16 / - 4 名古屋市 × 東春日井郡市 case.γ
刃はなかなか交わらなかった。
片や、3メートルを超える人型の軍用車両である靑騎士。
片や、表面がつねにざわめき、蠕動している輪郭さえ判然としない2メートル前後の人型の怪物――それが何なのかは靑騎士を駆る代月にも判然としない――。
2体の動きは緩慢と言ってよかった。
油断なく睨み合うように、刃の切っ先を向け合っている。
靑騎士は通電により薄赤く発光したレーザーブレードが、両腕から突き出して空気を焼いていた。
怪物はさっきまで仲間が持っていたらしい日本刀と思しきものを構えていた。
こちらは、空気さえ凍えさせているように冷ややかな光を湛えている。昇ったばかりの朝日を照り返しているとは思えない、妖しい光だった。
そそり立つ山骨の前で、靑騎士は、昇りながら輝きを強めていく夏の朝日を背にして立っていた。逆光のなかで怪物は、相手の気配を探りながら、常よりも慎重にならざるを得なかった。
靑騎士の方はといえば、余裕を感じさせる挙動に反して敵との駆け引きどころではなかった。操縦者である代月 更也の目の前に、見知らぬ少女が親しげな表情を湛えて舞い降りて来ていたからである。
赤い着物を着た少女は、「助けてあげようというの」と言った。
外界からの視覚情報を遮断し、他の機械化された認知機構で戦おうとする更也には、この謎の少女と向き合うしか選択肢がなかった。石楠花ようにパッチリと眼を開けて少女は言う。
『まず、あれは人間と同じ反応しかできない。そこは心配しなくてもいい。怪物的に見えるといっても、それは比喩的な表現にすぎないのね』
自らの長い黒髪を弄でいた少女は、すっと苔桃色の片袖を唐突に高く掲げた。
『こんな構えが、たぶんいいでしょうね』
天地の構え――なぜ、とは更也は訊ねなかった。
右手首に固定された発熱するレーザーブレードを天に掲げながら、掌をやや地面に向けて前傾させる。左手のブレードは地の方に下ろしながら、掌を空に向けた。
脚を前後に展開し、前脚の付け根辺りに重心を載せて構えた。
「そうか――驚いた。これなら――」
『――そう、この構えなら、天に掲げた刃の先端の位置は背後の太陽の光に呑み込まれて見極めが難しくなる。加えて相手が可視光以外の、たとえば赤外線による温度分布で刃を視認していたとしても、問題なく同じように先端部を太陽から識別することは難しくなる、というわけ……』
ゆっくりと袖を下ろしながら、少女は白蘭のように俯いて微笑んだ。
『あなたのことは、太陽が護ってくれるでしょう。ただ――』
少女は、泡沫が永遠に敷き詰められたような真っ白い全景のなかで、更也にむけて嘲るようでいて暗鬱なような、孤独感の極みのような、それでいて諦観したような、沈思しているような、しかし愛でも救いでもない表情を流した。
『太陽はすぐに昇ってしまう』
少女は、太陽が刃の先端にあるいまだけが、剣の切っ先から太陽が離れないでいるこのときだけが、天地の構えによって切っ先を怪物に見失わせることで刃を叩き込める機会なのだと言っているのだった。
「…………………………………………」
更也は、機械の四肢を油断なく操作しながら、咽喉の奥から込み上げてくる笑いをくつくつと咬み殺していた。現れた少女と自分の状況が、まるで悪魔との、あるいは悪魔的な女との契りのようで可笑しかったからかもしれない。
こんなとき思い浮かべるべきは、夢魔を論じた悪魔学者シニストラリだろうか、「マノン・レスコオ」を物したロマン主義文学者アベ・プレヴォだろうか……いや、ここはやはり大ゲーテの『ファウスト』に人生を呑み込まれたカール・グスタフ・ユングだろうか。ユングほど、悪魔との契約に近代的自我の行き詰まりを突破する契機を見いだした者もいないのだから。
『おのぼりなされ。あるいはお下りなされ。同じことじゃよ』
少女が前髪を息で吹き散らしながら、軽い調子でそんなことを言った。
『ファウスト』に出てくる悪魔――メフィストフェレスの台詞だった。
「きれいは汚い、汚いはきれい――くらいにしといてくれ」
思えば少女は、彼にとっての悪魔なのかもしれなかった。
なら、彼女は更也の魂を欲しているのだろう。ファウスト博士いわく、「仮にも将来、ある瞬間にむかって、時よ止まれ、汝は美しい! と言ったならば、もう俺はお前の物」なのだが、更也はファウストほど絶望していない。怪物を倒すくらいで魂をくれてやる気になるかもしれない。
もちろん、脳が生み出した幻想なのだろう。
ユングによれば自我と無意識は闘争という相互作用を通すことで無意識は意識化される。自我の彼方の心の過程である集合的無意識は、これによって心的全体性として和解するという――。
「悪魔でも幻覚でも、つまりは同じようなものかな――」
更也は言いながら靑騎士の右手首をほんの僅かに反らし、下半身を覆ったすべての人工筋肉の力を解放する。
重い金属音が響き渡る。
白い山骨の割れ目からは、地下水脈が細い沢となって流れ出ていた。
繋がった下流からやって来たのだろうか。
赤白の身体をくねらせながら、鯉が沢の水面にときより現れた。
そのたびに霧のような飛沫が跳ね、岸に咲いている夏水仙の花がその飛沫に濡れたのか、陽に艶めいて見えた。
水底では、淡く縦縞の浮き出た山椒魚が、口を大きく開いていた。




