3 / - 1 名古屋市 壹
作家、島洋之助は1932年(昭和7年)に上梓した『百萬・名古屋』の冒頭で、速度的な「動く名古屋」という表現を用いたが、しかしそれから半世紀以上を経た現在でさえ「東京」・「大阪」に比べれば都市としての規模も、その速度的さもおそらくは遠く及ばない「大いなる田舎」――その名で呼ばれる地方”大”都市・名古屋。
それは元号が「昭和」と変わって60年を経た現在でさえ、尚も同じことだった。
〈京〉と〈東京〉に挟まれた〈中京〉という、相対によってしか定まらぬ名称によりアイデンティファイされたこの地帯においては、よもやそれは「定め」ですらあったのやもしれない。
しかし、ここ7年の開発事業と発展は、今までの「中京」をがらりと変えつつある。
1977年(昭和52年)に開始された「プロジェクト・ホウサ」――1960年代の《筑波研究学園都市》構想の成就を見て、名古屋市行政はある案を市議会に提出した。
名古屋市千種区と天白区付近に存在する全大学、即ち名古屋大学、名古屋工業大学、南山大学、名城大学、愛知工業大学、中京大学、愛知大学、各女子大学、短期大学専門学校等ゝを巻き込んでの学園都市開発計画であった。
驚くべきはそれが、筑波のように郊外ではなく、県庁さえも置かれている名古屋市内における計画であった点だろう。
各講舎への公共交通機関の敷設と大学間電子演算機・ネットワークの構築。そして都市としてのすべての機能を充足させた「学園都市」造設計画。これが、名古屋市を7年の歳月で複合積層都市たらしめ、この街をさらに「魔都」たらしめた悪魔の計画、その名も「プロジェクト・ホウサ」――――《蓬左研究学園都市計画》構想である。
積層学園都市第2層、学園都市統合本部は、100メートルを超える偉容である。第2層は3か月後、今年の11月には第3層と名を改めることになっていた。
上から第1層、第2層、第3層、……と呼ばれる決まりであり、現段階では第4層の構造となるまでの建築計画が立っている。本来なら最下層のここには太陽の光は射さないのであるが、建材に光ファイバを定期的に織り込むことにより、最上階層から直通で、明るく自然光が射しているのだった。
窓から見上げると巨大な金属の骨組みが上階層を支えているのが見える。
「鉄」骨という言葉をつい連想してしまうが、あれはそれよりも遥かに強度のある金属(もしかすると金属ですらないのかもしれない)なのだろう…………統合本部の会議室からぼんやりと視線を窓外に向けながら、学園都市電子ネットワーク委員のひとり、嵯峨峯六郎はそんなどうでもよいことを考えていた。今回の議案について、彼はとても乗り気でなかった。これがどう考えても、眉唾なのである。その心中が当然、表情にも表れたのだろう。隣に座った若い男が彼に話しかけてきた。
「大丈夫ですか、先生? まだ、お身体の具合がよろしくないのでは?」
やや聞き慣れた声に、嵯峨峯はハッとする。
「いや、君かね……」
と嵯峨峯は、少し驚いて言った。
まさかこんな議案に彼までが呼び出されているとは、と嘆息する。
自分が呆れた表情になるのを、彼は自覚しながらも抑えられなかった。
「何だ、今回の議題はそれほどに重要なのか……?」
嵯峨峯は親しみを込めて、隣席の若者に苦い表情のまま問いかける。
言われた男は、整った顔をくしゃりとしかめるようにして笑い、
「それは、私もまだ半信半疑ですよ……」
そう、困ったように言った。
彼の名は総矢獨景という。
細い目をしている白衣の理系研究者、といった印象の彼だが、周りからは親しみを込め、冗談交じりに《衝動半ばの創造神》などと呼ばれている。
彼は「人工知性学会」の学会員であり、電子演算機・ネットワークの専門家である。そして、なぜか3年前、アメリカのインディアナ大学で開催された「源氏物語」研究国際シンポジウム――通称「GENJI会議」にて、最年少の参加者だった男でもあるのだった。
ミハイル・バフチン等の新たな文芸緒理論を源氏研究に応用せんとする高橋亨氏と並び、人工知性学の諸理論を源氏物語研究に応用しようとしている彼は、日本中古文学の研究者としてもパイオニアであった。20代の彼は、最近盛んに行われる学際研究の雄。自身では己を「蝙蝠」などと言うものの、その美しい蝙蝠には鳥も哺乳類も、皆見惚れているような――。
「――しかし、まずあり得る話ではなかろう? 今回の発見がもし仮に本当であったなら、全世界の通信網運営に関わるレヴェルの大問題だぞ……」
「ええ、そうでしょうね。《国際電機通信条約機構》が黙ってはいないでしょう……というより、逆に、彼らが全ての黒幕で、まったくの黙秘をしてしまう積りかもしれませんが……」
それは積層学園都市第1層で行われている、「人工知性の創造およびそれに必要とされる電機通信技術の5大学合同研究プログラム」において、副次的に出力された報告結果によるものであった。
それによれば、新型の最良人工知性「キンプゥ」の演算機能を計るために、国際電気通信を稼働させている統一ソース・コードを解析に掛けていたところ、プログラム文字列の中に、処理の大系に影響を及ぼさない僅かな違和が存在するとのレスポンスを得たのだった。
