決着
樹が、いったんエレベーターシャフトを駆け上がり、管理室のスプリンクラーを起動させたのは、ひとえに樹の不在について敵に疑念を抱かせないためである。
カリンが敵の耳を封じた一瞬の隙をついて、樹は何もないコンクリートの壁を勢いよく駆け上がった。人外の行動も、今の樹にとっては出来て当たり前の行為だと感じる。
(間もなく決着がつく。僕一人が”姿を消し”たところで敵は大して気にも留めないだろう。あとは本当に姿を消して下に戻るだけだ。)
(オジサン。難しい仕事を任せちゃてごめんね。でも、無理はしなくていいから。危ないと思ったら、とにかく逃げて)
十四歳の女の子にそこまで気を遣わせるのも恥ずかしいけれど、この作戦、犠牲も出さないことが重要性なのだ。樹が犠牲になってしまっては、栞に伝えたかった言葉が全て虚しいものになってしまう。
樹は両手を強く握りしめ決意を固めると、すうっと姿を消した。それは最終ステップの開始の合図だ。
初めて使うことになる静寂の中の殺意だが、新車のキーを初めて回すほどの不安もなかった。僅かな時間で樹は自分の持つすべての能力を正確に把握できていた。
さぁて、ここからは後戻りをするどころか、立ち止まることも許されない。
エレベーターシャフトへと再び飛び降りると、そこは再び月明かりさえ届かない真の闇だった。
天井からは絶え間なく水しぶきが降り注ぎ、コンクリートの床は全面水に浸っていた。
濡れた地面がパシリと水滴を振るうが、その変化は決して誰にも届くことがない。
走ろうとすると、バシャバシャと水を踏みつける音がする。
その音は、聞こえないのではなく、誰にも意識できないのだ。
(私の位置を伝えるから、適当に近づいて)
(初心者には、その適当って奴が一番難しいんだよ)
樹はボヤキながら暗黒の中を走る。
そして、汗ばんだ手でポケットから何かを取り出した。
これからしようとすることは何も難しいことじゃない。
10歳以上も年下の女の子をとっ捕まえて、ほんの一瞬動きを止めるだけでいいのだ。
障害となるのはこの暗黒と沈黙だけ。打ち破るためには僅かな時間光源を確保すればいい。
大切そうに取り出したのは、ありふれたカップ酒と携帯電話だ。
そうする間にも頭の中に次々と栞の声が届く。
姿こそ見えないが僅かな距離の間に樹と栞、そしてシルエットの3人がいる。
もう十分だ、必要なだけ敵を引き付けた……そんな気がする
判断が正しいのかどうかを再確認するだけの時間はない。
ほんの一瞬でも時間が止まってくれれば、どれだけ助かるのか。
(いくぜ、栞)
合図と同時に樹は震える手で、新着メールを開いた。
液晶の画面が切り替わった瞬間、右手に持っていたカップ酒がほんのりと青く輝く。
(《アルケミカル・カクテル|百薬の長》……成功だ。)
《シリコン・バレー|珪素の帝国》で作成したプログラムを使用できるのは、その《固有魔法|ユニークスキル》の持ち主であるカリンだけである。
だが、プログラムである以上、その起動条件については色々と工夫ができる。たとえば、メールを開けた瞬間起動するコンピュータ・ウィルスのような。
カップの中に入った日本酒は化学的性質を変え、静かに発光している。光は弱弱しいものだが、暗闇の中で、一人の少女の姿を見つけるには十分だった。
ニット帽をかぶった小柄な少女。
今まさに栞の元に迫ろうとしていた。
カップ酒を放り投げると、樹は少女の背後から抱きつくように迫った。
まだ、敵には樹の姿は見えないはずだが、彼女に届いた光はそういう訳にはいかない。
光が像を結ぶということは相互に干渉したということ。
背を向けているシルエットは一瞬だけ反応に遅れたが、確かにその光の存在に気が付いているはずである。
ただその意識はただ真っ直ぐ栞だけを捉えていた。栞は戦闘態勢を解いている。
どんな仕掛けがあろうとも、この距離まで迫ればシャッテンノルムにトドメを刺すには十分だ。自分をおとりに何か罠を仕掛けたようだが、彼女させ始末してしまえば、まだまだ状況は自分に分がある、シルエットはそう考えた。
しかし、完全に意識の外から加えられた衝撃が、彼女の意図をあっけなく砕いた。
できれば覆いかぶさるように取り押さえたかったが、前のめりに迫ったあまり、濡れた床に足を取られてしまい、何とかかんとか太ももにしがみつくので精いっぱいだった。
「やっと、追いついたぜ」
少女にすがりつくような体勢は情けないものだが、その顔は満足に満ちている。
「畜生めぇ」
悪態をつくシルエット。
