3. 秋本圭吾
乗客たちが全員旅客機から避難したであろう直後。
30代と思わしき黒髪のCAが咳払いをしたのち、乗客たちに呼びかけた。
「このあと機長から指示がありますので、皆様はここを動かずにお待ちください」
CAはそれだけを言うと、せわしない様子で茂みの方へ小走りで去って行った。
他の搭乗員の姿も見あたらない。
今後の話し合いでもしているのだろうか。
腕の時計を見ると夜の8時に差し掛かるところだった。
少なくとも私の周りにいる人間で、携帯の通じる者は一人もいない。
私もまた然り。
みな一様に繋がることのない携帯と
にらめっこをしている姿はなんとも滑稽だ。
明日の仕事には間に合うのだろうか。
そういえば、レンタルしたDVDの返却期限も迫っている。
その前に明日はこの災難が朝刊の紙面を飾る事のほうが問題だ。
もしかしたら朝のワイドショーに、保護される自分の姿が映るかもしれない。
こんなことで世間に自分の顔を晒すことになるかもしれないなんて・・・
そんなことをぼんやり考えながら、私は夏の湿った空気を吸い上げた。
一人の男がしびれを切らしたように大きな声をあげた。
「搭乗員はなにをしている?ここはどこだ、これからどうなる!」
声がしたほうへ顔を向けると、南米人らしき男が流暢な日本語でまくし立てていた。
CAの指示に従って避難していた時、
母国語であろう言葉で喚いていたドレッドヘアーの男だ。
ドレッドヘアーの男の言葉に乗客たちがざわつき始めた。
私はと言えば、ドレッドヘアーの男が発した言葉の内容より
見かけによらず、流暢な日本語を話せたことのほうに驚いていた。
いや、でも確かに、搭乗員たちは何をしているのだろう。
CAからの待機指示が出たのが15分ほど前。
そろそろ搭乗員からの状況説明や指示があってもいい頃だ。
いくら緊急事態とはいえ、こういう時のためのマニュアルはあるだろう。
乗客たちがざわつく中、私の視界は20代後半であろう日本人男性を捉えた。
彼は旅客機のほうへ向かって歩いて行く。
思わず私はその男に駆け寄って声をかけた。
「あの、そっちは危険ですよ。引火するかもしれないとさっきCAも言ってましたし」
男が私の方に振り返る。
表情は強張っていた。
「搭乗員を探してきます。それに気になることが」
20代後半だろうか。
男の髪はひどく無造作だったが、長身で精悍な顔つきをしていた。
浅黒く日に焼けた肌に引き締まった身体つき。
こんな時でなければ目の保養にでもなったであろう。
「気になるとはどういう・・・」
私が質問をし終わる前に男は口を開いた。
「引火の恐れがあるという理由で僕らは旅客機から離れたでしょう。
でもさっき、ここに待機するように指示を出したCAが・・・」
「ええ、茂みの方へ走って行ったのを私も見ました」
「そこまでは他の乗客も見ていたはずです。
でも僕、なんとなく気になって見つからないように追いかけたんです。
そうしたら茂みの奥の方にCA2人と機長がいて・・・
何やら話したかと思うと、全員血の気の引いた顔で旅客機の方向へ走り去って行ったんです」
男は紅潮した顔で一気にまくしたてた。
「それになんだか機長の様子がおかしいんですよ」
男は右手の拳を握ったり開いたりしながらうつむく。
心なしか震えているようだった。
「機長の制服の袖が真っ赤に染まっていたんです。
・・・おそらくは人の血液じゃないかと」
心臓が急に跳ね上がった。
一体どういうことだろう。
乗客に負傷者はいないはずだ。
もしかすると搭乗員に負傷者がいたことを
動揺を避けるため、乗客に隠していたのだろうか。
何にせよ重大なトラブルがあったに違いない。
不安と焦燥の中にほんのわずかな好奇心が垣間見えた瞬間、言葉がついて出てしまった。
「私も行きます」
そう言って男の返事を待たずに私は歩きだした。
男は少し驚いたように目を丸くしたが、
安堵した表情で私と肩を並べて歩きだす。
「わかりました。正直一人では心細かったんです。
でも旅客機は危険なので外で離れて待っていてください」
私は黙ってうなずいた。
「僕は秋本圭吾です。よろしく」
ぎこちない笑顔で圭吾は私に名を告げた。
「真咲。篠原真咲です、こちらこそ」
真夏の夜は湿気た空気で、私たちにまとわりつく。
顔に張り付く髪を払いながら、私は圭吾と無言で歩いた。