2 / - 2 東春日井郡市 貮
18年前の、1966年。
その1月7日に発行された随想集に、『どくとるマンボウ途中下車』という、「どくとるマンボウ」こと北杜夫が、中央公論社から出版した随想集がある。そこに所収されている「私は旅立とうと思う」という電車と旅の随筆には、この地域「東春日井」の名が登場する。
次のような箇所だ。
少し長いが、ここに引用しよう。
「塩尻(長野県塩尻市――引用者註)から名古屋へ抜ける線は、はじめての体験であったが、材木を山積みした貨車といくつもすれちがって、やたらと山間をゆく感じであった。名古屋の手前に、春日井という駅があり、その手前の東春日井か、ともかくそのどちらかの駅である。そこに友人が住んでおり、その名は長繩といった。
私が下車したときには、もう夜になっていたが、どうせ広からぬ町であろうし、長繩という変わった苗字の家なら訳なく捜しあてることができるだろう。駅を出たところに売店があり、そこのおじさんにさっそく尋ねてみた。
『長繩といううちを知りませんか?』
相手は落ち着きはらって答えた。
『わたしも長繩ですが』
私はこの奇遇におどろいた。
『長繩君のお父さんですか。ぼくは……』
どうも様子が変である。長繩ちがいであることがじきにわかった。私の説明をきくと、相手は、
『住所を知ってますか?』
私は首をふった。
『お父さんの名前を知ってますか?』
私は首をふった。
『そいじゃむずかしいて。ただ息子が松高へ行ってるというだけじゃ』
『しかし』と私は言った。『長繩なんて姓はあまりないでしょう。このくらいの町で……』
相手は首をふり、気の毒そうに言った。
『それがあなた、この町は大半が長繩という姓なんですよ』」
町の大半が長繩という姓――これにはもちろん誇張もあろう。
しかしながら、あながちフィクションというわけでもない。
現に、《東春日井》という街は長繩姓に「包囲」されている。
その内側にある「何か」を、硬く封じ込めてでもいるかのように。
この土地に人が住み始めたのは江戸時代のころと言われており、行政区画としての「東春日井郡市」は1943年(昭和18年)に、周辺の4地方自治体、つまり、旧東春日井郡 勝川町、鳥居松村、篠木村、鷹来村が合併して誕生した市である(残念ながら歌人の春日井健らとは何の関係も無い)。
これは当時の陸軍造兵廠の鳥居松製造所、鷹来製造所、鷹来製造所西山分廠をより効率的に運用するために実施されたものであった。
造兵廠(住人には”工廠”と呼ばれることもある)とは旧帝國陸軍の直轄工場のことであり、戦後にこれら造兵廠は閉鎖され、製紙工場や水道局として土地が活用されていく中、市はその軍需都市としての歴史そのものを半ば隠蔽するようにして、「新しい」市のイメージ開発をするように努めた。
しかし生糸産業が廃れた今、売り出せるものが平安時代の書家の生地として「書の街」をアピールすることか、伊勢湾台風の後に達成された「アロエの出荷量が全国一」であることを売りものにするしかないような状況にあって、その地味さが住人からは不評であった。
名古屋が近しといえど、そもそもが田舎なので売りが少ないのは宿命的であった。
名古屋の人間は「奈良みたいで素敵なところですね」などとその自然を褒めたが、それは住人にとって皮肉以外何者でもなかった。東春日井はどのように言い逃れようと、元来が荒地なのだから、市街地から少し踏み込めば雑木林や野原の続く路を通ることになる。
多くの地方都市と同様に、自動車のあまり通らぬところなどはアスファルトでもなかった。
例えば今、羽田野恭介が潜んでいる茂みの前も、そんな剥き出しの土の踏み固められた道の一つだった。
辺りは闇。
ただ道に面した大きな屋敷の屏の奥、その建物の二階の窓から溢れる灯りだけが光源であった(この場合、月のことは光源と呼ぶにまでは及ばないだろう)。
辺りに他の建物が無いからであろうか(辺りは一面の林、そして野原だった)。
カーテンは引かれていない。
恭介はその窓を一心に見詰めていた。
着物の赤さが目に鮮やかだった。
そこにいる者は、明るい室内から暗いこちらに気づきはしないだろう。
美しい横顔が見えていた。
そこは、咲眞樹禰の家の前であった。
