2 / - 3 東春日井郡市 貮
寡鐘が思いがけなく樹禰に会ったのは、それから数日後のことだった。
あれから明けて、翌々日には恭介は、学校に出てきていた。
寡鐘への気兼ねも見当たらず、彼はまるで普通だった。
釈然としない感じがしていた。
だが、何となくは分かった。
樹禰が、何かをしたのだ。
寡鐘が樹禰に気付いたのは、人気のない小さな踏切の近くだった。
道路はアスファルトだが、周囲には人の気配どころか建物もまばらの草叢である。
晴れた午後だった。
じりじりと日差しが肌を焼いていた。
寡鐘は自転車で、樹禰は歩きだった。学校の午前講座の帰りに、隣接する小牧市にある本屋に寄ろうと、走っている時だった。それは通学路ではない。
本来ならありえない出会いだ。
樹禰は夏服の白い半袖のセーラー服で、寡鐘を見るなり控え気味に手を振ってきた。
セーラーの襟にあしらわれた二本の蒼いラインが、夏の濃い日差しに照らされて鮮やかに映えた。珍しく赤いフレームの、小ぶりな眼鏡を掛けている彼女は、その祠のようにこじんまりとした踏切の向こうから、歩いてきたようだった。
踏切のある路線は寡鐘のいる道路よりも数段か高いので、踏切にむかえばその少し急な坂を上っていく形になる。
樹禰はそこから降りてくる。
ゆっくりと、プリーツ・スカートのしどけなさを気にしながら。
寡鐘はその踏切を渡るのを辞めにして、ハンドルを左に切った。
彼女を無視して、素早く通り過ぎようとしていた。
その時急に車体が揺れた。
浮いているような感覚。船の上のような気持ち悪さ。
バランスが崩れ、彼はブレーキを握った。
前輪が、パンクしていた。
舌打ちの音は、おそらく唇の中にしか響かなかった。
彼の傍らに、樹禰が近づいていた。
彼は無言で、自転車を押し始めた。
自転車を隔てて、樹禰が隣に並んだ。
彼女が後ろで三つ編みをしているのだと、その時になって初めて気が付いた。
数十メートルごとに並ぶ電信柱には茶色のアブラゼミが止まっているが、そのどれも力なく声を震わせるばかりで、きまりの悪そうな鳴き声ばかり上げていた。
「お友達は元気?」
樹禰が訊いた。
「咲眞には関係ない」
寡鐘は答えた。
あえて、名では呼ばないのである。
しかし並んで歩くことの心地よさが、ひどく懐かしかった。
10年ぶり、くらいだろう。
寡鐘は足を速めた。
見たところ、このくらいのパンクなら、全く乗られないわけではないだろう。
家に帰ろうと思った。
並んで歩いて、何になるのだ。
途中にある自転車屋で修理してもらえばいい。
すっと、ふたりの距離が広がった。
すでに、もう次の踏切が見えていた。
電車は一本も通らず、遠くの空に音もなく伸びる飛行機雲だけが、景色の中で動的だった。
寡鐘はぐいぐいとハンドルを押した。さっきと同じように小さな踏切の、その前にある十字路のところで、また左に曲がって、自転車に乘ってしまおうと考えた。
そこで、背中に、痛みが走った。
鈍い痛み。
振り向いた彼の目に映ったのは、何かを投げたポーズのまま彼を見詰めている樹禰の姿だった。
彼は立ち止まりぶつけられたものを探した。
自転車のことはもうどうでもよかった。
横転した自転車の細い陰の傍に、それは落ちていた。
それを拾い上げた彼の耳に届いたのは、
「忘れもの」
という樹禰の笑いを含んだ声だった。
そこにあったのは茶色い瓶。あの日彼が、恭介に口移しで飲ませた薬の入っていた瓶だった。
唇を噛んで立つ彼に、樹禰は静かに近づいた。
彼は身構えたが、そのまま樹禰は彼の横を通り過ぎ、止まることなく十字路の方へ歩いていく。
顔も目線も彼の方には向けなかったが、しかし横を通りすぎる際に、樹禰は彼に向けて言った。
「”下手だなあ。あなたが現代を作り出す秘密はなんですか。”」
樹禰は十字路のところに着くと立ち止まり、ハッとした表情で自分を見詰めている寡鐘を振り向いた。何かを期待しているようにも見えたが、それでも表情は淡泊だった。
その言葉は中井英夫という作家の、『ケンタウロスの嘆き』という本に所収されている一節だった。
彼はピンと記憶の中から、そのことを拾い上げた。
それは「炎の種子」という題の、戯曲……あるいはその形式で書かれた評論だったかもしれない。
