに少年、葛西悠斗はどこの部活動にも属してはいなかったが、それとこれとは話が別である。――そもそも悠斗が部活動に所属していないことを何故この少女が知っているのか、甚だ疑問ではあるが。
歌が嫌いというわけではない。合唱を特別嫌悪しているわけでもない。ただ悠斗は歌わない(・・・・)、そう決めているのだ。
「申し訳ないけど、お断りします」
今朝学校へと登校すると下駄箱に一通の手紙が入っていた。この電子メールどころか、すぐにでも連絡の取れるアプリケーションのあるこの時代になんと古風な、などと思わないでもなかったが、そこは悠斗とて男子高校生である。悲しいかなラブレターという物に夢を抱いてしまう年頃なのであった。
今になって思えば全ての元凶はこの手紙だったのだろう。
『放課後音楽室まで来てください』
などと書かれてはいたものの、それはラブレターなどと言う夢の詰まった代物などでは決してなかったのであった。
差出人不明のその手紙の指示通りに授業を終えた直後連夜は音楽室へと急いだ。
そしてそこにいたのは一人の女生徒、若干大人しい印象を受けるその少女ならば、なるほどラブレターなどという古典的な呼び出し方法だったことも納得できそうだ。
控えめな印象こそ受けるが容姿は端麗であり、透明感のある美少女とでも評すことが妥当であろうか。
そしてその小さく可愛らしい口から告白の言葉が飛び出すのを楽しみに、連夜は目の前の少女に声をかけたるべく一歩を踏み出したのだが……。
「葛西君、合唱部に入ってもらえませんか!」
これである。思わず聞き返した連夜に落ち度はなかったはずだ。
そんなこんなで冒頭へと戻るわけだが。
「えーと、君は確か音楽の授業で一緒の」
悠斗のその言葉に少女は覚えていてくれたんですね、と目を輝かせた。
だがこの少女と悠斗は面識が薄く、彼女の名前を知るところではなかった。
「そう、私です、如月優歌って言います」
この学校の音楽の授業は選択科目である。音楽の授業を選択した生徒がニクラス合同で行うのだ。故に少女と面識が薄くともしかたがないのである。
「それで、なんでいきなり……というか合唱部だったんだ如月さん」
そう、悠斗の思い違いでなければ、音楽の授業で、一人だけ飛び抜けて声の綺麗な生徒がいたはずなのだが……だがその生徒はたしか。
「そう、確かすごい下手だったよね、歌」
音痴だったのである。
「うぐっ」
優歌は胸を押さえて一歩後ずさる、なんとオーバーリアクションな少女だ。
「それをストレートに言いますか……葛西君」
彼女は恨めしそうにこちらを見つめる。
「いや、悪い……つい」
折角の美声を持っていたのだが、勿体ないと思っていた少女がまさかこの如月優歌だったとは……。
「えーと、それで、用はそれだけかな……」
じゃぁ、また。と踵を返した悠斗の腕を優少女はガシッと掴んだ。
「……何かな?」
悠斗は半目で優歌を見る。
「ですから、合唱部に入ってください!」
繰り返し頼み込む優歌に、悠斗はため息を吐いた。
「なんで俺が……」
当然の疑問である。
「それは……葛西君が男子の中だと一番いい声をしてたから」
その言葉に一瞬悠斗の眉が跳ね上がる。
「勿体ないって思ったの、折角いい声してて、歌も上手かったから。それに授業で合唱やってても真面目に歌う人って少ないでしょ。発声だってしっかりできる人は少ないし……。でも葛西君は違った、真面目に歌ってて発声だってしっかりしてた。だから、是非合唱部に欲しいって思ったの」
少女のその言葉に一瞬過去の情景を思い出す。あの喝采、あの賞賛、熱のこもった高揚感。だが、それらは全て過去のこと、そう、もう戻れないのだ。
それに、今この少女にそれをぶつけても仕方のないことだ。
悠斗は大きなため息をつくと優歌へと向き直った。
「……悪いけど、俺は合唱部には入らないよ、もう歌わないって決めたんだ、授業とか、そういう仕方ないときは歌うけど、それ以外だともう歌わない。もうやめたんだ……だから、他を当たってくれるかな」
じゃあ、と言い連夜は踵を返す、掴まれていた腕は意外と簡単にするりと抜けた。
