16 / - 1 名古屋市 × 東春日井郡市 case.γ
わたしたちは、心がいずれかの仕方で脳と結びついているという考え方を、完全に放棄する必要がある〔…〕。――C・G・Jung(1952)「Synchronicity」『The Interpretation of Nature and the Psyche』, Pantheon, p.123.
もっと、頭に血が上っているかと思っていた。
敵は冷静ささえ感じさせる動きで、彼らを翻弄していた。
《靑騎士》――複合積層学園都市・内務枢軸局第5部6課機械化歩兵群運用意思決定会議、通称「機械座」の秘蔵っ子が、すでに数機行動不能まで追い込まれている。
世界初の軽歩行車両カテゴリの機動歩兵に非がないとは言い切れないとはいえ、冷静さを欠いた者を手懐けるほど簡単な仕事はないはずであった。なにしろ、相手と社会的な関係性を再生産する必要がない。結ばれるべき関係性は加虐と被虐のみでよいのであって、それは近代以降のあらゆる社会においては例外的状況以外で許容されるものではなかった。すなわち、現在ここは例外状況にあるのでありそれは通常戦場と呼称される。
軍用輸送車は夜闇のなかを進み、トンネルを抜けるとすでに朝焼けが見えた。
視界にうつる地面はすべてなんらかの植物に覆われており、なおかつ平面ではなくさまざまな角度に歪んでいた。山路であった。
彼らは、すでに展開しているアメリカ陸軍の支援をうけながら、テロリストの制圧を行うことを任務としていた。とはいえむろん、その相手は数週間前に対決したヤツであるに違いないことは皆、うすうす気づいている。
戦闘補助知性の指示に従って行った機銃掃射は敵勢力のほとんどを無力化したらしく、立ち向かってくる影は一人だけにすぎなかった。掃射を担当した兵に少なからぬ動揺が広がっている様子はあったが、実戦が初の者も多いのだからそれは仕方がないことのように思われた。
それにしても、敵は速く、その攻撃は重い。
肉眼で有視界戦闘を行っている僚機たちがその動きが追えずに損傷していく。
機械化した視覚の場合、モーター駆動による複数の光学レンズで焦点を調節しなければならないが、不慣れもあって輪郭くらいしか捉えられないままモーターが無為に動き続けている。
代月 更也はもはや間に合わなくなったモーター駆動によるカメラ・アイのピント調整を諦め、自ら視覚野への情報入力を切断する。
視覚野は生きている。
白い空白の中にすべてが沈んでいる。
眩しいような、あるいはぼぅっと陰っているような白い無限が現われる。
立ち眩みの際に現れることがあるという視界非ざる視界。
あるいはそれを、人は《暗闇》と呼ぶのかもしれない。
純白の暗闇には高さも奥行きもない。
自らの身体さえその世界には含まれていない。
しかし更也はその白地にいながら外界の知覚を同時に成立させることができた。
機械化した感覚器官がかつては存在しなかった仕方で外界を猛スピードで脳に再装填している。
現生人類の視覚は広角端35mmレンズ換算で50mmの視野角情報に近似していると言われている。だが、それが人間存在を規定する条件であるはずはないと更也は考えている。
確かに光子の伝達速度は速いから、これはもっとも効率としてはよい。
しかし、人間 - 機械の情報接続を前提としなければならないならあえてそこにこだわる必要はない。手を届かせるために効率的な《視覚》として、眼球からの光学的入力が選択されているに過ぎない。
ならば波であれ粒子であれ、相手に手が届きさえすればどんな知覚も等しく有用であるに違いない。彼は機体に付属するあらゆるセンサー類の情報から空間情報を脳内に再構成する。
加速するような仕草を見せながら、速度をわずかに落として距離を詰めてきた敵存在からの打撃は、丸みを帯びた左腕を斜め横から軽く押し当てることで逸らした。
