日常
恐ろしい事件に警察は動き出す。
彼はもう元の彼ではない。
切り裂きジャックなのだ。
彼は夢を見ていた。
昨夜、殺した女を再び殺す夢だった。悲鳴も上げることができず、ただ静かに倒れ、死んでいく女を見下ろす己を第三者として見ているような夢。
「…夢じゃないからな」
昨夜着ていたYシャツは女の返り血が染み込み、赤く色付き鉄臭い。
仕事用のナイフも血と脂が付着して、手入れをしなければ使うことのできない状態だった。
「時間ない…団長に怒られる…」
彼は、替えのナイフをケースに入れ、汚れたナイフを水を溜めた桶に放り込む。
ついでに汚れた服も突っ込み、替えの仕事着に着替える。
「行ってきます」
誰もいない部屋に一時の別れを告げ、仕事を目指す。
アパートの一室の自分の部屋を出る。
階段をリズミカルに駆け下りながら、『サーカス団』のジャンになる。
道路では、団長の妻と同じアパートに住む主婦が談話していた。
「昨夜、裏道で娼婦らしい女の人が殺されたらしいわよぉ、怖いわねえ」
「最近物騒でやんなっちゃうわよね」
「本当にねえ、しかも凄い殺され方だったらしいのよぉ」
噂はすぐに流れるものである。
半日で、周囲の人々はそれを話のタネにしていた。
思わず苦笑いしながら、その二人に声をかける。
「ずいぶんと物騒ですね」
「あら、ジャンさんったら聞いてたの?もぉ」
「すみません、つい小耳に挿みまして。貴女方も夜道は気を付けてくださいね」
優しさを含んだ声、人間はこの声が大好きだ。
何よりも、『いい人』を人間は好む。
ジャンは誰よりも優しい好青年であることを選び、今も演じていた。
そのこともあって、本性も知られることもなく近所で評判な者となった。
「あいつら本当に馬鹿だな」
思わずほくそ笑み、ジャンは口を手で覆う。
緩んだ口を元に戻し、サーカスの幕をくぐる。
「こんにちわ、団長」
「おお、ジャンか。珍しいなオレより遅いなんて」
人懐っこい目をした団長。
ジャンの命の恩人であり、雇い主だ。
「すみません、ちょっと家の事でありまして」
申し訳なさそうな顔をして言えば、団長も釣られて似たような顔をした。
「そうか、大変だったんだな。もう大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です」
ナイフも服も、後々でも手入れはできるものだ。
手入れを行ったとしても、結局今夜にはまた同じ様な汚れができるのだ。
「そうか。じゃあ、今日も頑張ってくれよ。お前はこの団の稼ぎ頭だからな」
「はい、任せてください。新しいマジックも考えてきたので盛りがると思いますよ」
ジャンの言葉に団長は満足そうに笑うと、「楽しみにしているぞ」と言って、ジャンの肩を叩いて楽屋のほうへ向かった。
「今日も…裏路地に行くか…殺そう…」
一人になった途端に、愛想がなく、抑揚のないジャンになる。
ジャンの目は、殺人犯の目になっていた。
光すら通さぬ漆黒に染まった目、目には見ない血で汚れた両腕。
今日も娼婦がこの世から一人消えて逝った。