16 / - 13 名古屋市 ⇒ 東春日井郡市 case.α
盤面は、もう動かないはずだった。
寡鐘の魂は樹禰の精神によって完全に抑え込まれて、あとは、彼の意識が汲み出されている脳の部位さえ精確に把握しきればよいだけのはずだった。
あとは、取るべき意識の座を移し替えるだけなのだ。
そして、もうそれは開始されている手順であるはずだった。
でも、彼女の表情は苦しげに歪み始めていた。
樹禰はすらりとした指をふたたび盤に差し向けたが、すぐに引っこめた。
「何が――――?」
違和感――いや、そんな不確かな感覚ではなかった。
何か痛みに近いレベルで、たしかに危険を感じていた。
盤上の駒が、かすかに震えているように見えた。
樹禰は、盤に覆いかぶさるようにして、顔をその龍王の駒に近づけようと前にすべり出た。最後に王手を掛けたのが、この《龍》であった。
盤を真上から捉えたと思ったその瞬間、パキンッ、という硬い音が響いたかと思うと、宙に駒の欠片が跳ね上がった。
《龍》に細い、しかし確かな亀裂が生じていた。
赤い駒名の塗りが弾け、中空に剥がれ散りながら細く砕けていく。
大きく跳ねた龍の破片が、隣の銀将に触れた。
銀将が、やがて疲れ果てた兵士の最後の吐息のように震え出し、縦に広がる裂け目を抑えきれずに、軋みながら星の欠片を噴き出すように四散する。
その飛沫が桂馬の頸に刺さり、さらに破裂の連鎖を生んだ。
王手の掛かっていた箇所を爆心地として、網目状の罅がいくつもの駒を覆う。
破断音とともに木片が虚空を裂き、八方に飛び散った。
香車の細長い胴体が折れ曲がり、白い霧のような粉末を噴き出しながら、樹禰の頬をかすめて後方に吹き飛ぶ。
止まらない。
止められない。
「どうして……」
自分がかつて発したことのない言葉だった。
どうして?
いまや、白かったはずの全景は永遠の夜に沈むかのように暮れ始めている。
いや、どうしてなのかはおそらく理解できる。
つまり、これは、寡鐘の文学性の言語態防壁に掴まったということだ――と樹禰はあらためて驚愕する。
言語? 違う。
文字列の前後があるなら、それは解くことができる。
魂が檻であるなら開けることができる。
だが、これは、これでは、
「文字列の前後がひとつの地平を循環している……?」
かつて、ジェラール・ジュネットは小説における視覚表現を、ある文字順列における情報の出現順序の前後として定義し、それを叙法と呼び表した。
視覚とは、時間に縛られた文字列の順序――取り換え不可能な文字記号の前後の問題として処理するしかないと考えた。
樹禰もまた、これまでそう考えて来た。
だが、寡鐘の使っている――いや、形作っている言語は、単純に記号の配列によって意味が決するような機構ではなかった。
掌握できていないなら、そういうことになる。
そうとしか考えられない。
魂が文字を追い越して認識を形作っているとしか考えられない。
「――――」
悲鳴にも似た叫びが木霊する。
全景は暗闇に沈んでしまった。
何も見えない。
何も足に触れない。
落ちている。
虚空のなかに吞み込まれている。
彼女の持つ計算資源は、いってみれば拡張されたデジタル的思考機械に寄与するものにほかならない。
対して寡鐘が生み出し、修熟してきた言語は、おそらくその概念操作の根本に、文字記号の同時的全体性を抱え込んで成立している。
(――3次元時空に表現されたことのない独自の表意文字をこれまで使って来たというの……? フザけすぎだわ!)
表意文字を使用する言語体系は、時間に縛られた順列――音の配列を持ちはするが、同時により直観的に意味を把握させる構造を持つ。
例えば漢字を構成する点や線は全体的な印象として一挙に知覚されるから、まるで人の顔を瞬時に判別して恋人か否かがわかるように、言語が示す意味の相貌もまた瞬時に把握しうる。
表意文字とは、文字であるとともに図だ。
その順序が異なっても、意味を組み上げることはできる。
タイポグリセミア現象――文章の文字が入れ替わっても読めてしまう――も生じやすい。
《叙法》は記号の意味の総和を分析できるが、《態》が持つ意味の相貌を把握するような機構を掌握できなかった。
いわばアルファベットで思考している樹禰は、文字列の順序さえ掌握すれば寡鐘の思考装置を掌握できると考えていたのに、寡鐘の意識はある種の漢文、しかもおそらくは毛筆による草書のようなもので組成されていたせいで、記号の順序を制御されても彼の魂はまだ、ぎりぎりで意識を保っている。
(――クソ、わが弟ながら厄介なこと……! お前はもう、わたしのものになるしかないはずよね……?)
十全な意識を取り戻すために、彼は、すでに内面で墨筆を動かし始めている。
寡鐘の魂は表意記号で稼動している。
時間を線ではなく、拡がりとして生きている。
入り込んだ樹禰の叙法が、寡鐘の内言的言語行為に、外来の記号表現として包摂されようとしていた。
樹禰の魂は寡鐘にとって意味の分からない音の連なりのようなものだったが、古代日本語が、中国語の発音を訓読みで注釈することで受け入れ、そのうえでまた逆に、こんどは訓読みを外来語概念――音読みで注釈することでより複雑な概念操作が可能な和文を成立させたように、外来のシステムである樹禰というシニフィアンを取り込むことで、より複雑な表現と思考が可能なシステムに至ろうと無意識の自己進化プロセスを辿っていく――――。
(――――喰われ、ていく――――)
だが、そうではない。
「わたしはすでに寡鐘であり」
寡鐘を成立させている表意記号の間に差し挟まれた表音記号のようなもの。
(そして、おそらくはそう――)
わたしを動かす特異点もまた、言語システムを成立させる《部分》として再配置された――。
「どうして」
寡鐘は目蓋を開く。
「どうして、俺は泣いているんだろう……?」
そのとき空に、もうひとつの太陽が現れた。