火花が散ったかもしれないが、素材的に問題はない。
装甲にかかる圧力として敵の存在を感知しながら、視覚の選択肢が光学的なものだけではないことに驚いた少し前の自分を思い返す余裕すらあった。
「……………………フンッ…………」
視覚情報が代替可能な入力であることに、更也はすでに順応している。
精確な攻防は、現代戦というよりも武術的な闘争のようだった。
そもそも白兵戦に持ち込まれた時点で、遮蔽物を確保しつつ行われる銃撃の応酬を想定する現代戦は成立しない。
それを戦闘補助知性を搭載しているとはいえ、重機である《靑騎士》を操ることで戦闘を無理やり継続していた。
鉄の身体による《心眼》による視界を共有しながら、遠くから戦闘を見守る柳條 香流は複雑な心境でそれを《見て》いた。
彼女の身体は現在そこにはない。
数十km後方の複合積層学園都市の最上階層から、かつて彼女自身の失敗にっよって視覚を奪ってしまった男の戦う様子を複雑な心境でモニタリングしている。
彼は強くなった。
彼女がかつて目指したような仕方で強くなっていた。
それは人間の超克であり、機械という美へのやわらなか同一化を志向している。
志向していく。
(――だが、)
と彼女は逆接を意識に挙げざるを得なかった。
(そんな強さは機械に任せておけばいいんだ。人間は、お前はそちらを選択肢としては受け入れつつも、こちらに戻ってこなければならない。人間が光学的視覚を発達させたのは敵に拳を叩きこむために効率がよかったからではないのだから……)
彼女は自らの手の指を互いに触れさせ、小さくたたみながら溜息を吐くように顔を伏せた。
(人はだれかの顔から表情を読み取るために光学的視覚にこだわったんだよ。愛も憎しみも、それ以外の知覚では未だ十分に代替できはしない。私は……私が言えることではないのかもしれないけれど、お前がそれを捨て去らないことを祈るよ)
かつての上司にあたる少女がそんなことを考えていることなど知るはずもなく、更也は敵との戦いに没頭していく。
彼には攻防の順序を組み立てることしか頭にない。
予想した相手の動きが当たる/外れるに従って、予め登録されている機体各部の作動パターンを瞬時に組み合わせて対応を編み上げる。
流れの中で相手に背中が向き、腕が見切れたであろうタイミングで上腕部に仕込まれた電磁ブレードを突出させて左逆袈裟斬りで斬りかかる。
体操選手のマット・アクロバットのような敵の後退を追って、ブレードでの刺突を狙って追撃する。
当たらずにブレードが山の岩肌に突き刺さるが、通電の破壊力で岩石を爆砕させて剣先を自由にして敵に間一髪で向き直る。
もう少し遅ければ攻撃を受けていたに違いなかった。
二者はしばし、無言で対峙する。
気づけば、すでに彼以外にまともに戦闘を継続できる《靑騎士》がいなくなっていた。
彼は左腕のブレードも展開させ、両刀に通電させる。
刀身が熱で赤く発光する。
踏み出しのタイミングを測っていた彼の《視界》に、その時、どこか違和感が混じった。彼は瞬時に機械的な接続の不良を疑った。
こんなときに故障が?
だが、彼は白い視覚野に映り込む――舞い降りてくるモノがあることをたしかに知覚し、認識した。赤い――それは、小さな新鮮な血痕が繊維に染みるようにして、白い暗闇にじわりと広がってきた。
(――――え?)
その赤い染みは、着物を着た少女の姿へと徐々に変化しながら、更也の存在しない顔に向かってゆっくりと舞い降りて来る。振り袖を翼のように揺らしながら、両腕をこちらの方にむけて差し伸ばしてくる。
存在しない頬に触れようとするように。
「――――」
目が合った少女の瞳は大きく見開かれていたが、そこに現れている感情は彼が知っているどれにも該当するものではなかった。




