16 / - 7 東春日井郡市 ⇒ 名古屋市 case.ζ
「王は、大きな蚤を飼っていた……」
おもしろそうに含み笑いをこらえているらしい声変わり前の少年のような声が、うっすらと意識が戻りつつある鯨峰鮪雫の耳元に囁かれていた。
「自分の生ませた子のように寵愛し、可哀がっていたという」
意識が戻りつつあることが分かっているらしいのに、声の主は、鮪雫の身体が震えたり小さく跳ねたりするさまを見ているだけで、手で触れたり、何かでつついたりはしてこなかった。
鮪雫は覚醒しながら、自分の身体が紐のようにほどけていることに気づく。
どの出口が何を出すべき場所であったのかわからなくなり、もはや迷宮と化している服であった布の中を無数の指先で探りながら、もぞもぞと、自身を再び人間の形に編み上げなければならなかった。
「王はあるとき服屋を呼んできた。『この若殿の召すような、上衣とズボンの寸を取れ』――天鵞絨為立て、絹為立て、蚤はそれを着こなした」
その様子を観察しているように、声はゆっくりと聴覚器官を撫でていく。
どこで声を聴いているのか、まるでわかっているかのようだった。
「む………………」
人の形になった頭をやっとのことで正しい穴から外に出して、声のする方に視覚器官を向けた。
地面に横たえられた鮪雫から見上げると、薄緑色の液体が満たされた円柱形の巨大な水槽が見える。液体自体が発光しているようで、暗闇の中にある水槽のみが明るかった。
「服には十字章さえ下げてあり、王は勲章まで授けた。蚤の兄弟までもが宮中の要職に就いた。王は言う――『血を吸われても掻いてはならぬ。潰すのなどはもってのほかだ』と――そのせいで、人々はみな大変に苦しむというわけだね」
水槽の中身を端的に言えば、そこには天使が沈んでいた。
実際に羽根や輪っかがあるというわけではもちろんないのだろう。
だが、それはそう表現することがふさわしいような神々しさを感じさせた。
まっさらな白地の、ワンピース状の病衣のような服を着た性別不明のそれは、声変わり前の少年にしては艶のありすぎる声で囁いている。
「だが――」
鮪雫は「なんだ、それ? なんか聴いたことあるぜ?」と大声を出して言葉を遮りつつ、挑むような眼光をジロリと水槽に向けた。
声の主は、そうして身体を起こそうとする鮪雫の反抗的な様子に口角を上げる。
「ゲーテの『ファウスト』に出てくる詩だよ。なるほど、君は博識らしい」
にやにやとした笑顔で、そいつは、「続きはわかるんだろう?」と尋ねてくる。
鮪雫はちょっと考えて、
「――『己達ならば蚤なぞが、ちょっぴり螫せばすぐ潰す』――か? 遠回りな脅しの文句ってわけか? これは?」
と答えた。
「ま、そう思ってもらってもかまわないけれどね」
飄々とした態度で、それは嘯いた。
「ただ、君にはしばらくここにいてもらおう。ちょっと、立て込んでいてね」
肩をすくめるような仕草をする。
「何が立て込んでるって?」
「そりゃ君、世界が――ってことになりそうなのさ」
「世界?」
「少なくとも、この複合積層都市はそうなるだろう」
水槽というよりもタンクに近い円筒状の、セイウチでも飼っておけそうな大きさの水槽の中を、彼(女)は液体の中でワンピース風の服を揺らしながら、膝を抱えた格好になって、身体をくるくると上下を反転させつつゆっくりと漂っている。
鮪雫はそれを棒立ちでぼんやりと見上げていたかと思うと、
「―――――!」
と急に鋭い呼気を発して、足を振るった。
人間の稼働範囲を遥かに超えた脚の動きは、しかも独立してそこだけが蛇のように撓って打ち据えられていた。足の一部は人間様の構造からほどけており、並みの金属よりも硬質な鮪雫の素体が超音速で水槽に激突しようとしていた。
「う……?」
激突しようとしていた打撃が、急激な制動を受けたときのようにみるみるうちに速度を減じ、水槽に触れるか触れないかというところで、ピタリと静止する。もちろん、鮪雫は全力で力を込めている。脚が、ピクリとも動かなくなっている。
