16 / - 6 東春日井郡市 ⇒ 名古屋市 case.ζ
目が眩まないのは、その月光にも似た光に馴れているからに過ぎなかった。
深海のように穏やかで、夜の底のように濃密で寂しい、青い光。
本当にただの光かと思うほど、密度を感じさせる。
もう、複合積層学園都市の中には踏み入っているはずだった。
整然とした直線で構成された整備用らしい通路が、複雑につながった地下階層のどこか。片目が長めの髪で隠れた少年、鯨峰鮪雫はそこを歩いているのだった。
どうせ、家にいても暇なのだから。
青い光がところどころ漏れ出しているので、照明はないが暗闇ではない。
青い光が何なのかはわからないが、まさかチェレンコフ光でもあるまい。
「――――♪」
口笛に似た音を真似しながら、お気に入りの黒くて艶のある柄の長い煙管を指先でくるくると回す。
この路は、たまに家を抜け出して何度も遊びに行ったことがある。
多くは散歩として、時たま、買い物がてら市内の骨董店を冷やかしに。
今回は、どちらでもない。
自宅からインター・ネットワーク回線ごしに複合積層学園都市の大須通りに面したゲーム・アーケード・スフィアの中継筐体をコールしても、何の反応もなかったので、仕方なく向かっているのである。
早くしないと、友人のコアさんやチャムノーグたちとの約束に遅れてしまう。
電子戦防壁が設定されたとかそういうレベルではなく、おそらく回線自体――都市外に対する電子ケーブル自体が物理的に断線しているらしかった。
普通ならありえないことだ。
電話線一本に至るまで通じていない。
何か、あったのだろうか?
だが、わざわざ詰まらないニュース記事を探すために、自分の演算器官をインター・ネットワークに接続する気にもなれなかった。
鮪雫は、現実世界にはあまり興味がないのである。
どうせ何か、公共工事か何か――インター・ネットワーク上でもときたま行われるゲームのシステム・メンテナンスみたいなものだろう。市内からはネットワークにつながるかもしれないし、とにかく行ってみようと考えたのだった。
人間の身体を模しているので、本来の姿の鮪雫にしてみれば非常にのろのろとした足取りだったが、それはそれ、人間でいることに慣れておかないと、いざ街中に出てからおかしな挙動で周囲をヤキモキさせてしまうかもしれない。
それでも退屈してきて、煙草でも吸ってしまおうかとポケットに手をつっこむ。
煙管用に加湿して包んできたとっておきの刻み煙草「赤蜘蛛」を探るが、ぼんやり見上げた先の「火気厳禁」の張り紙を目にして、ピクッと手が停まる。
爆発とかしたらヤバいか。
立ち入り禁止だろうし、ここ。
「ちェッ……」
音速を軽く超えた音波で舌打ちを発した鮪雫は、その残響が周囲に留まって、そのまま別の形に変わっていくのを聴いた。
音は徐々に、言葉らしい響きを帯びていく。
やがて、はっきりと言葉に聞こえるかたちを取って聞こえてきた。
『――君は、眼と書物の距離についてどう思う?』
どちらの身体性別なのかよくわからない。
女性的だが、少年のようにも聞こえる。
聞いたことのない声だった。
歩みを止めて、身を固くする鮪雫は、ひとまず、
「距離?」
と返した。
頷く気配が周囲から伝わってくる。
どの方向から伝わってくるのかよくわからない。
『そう、距離だ。いや、君が望むなら、友情と言い換えてもいいだろう』
試すような態度だな、と鮪雫は思った。
それに答えずに、というか答えられずにいると、その声はつらつらとおしゃべりを始める。
『書物が、この世に生まれて数千年――書物は、人との友情を育もうと努力してきたんだ。だが、人の眼は書物に近づきすぎてはそれを読むことが叶わないし、かといってほんの数センチでも適切な距離から離れれば、それもまた書物との友情を打ち切ってしまう。バビロンの昔から、人間は書物から距離をとってきた。無敵の英雄譚とも、青年たちを魅了する思想書とも、一国を滅ぼす大恋愛ともね』
(ただしゃべりたいだけの幽霊、的な……?)
周囲を注意深く窺うと、声に交じって、かすかに足音らしき音が聞こえた。
鮪雫は小首をかしげると、スタスタと声を無視して歩き始めた。
『わたしはね、書物というやつが、寂しがっているような気がしてならないんだよ。読書人というやつらは、書物のページと肌を合わせて胸にかき抱くことはできるが、それをしながら彼らを読むことはしてやらないのだし、壁越しに語り合うことも、地球の反対側から電話することも人間は書物に許していないのさ。わたしはね、書物にはつねに同情しているんだよ……』
ほとんど駆け足でいくつかの角を曲がると、そこはいつもなら出入り口があるはずなのに、その手前で防火シャッターのようなものが下りて、通路を塞いでいる。
シャッターの手前を、消える寸前の青い光の粒子が、ぼんやりと照らしていた。
面白がるような声色で、『つまり――』と声が、先ほどのおしゃべりを続けようとしている。
その声を制するように、
「そんな空想は、詰まらんね。実に」
と、用心深く辺りを見回しながら、鮪雫は侮蔑の感情を込めて答えた。
足音が、どうやら間近まで近づいてきている。
「数十センチの適切な距離を踏み越えて近づいたとたんに、輪郭がぼやけて、それまで共有していたひとつの世界がフッと消えてしまうんだろう? そんなものは、大した友情とは思えんね」
めいっぱいの憎まれ口だ。
だが、声はそんな声色のことには頓着しないで、
『ふむ。そうかもしれない』
と落ち着いた様子で答えた。
ちょっと満足気ですらある。
かすかに、背後から笑うような気配がした。
「こんにちは――」
振り返ると、彼と同じくらいの年恰好の少年がふたり立っていた。
オリーブ色の肌をして、病院の入院患者のような、白亜の病衣を着ている。
「Hsur-Risと申します。こちらは兄の――」
「Lagikhsereだ。お前を連れてくるように仰せつかった」
「あ゛ァ?」
鮪雫は幽霊より厄介だな、と考えながら、自らの身体をほどいて戦闘態勢を取ろうとした。
(ん……?)
さっきまで響いていた声のことが、すこしだけ意識にひっかかった。
さっきまで、聞いたことのない声だと思っていたが、本当にそうだろうか。
声の出し方が違っているだけで、何となく、彼の盟友である閘堂寡鐘の幼いときの声に似ていなかっただろうか?
(しかし、それがどうした……?)
ほんの少しだけそう考えて動きが遅れた姿のまま、鮪雫の意識はぼんやりと霞みはじめる。音のせいか? と思ったときにはもう、気を失っている。
地下通路には明度の落ちた青い光の残滓だけが、ただぼんやりと漂っていた。