読んだ当時7歳ほどであった彼――もちろん自力で読んだわけではなかった。彼は事あるごとに婆やに頼み読んで貰っていた。時には樹禰が傍らに座ったこともあったろう。婆やはそれほど朗読は巧くなかったが、独特なリズムと声色があった。とても妖しい響きだった。彼は本を読むたびにその声が思い出されるので、ときに国語の授業など、苦痛になるときさえあった。――には、随分と意味の通らない、しかしおそろしく幻想的な頁であった。樹禰もさすがに彼が覚えているとは思っていなかったようで、すぐに前を向いて歩きだす。
それは咲眞家を出ていく際、幼い彼が樹禰に送ったものだった。当時としては、単に”読んで”面白かった物であったのだが、今となって思い返してみると、あれは太宰や三島や久生十蘭など、先行の作家に関するエッセイ集のようなものだったような気もした。彼は、
「――”いつでも未来からこっちを見ているせいでしょう。”」
とその科白に続く部分を、何でもないように諳んじた。
樹禰はハッと驚いたように振り向き、それから、おそらく少し微笑んだ。意地の悪い表情、――そして彼とよく似た貌だった。
まるで、対立的一対のように。
「”なるほど、それでたくさんの鼠を集めたわけですね。いま、あなたの家にはどれくらい鼠がいますか?”」
今度は樹禰が応えた。
皮肉か、と彼は樹禰に険しい目線を向けた。
その言葉が自らの状況と類似していることに、寡鐘は気付かざるを得なかった。
寡鐘の方に向き直った樹禰は、目を細めて次の言葉を待っていた。
「……”30匹くらいでしょう。”」
寡鐘が言った。
これは当たっていないぜ、と彼は思った。
ふたりの会話は過去の言葉により綴られていた。
「”肥ったのばかりですか?”」
「”いろいろです。”」
「”どんな眼をしていますか、いきいきして黒いですか、それともすごーく邪悪な眼ですか?”」
「”それは日によって違います。”」
彼は倒れていた自転車を起こし、持っていた瓶を籠へ放り込んだ。
樹禰がニヤニヤとして訊く。
「”何だって鼠の学校をひらく気になったんです。”」
これに答えるのに寡鐘は少し躊躇った。
何か嫌な、言葉にならない予感がした。
「”鼠だけが地下を知っているからです。暗いところ、湿ったところ、溝の臭い、飢えと寒さ。こういうものをしっかり身につけているのは、鼠だけです。”」
言葉を待ちながらも、ふたりは既に相手の次の言葉を知っている。
ふたりはいま、過去に語られた文章の中で話している。
樹禰が言った。
「”それでアングラというわけですね。”」
寡鐘は記憶を探って、このあとの言葉を見ようとした。
どうなるのだったか、そもそも誰と誰の会話だったのだろうか?
そうしながらも、彼は樹禰の言葉に答えている。
「”そうです。鼠たちは日本中の地下からここへ集まってきました。”」
そう、これは寺山修司が記者に聴いていたのだ。
しかし、その記者は寺山自身なのではなかったか。
それとも、中井英夫だったのだろうか。
もしかすると、誰でもなかったかもしれない。
「”するとあなたは、鼠の王様ですか?”」
彼女の声が楽しそうに響いた。
寡鐘は嵌められたような気分でそれを聞いた。
最後、この会話は同じ人物の科白が――記者の科白が――おそらく二度連続して終わるのだった。描写のない今のままでは、最後の科白は順番通りに樹禰の物になってしまう。彼女はその最後の科白を俺へ言い放ち、俺自身の信念を皮肉たっぷりに相対化し、茶化す積りなのだと彼は気付いた。
それは残酷で、冷徹な計画だった。
「”いまのところは、ね。”」
寡鐘は言った。
そしてまた間髪を入れずに続けた。
樹禰は口端を上げていたようだった。
「”しかし、おそれるに足る猫なんて、この世にいますか? もう猫は老いたのじゃありませんか? どこの飼猫でも鼠をとらなくなったように、いまでは鼠のほうが偉大だと思いませんか?”」
彼はその科白を言いながら、これも樹禰に言わされているのだと思った。
小さな眼鏡グラスの奥に笑う彼女の眼を見ながら、彼は己の額を瓶を握っている右手で押さえた。彼の左手は、シャツ越しに彼の胸に下げられた首飾りを触った。
奥歯を強く噛んでいた。
制服姿の樹禰は既に背を向け、歩き去っていた。
いつの間にか蝉たちはうるさい程に狂おしく鳴き、電車が一本走り抜けて行った。
踏切の甲高い警告音が、辺りにいつまでも響いていた。