おかしい、確かにあの時しっかりと断ったはずなのに、なぜこうなった。
悠斗はトイレの個室に篭もり、便座へと腰掛け反芻する。
それは如月優歌の合唱部勧誘事件の翌日のことだった。合唱部への勧誘はしっかりと断った、優歌とはこれで音楽の授業しか接点がなくなったのだ。しかし、少し勿体ないことをしていしまったと悠斗は考える。……可愛い女の子と言葉を交わす等と悠斗には一生縁のないことだと思っていたからだ。
だが、そんな考えはすぐにも覆されることになる。
一限目の授業を終えた後の十分休みのことだった。
「おい、葛西、なんか可愛い女の子がお前に用事だってさ」
その言葉に悠斗は嫌な予感を覚えた。
まさか、とは思いつつ教室を出るとそこにいた人物は、やはりと言うべきか如月優歌だった。
「……昨日断ったはずだけど?」
ため息混じりに言葉を発した悠斗に罪はないはずだ。
「お願いします、合唱部に入ってください!」
優歌は勢いよく頭を下げた。
「いや、頭下げられても困るんだけど……それに昨日、他をあたってくれって言っただろ」
内心辟易しながら答えるも優歌は引く様子はまったくなかった、むしろ。
「嫌です、葛西君あなたじゃないとダメなんです!」
等とのたまう始末だ。それもトーンの高い声で。これでは周囲に誤解を振りまいてしまう。
既に連夜の背後、教室の入口にはギャラリーが出来始めている。
「とりあえず頭を上げてくれ、このままだと俺が周りに誤解される」
「嫌です、お願いを聞いてくれるまで上げません」
周囲の視線が連夜へと刺さる。
女子に頭を下げさせる男、この図は周囲になんと映ることだろうか。
このままでは悠斗の社会的地位が底辺にまで落ちかねない。
そう危惧した時だった。
校内に始業のチャイムが鳴り響いた。
それを合図に優歌は頭を上げると悠斗の顔を見つめた。バッチリと目があった彼は、気まずげに目を逸らす。
「私、諦めませんから!」
そう言い、少女は慌ただしく悠斗の前から去った。
優歌は二限目、三限目、昼休みまでも、悠斗の元を訪れた。二人はその度に同じ問答を繰り返す。五限目の休憩時間、悠斗は男子トイレへと避難した。さしもの優歌もここまでは追ってこれまい。
おかしい、どうしてこうなった……
昨日はしっかりと断った、合唱部に入るつもりはないと確かに伝えたはずだ。
だが彼女は諦めなかった。
一限目の休憩時間、あの時に発せられた諦めない宣言。その言葉の通り彼女は休み時間の度に訪れた。
何故そうまでして自分にこだわるのだろうか……。
そう考えた時だった。
「葛西君! そこにいるのはわかってます! 出てきてくださーい!」
「――なっ」
そして合唱部にはいってくださーい、と言葉は続いた。
そう、彼女は男子トイレの入口、その外側から大声で勧誘したのだ。
「あの子……馬鹿か」
思わずその言葉が悠斗の口からこぼれ落ちる。
「葛西、お前の嫁さんが呼んでるぞ」
「――嫁じゃないっ!」
個室の外から声をかけられ、そう返す。……このままトイレの前で騒がれても迷惑だ。ここは不本意ながら出て行くべきか。
「かーさーいーくーん! おーい、いるのは分かってるんですよーー」
悠斗は一つ大きくため息を吐くと個室の扉を開けるのだった。
「如月さん、うるさい」
「あ、葛西君出てきてくれた!」
嬉しそうに目を輝かせる優歌だったが、悠斗はそれどころではなかった。先ほど優歌が大声で騒いだおかげでまたもギャラリーができていたのだ。
「……合唱部なら入るつもりはないから」
要件は既にわかっている。故に返答に迷いはない。
「この通りです! お願いします!」
優歌は頭を下げ悠斗へと懇願する。
「何度頼まれても答えは同じだよ、いい加減諦めてくれないかな」
「いいえ、絶対に諦めません!」
何度このやり取りを繰り返したことだろうか。
「言っただろ、俺はもう歌わないって」
「――それでもっ!」
悠斗の言葉を遮るように優歌は声を上げた。
「私は貴方に歌って欲しいんです!」
何故……その思いは言葉になることはなかった。何故なら彼女の目があまりにも真剣だったからだ。
1話と2話を統合して加筆しました