また、打撃の速度が落ちるのと並行して、何もなかった空間から青い光が急速に湧き出してきて、ふたりの周囲の空間を鮮やかに照らし、それは煙草の煙のように、徐々に中空に溶けていった。
その様子を水槽ごしに見ていた天使は、考え込むようにほっそりとした顎に手を添えながら、ニマッと人の悪そうな笑みを口元に刻む。
小悪魔的だ、と鮪雫は考えた。
「無理だよ――ここでは誰も自由に振舞うことはできない」
鮪雫は足を戻して元の姿勢になろうとしたが、身体が押さえつけられたように動かなかった。動かそうとするたびに、例の青い光が鬼火のように発した。
どうやら、この場は水槽に沈んだ天使の制御下にあるらしかった。
「このフィールド内では、有効重力をゼロにすることだってできる」
言うが早いか、鮪雫の身体は鋼鉄のように姿勢を保ったままで、フワリと宙に漂い始める。
「君の犬儒的な生き方は称賛に値する、と僕も思うよ」
やや嘲りを伴って少し細められた目元が、水槽の透明な壁越しに見えた。
「だが、ここでは君のその狷介さも役には立たない」
足掻こうとする鮪雫を、中空に固定した姿勢のまま不規則な方向にくるりんと回しながら、天使はため息でもつきそうな声色で続けた。
「ハミルトニアンそのものを直接書き換えることで、量子真空を操作している。結果として、エネルギー準位を操っている――そんな感じだろう。君も、さすがにこんな方面には詳しくないだろうからややかみ砕くと、つまり重力を無視した力場の制御をしているってわけさ」
量子真空の操作が行われた結果、ハミルトニアン演算子をはじめとした場のオペレーターが操作され、エネルギー準位の制御が行われているってことか?――と、鮪雫は思った。
暇さえあれば自らの演算器官をインター・ネットワークに接続して、偏りはあるにせよあらゆる面白そうな情報を漁っている俺のことを、侮ってもらっちゃこまるんだがな――と苦笑いする。
おそらく、局所的な空間で量子真空が《励起》されたのだろう。
これにより、仮想粒子が一時的に実粒子のように振る舞う、カシミール効果が極度に拡張されたような状態が作り出される。負のエネルギー密度などが生成されているのかもしれない。異常な青い輝きが持続しているのは、《励起》された量子場を安定化させるために、超伝導コイルや量子ビットアレイを使用したフィードバック・システムが働いているためじゃないだろうか。
《励起》された電子や粒子は、基底状態に戻る際に、光子を放出する。
波長約400~450nm、青紫色のコヒーレント光だ。光の強さは装置の出力に比例し、大規模なものは理論上、周囲を青く照らすほどの輝度になるはずだ。
「ははぁ? よくわかんねぇけど、量子力学ってやつか? これ」
「驚いたな――単なる教養主義者ではないようだね……」
量子場の安定化によって局所的な重力勾配が惹起されるため、物体の浮遊および推進が可能になる。もし――と、鮪雫はさらに考える。
もし、これが大規模な装置として積層学園都市の地下に張り巡らされているとすれば、しかも潤沢なエネルギーを利用できるなら、都市を宇宙に飛ばすくらいのことはできるだろう。もし推進器として使用できたなら、恒星間航行にさえ充分な推力を得られるだろう。
「誰だ? こんな伝法な代物をこさえたやつぁーよ」
ケッとでも言いそうな口調になって、鮪雫は毒づく。
「君を、ここに連れてこられてよかった……」
まるで、趣味の合う友達でも見つけたかのような表情になって、水槽の中のそいつは不意に明るい表情を浮かべていた。
「お前って、感激家なんだな」
鮪雫は逆にしかめた顔を器用に浮かべ、どうにか言葉以外の方法で降参の意を伝えられないかと、ぼんやりと思案し始めていた。
※ゲーテ(1808)「蚤の歌」の表現は、森林太郎訳『ファウスト 第一部』(冨山房、1913 .2)、pp. 221~223 を参考としている。




