15 / - 10 名古屋市 ⇒ 東春日井郡市 case.α
意味のある呟きが誰の耳にも届かなかったときほど、言葉が、伝達のためだけに存在しているわけではないことを思い知らされる。すべての発話が意思疎通を志向しているのだとすれば問題だったが、無論、まだこの世はそれほど寂しさに満ちてはいない。
寡鐘は自らが呟いたのが、イェイツの「塔」という詩であったことを思い出す。
詩人がノーベル文学賞を得てから、初めて出したまとまった詩集の表題。イェイツはこのとき、すでに63歳。晩年の作だ。
(こんな馬鹿々々しいざまで、俺は一体どうしようってんだ?
あーあ、心、悩む心――こんな下らん漫画の下書き、
まるで犬の尻尾みてーに、俺にくっついて離れねぇこんな
老いぼれの分際で、さ。)
微笑ましい詩だ、と彼は苦笑する。
イェイツはいろいろ言いつつ、だが最後まで自殺することはなかった。
生きる意味を最後まで探し続けた。
第二次世界大戦に向かっていた暗い時代に。
こう考えると、カワバタやミシマにこれができなかった意味がわからない。
イェイツほど、内向できなかったせいだなと彼はぼんやり考える。
言葉が伝達のためのものだと考えすぎてしまったのだ。
聞き取られない言葉に、意味を見出すことができなかったんだ。
ミシマが描くどもる人物のリアルさと、インテリたちと弁論で渡り合うミシマの様子。彼はどもりの自分を封殺することで作家になったんだろう。だから、彼は社会に声を届かせることに使命を感じてしまった。
人に届かない言葉には意味がないとしたら、それは読まれない本には価値がないという結論を誘因する。誰からもに読まれない本は不幸だろうか? 誰も感動させない小説は不幸だろうか?
ミシマは不幸だと考えたはずだ。
彼がエンタメ的な作品を多く手掛けたことも頷ける。
だが――と寡鐘は思う。
そんなことはあるまい。意味のある呟きが誰の耳にも届かなかったとしても、その言葉は不幸ではない。それを呟いた唇も、振えなかった耳朶も。
人に届かない言葉は不幸ではない。
人に読まれない本は不幸ではない。
人に語り掛けることが不幸を生むのだとしても、その不幸は言葉ではなくそれを用いて目的を達成しようとした人間のものだ。言葉も小説も人とは異なる主体を想定しておくべきだ。擬人化できるのは人間だけなのだ。
そこまでつらつら考えて、寡鐘はふと思った。
人に届かない言葉は不幸ではない。
人に読まれない本は不幸ではない。
だとすれば、人に届かない存在、そう――人のいない惑星は不幸だろうか。
例えば火星は、地球より不幸だろうか……?