シルエットはとっさに自分に迫る男の方目がけて手刀を放った。
うめき声を上げる樹。鎖骨は確実に折れたものの一撃が浅かったか、樹は倒れることなく、シルエットの体をひき寄せ、這い上るようにして顔を近づける。
それと同時にシルエットはすべての事態を理解した。
近づいてくる男の首にあるのは、シルエットがその友人にして使い魔であるクロマに与えたはずの宝環である。
「人を使い魔にとは、狂気の沙汰だな」
冷静な言葉とは裏腹に、シルエットの心を支配したのはとめどない怒りだった。
返せ
返せ
返せ
返せ
返せ
返せ
そんな言葉が頭の中をいっぱいに埋め尽くしていた。
言葉が口から漏れなかったのは、あまりに長い間、虚と実を操ってきた彼女の業だったのだろう。
シルエットは、右手で樹の首輪を引っ張ると、左手はその顔を強く押さえつけていた。
その力は尋常ならざるもので、頭蓋骨を石臼で挽かれる様な強烈な痛みに襲われた。
(もう駄目だ死ぬ……と言えれば楽なんだけど)
樹は薄れゆく意識の中で何とかポケットから携帯電話を取り出し、そのまま床に落とした。それは床に落ちるや否やそれは弾けて四散した。
時間稼ぎにはそれで十分。
携帯電話を警戒するあまり、それを無視できなかったことが決定的な遅れを生んだ。
シルエットの背後を捉えた栞は、その巨大なナイフを敵の首に突きたてた。
そのまま喉を貫くかに思えた栞は、一瞬の逡巡の後、手品のようにくるりと回転させ、薙ぎ払うように柄頭を振るう。
脳が揺れる。
シルエットは膝をつき、そのままどうとうつ伏せに倒れた。
それが長い戦いのあっけない幕切れだった。
◇
夜が明けようとする。
全身が痛む
早く部屋に帰ってゆっくりとお風呂に入りたい
満身創痍の少女たちだが、それを許してくれない厄介な仕事が最後に残されていた。
「おめでとう。でも、私を倒したところで、何の解決にもならない」
シルエットは静かに、不敵さを残してそう語った。
「状況は十分に理解してますわ。むしろ、貴方に心配される筋合いはないのだと認めるべきじゃなくて?」
ナツは忌々しげにシルエットを見つめる。
魔法少女にはとても見えない、どこにでもいそうな少女がそこにいた。
栞たちは今からそんな彼女の処遇を決めなければならないのだ。
目覚めるや否や、彼女は最初に仲間の情報は一切漏らすつもりはないと宣言した。
そして、それは虚勢ではなかった。
ナツは、今からどんな目に遭うと思っているのかと威勢よく問い詰めたが、そだちの良い彼女のこと、「とんでもなく酷いことになる」というのが精いっぱいだった。とてもではないが、そんな上品な言葉では脅しには聞こえない。
拷問の手段については、情報中毒のカリンであれば両手で余るほどの知識を披露してくれるだろう。しかし、それを実行に移すだけの残忍さは持ち合わせていない。
そして、栞に至っては、そういう話題が出るだけで悲しそうな顔をして萎れてしまっていた。先ほどの戦いの中では鬼神の如き活躍した彼女も、憑き物がとれたかのよう。
そういう状況だからシルエットは自分の命は安泰だと高をくくっているか、といえばそうではない。
彼女たちが取りうる選択肢は3つ。シルエットを解放する、拘束して同行させる、そして殺害するかである。
シルエットに言わせればそれは選択肢ではない。前の二つは、かろうじて掴んだ勝利、長らえた命を投げ出すに等しいことなのだ。シルエットは、自分が逃げれば、まず間違いなく再び栞たちを倒すための舞い戻ると断言するくらいだ。
「なぜだ。命乞いでもしてみればどうだ」
樹が問う。
「もう、嘘をつくには疲れたのかもね」
そう返答する有様だ。
「いつまでもこうしてはいられませんわ。どうするか投票で決めましょう」
年長者の責任感からナツがそう切り出す。
「恵さんを……殺したこいつを許すことなんてできない」
カリンはそういうと栞を見やる。栞は、一瞬とまどい、黙ったまま頷いた。
しかし、そこまで言うと3人とも黙りこくってしまった。
シルエットにとって、まだ戦いは続いていた。
拷問するもよし、ただ怒りに任せて私を壊すもいい、もっと酷いことだってこの世の中にはある。
私刑にかけるもよし、惨たらしく殺すもよし、あっさりと殺すもよし。
いずれにせよ、それは同時に栞たちの中の何かを殺すことになる。
自分の命と引き換えに、この若い魔法少女たちは何かを失うことになる。
今のシルエットに残せる最後の戦果であり、後輩たちへの教訓である。
決を取ると言いながら、何も言えないナツ。
それを責めるものは誰もいない。