現在世界中を繋いでいる「インター・ネットワーク」とはそもそも英国ヴィクトリア朝時代に敷衍された本国植民地間を結ぶ官製電機通信網がその起源であり、現在も企業や各政府は、その上位に置かれた《国際電機通信条約機構》と呼ばれる、国連委託の独立無国籍法人によってすべての通信網のデータリンクが緩く管理されている。
ここでいう「管理」とは監視されているという意味ではなく、規格の統一や、データの通信を制御するコードの統一という面で、他企業や研究機関からの優位性が確保されているということなのであり、仕組みとしては、どこかの企業や研究機関が新たな技術の開発や、提言を条約機構に行うと、適正に報酬が受け渡されたのち、条約機構の影響力のもとに、全世界の通信技術へとその研究成果が、一斉に反映されるというものである。つまり、管理というよりは整備を担っていた。
「…………まぁ、しかし、その「違和」――「隠されたコード」が、いつから存在させられていたのか明らかにできれば、黒幕があぶり出せるのは間違いありますまい……」
顎に軽く手を添えて総矢獨景が言うと、
「ふンっ」
と嵯峨峯は鼻を鳴らした。
「今さら、最新鋭の人工知性にしか見いだせない「隠されたコード」だと? なぜ今まで誰にも気づかれなかったンだ! ありえンさ。開示されていない何らかの検閲システムか、何らかの特定情報を局所的に改変するためか、あるいは何だ? 情報のフロゥを制御するために仕込まれた弁膜だとでもいうのか……!」
老人は複雑な心情を、表情に無節操に表して続けた。
「そんなことは、例えば代々木ゼミナールがいきなり全国で7校になるくらいありえン話だぞ」
《国際電機通信条約機構》――チャールズ・バベッジとチャールズ・L・ドッドソンが英国で設立した世界初の蒸気機関計算機開発事業社がその前身の組織には、世界中の演算機の起動と通信を担保するための能力を有していることに対して、様々な危険性の指摘や、陰謀論が渦を巻いていた。
しかしながら、百年近くの間、どれだけの国家諜報機関等が調査しようとも、何らの危険性も立証できていなかったのであった。現行のインター・ネットワークが胎動を始めたのは1930年代のことだったが、それ以前から《国際電機通信条約機構》は電信・無線通信の技術をゆるく統括しており、北アメリカ大陸に統合連邦國が成立したころから本拠地をそこに置き、大陸間電信ネットワークの規模拡大に寄与してきた。
「……たしかに、そうですがね。しかしもし、「最初」からそれが仕組まれていたとすれば、これは、ゾッとしない話ですよ」
総矢は白衣の襟を整えながら答えた。
日本では、1965年4月1日に電気通信法が改正され、民間人のインター・ネットワーク利用が自由化されたが、官製の電気通信装置を利用し情報の共有を図ろうとする動きは1890年代からあり、例えば森鷗外や夏目漱石といった、当時の留学者はこの恩恵を享受できた、最初期の日本人であった。
しかし、彼らは作品にはそれらを登場させていない。『舞姫』では母親の死を手紙で知らされる。漱石も、新たな技術よりも、手紙での伝達を描いた。投函と配達の時差を、ドラマに活かすことを望んだのだった。そのため彼らの作中世界は、電信技術の普及の遅れた、一種の歴史改変ものとなっている。
近代日本文学はSFを地で行っていた……そう指摘したのは、ジュディス・メリルだったか、ブライアン・W・オールディスだったか。
時間となり、会議が始まると同時に部屋は暗くなり、人工知性「キンプゥ」の解析したコード情報の違和を、スクリーンに投影し始めた。
回線は第1層とリアルタイムでリンクしており、マイクを通して話すのは研究者だったが、内容は「キンプゥ」自身のプレゼンテーションであるものを、この場で行うのだった。
《……以上のように、ソース・コードに数千万桁ごとに不定期に仕込まれているジャンクと思われた文字列を解析し、暗号と仮定して解を導いたところ、次のような文字列が算出されました……》
カキョカキョカキョ……と画面に文字が表示された。
フランス語のようだった。
原文を残したまま、その下に日本語へと翻訳された文が瞬時に表示される。
<逃げよ、逃げよ、すべてのジュネーヴから逃げ出せ
黄金のサチュルヌは鉄に変わるだろう
巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する
その前に大いなる空は前兆を示すだろうけれども>
「……何だ? どういう意味だ?」
嵯峨峯が訊ねた。
第1層で「キンプゥ」に付いている研究員は、「わかりません。民間データベースには該当の文字列はありませんでした」と答える。「キンプゥ」自身も機械的な処理しか行っていないので意味まではわからないのだった。
「検索をかけろ! 大学のネットワークに侵入しても構わん!」
苛々とした嵯峨峯の声に、第1層では法律に則ったその行為の正当性を構築し、実行するまでに数分を要しているようだった。
《検索、掛かりました》
研究員の声が会議室に響く。
「それで?」
嵯峨峯は結果を訊ねた。
《――ノストラダムス『諸世紀』第九巻第四十四篇……16世紀の詩のようです》
「詩だと……?」
会議室にざわめきが広がった。
ますます意味が分からなくなっていた。
「未知のシステムの、パス・コードか何かなのか……」
嵯峨峯の呟きに、総矢獨景は楽しそうに顔を歪めて答えた。
「わかりませんが、ただ……なんだかとても、暗示的ではありますね」