残念なことに、それ以上彼の考えが進むことはなかった。
思考が途切れるにしたがって、彼に視覚が戻ってくる。
聴覚も。
あたりには絶叫が響き渡っていた。
人が出していい音ではなかった。
絶命を前提とした断末魔としか思えなかった。
彼の後ろを歩いていた少女のひとりが急に叫び始めたとしか思えなかった。正気ではない。携帯端末の光を向けると、暴れるひとりを、まわりの少女たちが取り押さえている。
彼も駆け寄った。
抑え込めていることから、武道をやっている瑠都ではない。
誰だ、冬目、アナスタシア、涅逸見耶が見えた。
叫んでいるのは磨天だ。
絶叫が悲鳴にまで落ち着いてきている。
「お、おい、見つかっちまう――――」
涅逸見耶が磨天の口を手で塞ごうとしているが、暴れるためなかなかできない。意外にも瑠都はおろおろしている。
「クソッ」
彼が抑え込むのを手伝おうとしたとき、気絶したように磨天の悲鳴は止まった。
青白い顔の彼女の身体は、痙攣を繰り返している。
予想していなかった事態に背中が泡立っていた。
連邦軍の攻撃だとすれば、もはや助かる道はない。
必死になって、戻ってきた聴覚に集中したとき、彼らの方に向かってくる足音に寡鐘は気づいた。それはゆったりとしたリズムで、軍人のものではなかった。彼は携帯端末に付属している高出力のライトを、最大出力でそちらに投射する。
「――――」
見えたのは赤い着物姿。
長い黒髪、冷たい相貌。
「樹禰……」
手でライトの光を遮り、眩しそうに目を細めながら現れたのは寡鐘の姉、咲眞樹禰だった。
「眩しいよ、寡鐘」
彼はホッとしていいものかどうかわからなかった。
だが、ほかに何者かの気配は感じられない。
「何でここにいる、何をしてるんだ?」
「――別に。ただ珍しい子たちと一緒みたいだったから……」
彼女の視線に振り向くと、冬目とアナスタシア以外の少女たちが怯えている。
「ようこそ、弟がお世話になったみたいで――」
そう言いながら、樹禰は寡鐘の横を通り過ぎて少女たちに近づいていく。すでに意識のない磨天のそばまで歩くと、かがんで磨天の頬に触れながら、「可哀想に」と言った。
「優秀過ぎるというのも考えものだわ、そうは思わない? 異国の姫様……」
立ち上がりながら、樹禰はアナスタシアに手を差し伸べ、握手するように手に触れた。こちらからは表情が見えなかったが、アナスタシアは目を見開いて樹禰を見返している。
「貴女は何ですの?」
とアナスタシアが震える声で訊ねる。
「さあ、それはあまり、意味のある問いではないと思うけれど」
右手でアナスタシアと握手しながら、左手を冬目の方に伸ばす。
「よろしく、妖精たちの姫……」
会話の意味はよくわからなかったが、高学年とはいえふたりの小学生と握手する樹禰は、寡鐘にも頼もし気に見えた。もちろん、彼は姉のことがあまり好きではないので、複雑な心境ではある。
「地上、大変なことになっているわよ、普通に考えればわかるけれど、あなたたちにはここから先、ほとんど希望はないと思う……」
「じゃあ、このまま諦めて死ねって? 連邦に姫を引渡せって? 引渡したら、こいつら、よくて処刑らしいけど?」
「わかっている。でも、そう、あの複合積層学園都市に辿り着ければ何とかなるとか、とりあえずそう考えているわけね……」
「そうだよ、ひとまず俺の隠れ家でかくまって、で、折を見てバビロンに逃げてもらう」
彼の言葉に、樹禰はいつものように少し呆れたような表情をして頷く。ひどく手間のかかる弟だとでもいうような。
「まぁ、ともかくこちらについてきて……」
樹禰はそう言うと、寡鐘が向かおうとしていた通路とは別の方向に歩き始めた。仕方がないので、彼はついていこう、と少女たちを促す。気絶している磨天は、彼が負ぶった。
「なんでそっちに行くんだ、どこに出るつもりだ?」
「なんでって……だってあなたの出ようとしてた場所、もう人がたくさんいるんだもの――」
「早いな……」
しばらく歩いていくと、通路の先に小さな人影が見えた。
通路の分岐点に立っている。
「目印役、ご苦労様」
その人影に、樹禰が声を掛ける。
公立中学校の制服を着ていた。白いセーラー襟、紺色のスカート。
寡鐘の同居人、鷸井瑞輝がそこにいた。
寡鐘の表情が急に険しくなった。瑞輝を樹禰に会わせたことはなかった。存在を知らせないよう、注意深く生活してきたつもりだった。
「……なぜ瑞輝を」
双子の姉は弟のそんな言葉を華麗にスルーして、
「このあいだお友達になったのよね?」
と瑞輝に向かって訊ねた。
寡鐘が何か言う前に、
「はい、そうです」
と、瑞輝が無表情でそれに応えた。