「悪いけれど、ここからは大人の仕事だよ。彼女の処分は全部俺に任せてもらおうかな」
既に結論が出ていることはその場にいる5人すべてが理解していた。
樹は、誰も口を開かないことに満足した様子で静かにそう告げた。
虚をつかれた少女たちは言葉を失っていた。
ただシルエットだけが
「1階の奥に、巨大な冷凍庫がある。あそこなら外に音も聞こえないし、静かでいい」
最初から口を挟むタイミングを見計らっていた風で口を挟む。
栞が鋭くシルエットを睨みつける。
まだ何かを企んでいるのかという疑いの目。
シルエットは飄々とした態度を変えず、突然変身を解くと、左手中指にはめていた指輪を樹に投げてよこした。
「魔法少女を拘束したらまず指輪を奪う。基本なのだけどね」
もちろん1週間程度あれば再構成もできることも忘れないこと。そう付け加えた。
魔法少女でなくなったシルエットは、ニット帽を失い、ミニスカートがパンツに代わった程度でその外見はほとんど変わらない。
「疑いの目は勘弁。種も仕掛けもないってば。オジサンがすべての責任を持つ、うまい考えだね。私の完敗よ」
そういうと自ら樹の腕の抱きつき
「ささ、死刑台までエスコートしてくださいな」
と言い放った。
そのまま樹に手を引かれ、部屋を出ていくシルエットだったga、出口で一度立ち止まり振り向くことなく、後輩たちに語りかけた。
「あの”作戦”で、最も損耗率が高かったのが、5期と6期だったわ。まー、今まで散々先輩に守ってもらってたおかげで、上級生ほど欠員は出てなかったしね。私が配属された班は5・6期だけで構成された特務チームでね、8人いた中で生き残ったのは私1人だった。まーアニメの最終回みたいだなって思ったりしたのよ」
「それは脅しのつもりですか」
ナツが言う。これから続く戦いはもっと過酷だとでも言いたいのか。
「それは言い訳のつもりなのかい」
カリンが言う。だから、自分は人を殺すことにためらうことが無くなったとでも言いたいのか。
「事実だよ」
シルエットは振り返ることなく、そう答えた。
「この世界に最終回なんてない。人はあっけなく死ぬし、死にぞこないに終わりなんて用意されない」
去りゆく彼女に向かって栞は叫んだ。
「それでも、私はハッピーエンドを諦めません」
その気持ちを忘れないことだねとシルエットは言わなかった。
◇
部屋から離れると、シルエットは素っ気なく樹から離れてしまった。どうやら惚れられたわけではないと分かって樹は少し残念に思う。
「あなたが死刑執行人になるというのは、いいアイデアだわね。魔法少女でない貴方は、眠ってしまえば今日のことはすべて夢になる。夢になってしまえばやがてすべてを忘れてしまう」
緊張もしてない様子で世間話のようにそう語る。
魔法に関する一つの基本ルール。しかし、そんなことは知らない樹は、唐突に聞かされた宣告に息をのんだ
しかし、それを悟られまいと強引に話題を変える。
「しかし、俺たちは全員無事でよかったと思っているよ。君がもしも武器を使っていたら、こうはいかなかったと思うよ」
「まー私も色々嘘をついたけど、私は武器は使わないのよ。清掃班と言っても、仲間を殺すなんてことはほとんどないからね。基本は捕縛術。適当に痛めつけたら、改心してくる子がほとんどなのよねぇ」
彼女は、懐かしむような笑顔を見せた。彼女は戦いが終わってからというもの、本当に嘘はついていないのだろう。彼女から毒気のようなものがすっかりと抜け落ちてしまっていることが、樹には分かった。
「それさえ聞ければ十分だよ。俺の疑問も色々と解消した」
と、適当にそんなことを言いながらも、彼女に聞かされた深刻な宣告に内心は激しく揺さぶられていた。
「もうすぐ冷凍庫が見えるよ。まー無理矢理Hなことされても仕方は無いくらいには思ってるけど、できれば死体は綺麗にしておいてほしいかしらねぇ」
「馬鹿野郎。軽口叩いているような状況じゃないだろ。本当に何も考えてないのか、お前」
最後の抵抗くらいは覚悟していた樹なのだが。
「幕は下りた。カーテンコールはお呼びでないでしょう。そうだ、もう私には必要が無いけれど、オジサンには役立つこともあるでしょう。クロエをきちんと葬ってくれたお礼にプレゼントするわ」
クロエという名が使い魔のものだと知ると、樹は、とっさに首に突けた宝環に手をやる。シルエットの本心はわからないけれど、もう返せとは言わないようだ。
樹は、シルエットからのプレゼントを受け取るとそれをポケットにしまい込み、冷凍室の重い扉をそっと開けるのだった。




