4 / - 1 名古屋市×東春日井郡市 壹
打ち捨てられた狭い坑道が、小刻みに揺れていた。
土埃が舞い、封鎖されて久しい入口の木戸が軋む。
朽ちた鎖を引きずる音とともに扉は徐々に開け放たれ、赤黒い甲冑を身に着けた何者かが、そこに足を踏み入れた。半世紀前に亜炭を掘り尽くしたこの鉱山は、今や森となり、外部からの闖入者を拒むはずなのに。天然の要塞と化したこの東春日井の森は、現在、戦場になりつつあった。
◇◇◇
名古屋は古代、海だった。
だから海抜の低い積層学園都市から岐阜へ向かう道は、すべて上り坂となる。
名古屋の旧表記としては那古野が知られているが、本来は「浪越」だ。一万年ほど前は、たしかに浪打ち際であったらしい。
かつて海だった地下の透明なチューブを滑って行くリニアモータ・トレインが、大戦時代のドイツ潜水艦にそっくりの流線形をしていたとしても、ならば不思議ではないか――そんなことを考えていたつい28分前のことを、行政特区《名古屋市》所属の特務少尉・代月 更也は、遠いことのように思い出した。
コンテナに載って市営地下鉄東山線で長久手市に渡り、そこから地下で繋がるいくつかの秘密バイパスを経由して瀬戸市方面から岡多線に入り、そこから旧帝国陸軍時代に利用されていた錆びた線路を、やや簡単に改修された経路へと侵入して輸送されてきた機動小隊は、作戦開始から10分も経たぬうちに36体の《奇行狼筐体》を失っていた。
森に展開した小隊は機械化分隊の集まりだったが、見えない敵はその半数以上をすでに屠り、引き裂いていた。小隊にはすでに有人機しか残っていなかった。
背中を丸めて索敵する小型騎乘裝甲戰鬭機のコクピットで、代月は悔いた。何たる失態だろう。陸上自衛隊で採用されている《奇行狼筐体》の純製品は、1機数千万円はする。いくら学園都市の重機系3Dプリンタで出力した複製品とはいえ、相当な損害額なのは確かだった。
辺りには、純製品ではありえない半透明の炭素系繊維で織られた《奇行狼筐体》の装甲やマシン・フレームの破片が散らばっていた。彼は新卒の地方公務員の身だった。
『敵はおそらく1体だ』
と隊長である柳條 香流中尉から通信が入った。
「――そんな莫迦な。あり得ないですよ」
代月は反論する。
『うるせーしね、平和ボケ』
「……はあ」
アメリカで宇宙開発用に試作されていた人型ロボットを陸自が兵器に転用したという騎乘裝甲戰鬭機に搭乗した彼らは、軍人でも自衛隊員でもなかった。
『――直線的なんだよ。単線的なんだ、《奇行狼筐体》の被害跡を辿ると』
柳條は解析データを隊員に送りながら言う。
やや英語訛りの混じる発音だ。
そもそも相手が武装集団なら、とっくに皆死んでいるだろう。
「じゃあ敵って、いったい何者ですか……どれもほぼ一撃で粉砕してる……砲撃音なんて、聞こえなかった。悪夢でも見てるみたいだ……」
代月は半ば呆然としながら、操縦用サイド・スティックを握り直した。
大戦後の日本で本格的な戦闘などあるはずもなく、彼らは学園都市の戦闘シミュレータでしか戦場を知らなかった。日は高い。頼みの《奇行狼筐体》はもういない。
『気にするな。相手には殺気がない』
柳條の声がコクピットにこだまする。
余裕のある声だった。
――“白狼”
――“上顎の左犬齒”
――“八番目の食餌凶器”
様々な通り名が示す通り、彼女だけが隊で唯一の戦闘経験者だった。
9歳でアメリカに渡り、米国機動陸軍に12歳から参加。秀でた機動兵器の操縦技術と、類まれな戦闘センスを認められ、14歳でソ連軍に交換研修隊員として派遣。正規軍やKGBとの模擬戦闘でも一度も負けがなかったという逸材だ。4年前のペルシア戦線にも従軍していたという。
現在17歳の彼女は、米軍から学園都市の特殊工作師団に引き抜かれていた。
生え抜きの戦士なのだ。
(……殺意がないとか、どうやって証明できるっていうんだ……?)
