16 / - 3 名古屋市 × 東春日井郡市 case.β
刃は肝臓に達していた。
日本刀による諸手突きを背後からいきなり受けたのだから、防げるはずはない。
抜刀に気づいたときには、すでに切っ先が皮膚を抜けていた。
咄嗟に身体を捻ったのが幸いしたのだろうか。切っ先が身体を突き破って先を覗かせることはなかったが、しかし切っ先が内臓組織に埋まり動かなくなっても、背後から刀身を押し込もうとする力は弱められることはなかった。
倒れないように踏ん張ろうとしたものの、震え始めた脚では堪えきれなくなり、押されるがままに前のめりに圧しきられ、手も突けず、額からリノリウムの床に叩きつけられた。軍用バイザーを装着していなければ、頭蓋骨の損傷もあり得たかもしれない。女は自らの長身を呪った。
ぐあぁ……という痛みに耐えるための呻きだけが喉から漏れた。
「柳條……?」
自身の呻きを撚り合わせ、やっとのことで呼び掛けるための言葉を紡ぐ。振り返ろうと足掻くと、左肩を押さえつけられた。
おそらく、踏みつけられている。
耐えていたはずの痛みが再び熱をもって激しさを増した。背中に刺さっていた刃が、ぐちぐちと音を上げて引き抜かれているのだ。
今度は、叫び声にもならなかった。ただ、勢いよく口から息が吹き出す。
刀が引き抜かれた瞬間、歯を食いしばって身体を反転させながら距離をとる。ローブとコンバット・スーツに仕込まれたあらゆる飛び道具を振り向き様に発砲し、犬のように四肢で身体を支える。
日本刀を片手持ちにした黒い人影は、ナイフと弾丸を最小限の動きで避け、避けきれない残りを刀身で弾き跳ばす。
仕込み武器はそもそも彼女の専門だ。
女の仕込みに助言したのもそもそもは彼女だった。それもこの時のための伏線であったのではないか――痛みに耐えながら、女はそんなことさえ考えた。
傷口から吹き出した鮮血が、床に水溜まりを作っている。
女は、頼もしいはずだった仲間を苦悶の表情で見上げるしかない。
彼女と同じ型の軍用バイザーで目許を覆った、まだ少女の面影を強く残した顔がこちらを見下ろしている。
しかしそれは見下ろしているというよりも、物思いに耽っているだけのようだった。目が合っていないからだ、と女は思う。
顔を見ていない。
ただ、空間に占める質量を認知しているだけだ。
黒いコンバット・グローブの右手が、日本刀の柄を小指から順に折り畳み、丁寧に握り直すのが見えた。
「やめろ……」
列島が真ん中でへし折れることになるぞ――。
複合積層学園都市が単体でアメリカと交渉できるのも、多国籍権力としてカフカス-中央アジア新興財閥機構と東ヨーロッパ合同原子核研究機関がバックにあるからだ。それを繋いでいるのがわれわれ《教団》であることなど、お前も……。
説得する女の顔に、いきなり日本刀の刃が突き込まれる。
受け止めた軍用バイザーが、火花とともに破片を散らした。
バイザーが女の顔から外れ、刃の切っ先とともに床を柳條香流の方に引きずられた。バイザーの装着具とともにまとめられていた女の長いブロンドが散らばり、先っぽがピンと尖った耳までが姿を露わした。
同じく表れた緑色の女の瞳が、柳條を射してその感情を読もうとした。
女の知る柳條は、天才肌ではあったが論理性を持った少女だったし、何よりも総矢 獨景の望まないことを行う人間ではなかった。
総矢は、女とは盟友であり、裏切るはずはない……はずだった。
柳條は、刀を思い切り横凪に振るい、切っ先に食い込んでいた女のバイザーを振り離した。そのまま、切っ先を再び低姿勢で横たわる女に向けた。
狂ったやつに理屈なんて通用しない。
いくら綿密に積み上げてきた歴史の必然も、たったひとりの存在に狂わされるのが人類史だった。同じことだ。
「ははは……」
はにかんだような不思議な笑みを、亜人類――エルフの女は浮かべた。
複合積層学園都市とアイシス神の黒秘教の蜜月は、ここで断ち切られる。歴史が動こうとしている。こんな、個人の誤作動としか思えない挙動のためにだ。
「やらせはしない……」
エルフは、最後の力を振り絞ってコンバット・グローブに仕込まれた切断性能の高い極細の《糸》を展開させた。
刺し違えてでも、歴史の異分子を排除しておかなければならない。
これは世界史にとって必要な成長過程なのだ。
「――ふぅん、つまらないこと」
柳條の声らしくない、低く深い発声であった。
エルフの緑の瞳が、戸惑いに揺らぐ。鎖骨の辺りまで伸びている柳條の髪が、風もないのにざわざわと揺れ始めていた。
それを、何と表現したらよいのだろう。
現象としては、漆黒だった髪の毛が徐々に象牙色にまで脱色していったのだが、はたしてそれは単なる色素の脱落というよりも、まるで世界のプリントが狂っていくようだった。紙へ綺麗に印刷され終えたはずのカラープリント画像が、それを成立させている複数の色層に分離しながら、徐々に画像の虚構性を露呈していく――とでもいうような。
あるいは、虚構そのものが漆黒の髪によって彼女の輪郭を得ていたのかもしれなかった。
蜘蛛じみた女の糸が、螺旋を個々に描きながら空間を、線や面ではなく三次元で制圧するために動き出す。二重振り子の軌道を予想するよりも、糸はおそらく困難な挙動をはじめるはずだ。
次の刹那には、刀身が再び閃いた。