代月は頭を抱えたくなった。
『いいか? 各自、銃砲火器の安全装置は外しておけ、指示あれば撃て』
楽しそうに彼女は言う。
『――ただし、目的は牽制だ。間違っても追うな。逃げながら撃てよ?』
辺りは広葉樹の森だった。
また、緩やかだが山稜の中腹だった。
向かう先は岐阜と愛知の県境に存在する、内津という地域にある神社――実際には、その社の下に存在する古墳――だったが、もはやその任務は達成できそうになかった。
『なお、総矢獨景さんからの指示だが、敵と話したいそうなのでBR投影端末筐体を置いていく。あと敵をおとなしくさせるために私がしんがりをつとめる予定なので、邪魔にならないよう全力で戦線を離脱すること。いいな?』
対Gスーツの中でパキポキと関節を鳴らしながら、柳條は言った。
騎乘裝甲戰鬭機の性能を最も引き出せるのは子ども――それも少女であると言われている。反射神経と脳梁の厚さが関係しているらしいが、詳しいことはまだ分かっていない。
少なくとも柳條は騎乘裝甲戰鬭機の優秀な感性であり、脳下垂体であり、運動神経だった。彼女はまた、優秀な軍人であると同時に、戦場における優秀な機械仕掛けの神――手垢のついた言い方をすれば、最終兵器だったのである。
「あの、敵が、話の通じる相手ではなかったら……?」
『それは先生が判断するそうだ。では、撤退開始!』
通信は途切れ、夏の風になびく葉と、枝々の軋む音だけが辺りに満ちた。
隊長機だけを残し、その他8機の騎乘裝甲戰鬭機が3キロ手前の鉄道まで引き返すため、低姿勢で後ずさり始める。4機がレーザー・ライフルを、あとの4機が榴弾を油断なく(と本人たちは思っていたが、所詮はこれが初戦の素人だが)構えながら、そろそろと樹々の間を後退した。
よく見れば、森の地面のいたるところに暗い窖が覗いている。
蟲の巣のように。熊の巣のように。
あそこにいるのは何なのだろう?
代月は肌が粟立つのを感じる。
複合積層学園都市が騎乘裝甲戰鬭機に独自に組み込んでいる、戦闘補助人工知性《ŠEMAGLiG》によれば、敵は少なくとも宇宙船体用チタニウム合金の8割程度の硬度を持ち、瞬間的に200km/hの速度を見せたという。
(大戦時代の自動防衛兵器なんじゃないのか……?)
代月は冷や汗を拭いながら考える。
この辺りには戦時中、旧日本軍の軍事施設が存在したということは知っていた。
これは都市伝説にすぎないが、第二次世界大戰時、日本はすでに技術的には自律作動する人工知性を開発していたらしい。もちろん樞軸國であった日本は、蒸氣機關計算機でそれを完成したというのである。紙のパンチ・カードで制御された人工知性が自律し、自己複製しながら未だに地下で生き残っているという可能性は、なかなかにゾッとしない話だった。
ただ、第二次世界大戰に、大東亞戰爭――これらは事実として樞軸國と連合國の決戰であったと同時に、蒸氣機關計算機陣營と電子機關計算機陣營との決戰であったのは確かだった。世界はそうして電子演算機の時代へと塗り替えられ、現在に至る。
(……「人は人のために狼であってはならない」――……か……)
代月は、高校時代、教科書で読んだ「一九四三年、冬の手帳」という詩の一節を心の中で呟いた。大正生まれの千早耿一郎という詩人が、徴兵を断った牧師の処遇と生き様を描いた詩の一節だった――代月は苦笑してしまった。ここは確かに「戦場」かもしれないが、これは戦争ではない。戦争ごっこですらない……。
後退しながら彼は、前線に残った隊長機が、腰の鞘からブレードを引き抜いて構えたのを見ながら、
(彼女は、人のために狼で――いや、狼であるために、彼女は人の中で生きているのか……)
と、その背中に頼もしさと罪深さを感じたその時だった。
突然、彼の騎乘裝甲戰鬭機は足場を失った。
機体の脚が旧亜炭抗の天井を踏み抜き、5メートルの機体の半身は地面に消えそして――、
そして、偶然にも放置されていた掘削用の衝撃爆薬が、自失した代月がフルオート乱射したアサルト・ライフルのレーザーに引火し――代月の機体を巻き込んで、瞬く間に爆散した。
騎乘裝甲戰鬭機の装甲は衝撃に耐えた。
だが火炎と熱は別だった。
瞬間的にコクピットは蒸し焼きとなり、代月の眼球は一瞬で涙を蒸発させた後に破裂し、そして地獄の痛みに絶叫した彼の声が、無線によって分隊のすべての機体に響き渡った。