夏休みに入ってから新しい日課になったこの行為に、恭介はすでに開き直っていた。
「…………”空蝉のいづれも力抜かずゐる”……か」
恭介は適当に俳句みたいなものを呟きながら、それよりは、”電柱に充電にきて油蝉”の句の方がこの状況に合っているな、と考えた。
ユーモラスなところがまたいい。
この状況の醜悪さが薄れるようだ。
それにしても、今日はいつごろまで観ていられるだろうか。
灯りを消されれば、もう、帰るしかないのが寂しかった。
「……”森しんしんと蝉啼き沈む真夏かな”――じゃないのか?」
「――――――」
ハッと振り向いた彼の顔には恐怖が――浮かばなかった。
浮かべる機を逃したらしかった。
恭介の目には一瞬、その者の貌が樹禰に見えた。
立っていたのは閘堂寡鐘――クラスメイトだった。
それが認識できた途端に、恭介は逃げた。
顔を見られたかどうか、暗さで何ともいえなかった。
だが、声を聞かれたのは確かだったし、それに、気まずかった。
全力でその場から失踪した。
辺りは平地林と水田ばかりの道。
田に落ちないように気を付けながらの疾走だった。
運動によるものとはまた別の汗が背中に流れた。
彼は混乱していた。
「…………うわ、やば……」
顔が熱い。
鼻血でも出てしまいそうなほど、赤面しているのが暗闇の中でも感じられた。
(……寡鐘? 何でそこにいた? 明日、学校でどう言えば……)
いや、そもそもこれが樹禰の耳に入ったらと思うと、死にたくも思えた。
半ば積んでいるのではないか、自首してしまうべきなのだろうか。
だが――と走りながら彼は考えた。
しかしそういえば、でもそうはいっても、俺が後ろ暗いことをしていたという、確たる証拠は何もないはずだ。そう、落し物はない、見たのはただ、寡鐘だけだ。
(パソックで映像が撮られていたら――いや、そうだ、あいつはパソックを持ってない)
そうだ、いくらなんでも、彼だけの証言では、何の証拠能力もないはずなのだ。
噂くらいには、なるかもしれないが……。
「う……うん。まあ、それくらいなら、いい……かな」
恭介は息を切らしながら、足を止めた。
自分の邪悪さに、すこし心を痛めながら。
高く伸びた雑草が、月夜にざわざわと風に戦慄いていた。
道の脇に群れて咲いた彼岸花が、月明りの夜闇の中でも紅く映えている。
血のような赤みだった。
雨も霧もないのに、濡れているように見えた。
恭介は、それを見て軽い吐き気がしたが、息を整えると、歩き出そうとした。
だがそのとき、風以外の音が聞こえた。
そこで不意に、地面に自分が転がるのが分かった。
「……うぅ……?」
意識が飛ぶかと思う衝撃だった。
口の中に鉄臭さが広がった。
痛みで、殴られたのだと知った。
軋む身体を手繰り寄せるようにして、恭介は上半身を起こした。
だが、すぐに地面にへたり込む。
殴られた頬を中心にして、視界がぐるぐる回っているみたいだった。
「寡鐘……?」
月を背にして立っていたのは、先ほど彼に声をかけた閘堂寡鐘だった。
恭介は身を固くしていた。
まさか寡鐘がそんな行動をとるとは、普段の彼の様子からは想像ができなかった。
寡鐘は恭介が聴いたこともないような、厳しく低い声で話しかけてきた。
「――恭介……上澄みだけを啜っていると、痛い目を見ることになる……」
「何、だって……?」
恭介は、やっとのことで声を上げた。
地面に転がったまま、もう眠ってしまいたかった。
「寡鐘、だよな……えっと、何で、お前がこんなこと……」
そう問いかける恭介を見返す寡鐘の眼は、極めて冷たい。
これが同い年の、高校生の眼なのか、と恭介が思うほどに、威圧感ある眼差しだった。
(……こいつ、ホントにあの理性的な、閘堂のやつなのか? 本当に……)
寡鐘は動かなくなった恭介を、冷たく観察しているようだった。
こいつは殺し屋でもやってんのか……恭介はその様子に呆れながら考えていた。
「樹禰のやつにお前が執心してるのは知ってた。でも、あいつはヤバいよ……」
寡鐘は、そう言って口端を上げた。
目は相変わらず冷たいままだ。
安心でも、させようとしているのだろうか。今さら……。
かすかに吹く夜風が涼しい中、寡鐘は着ている白いワイシャツの釦を、無駄のない手つきで外し始めた。丁寧な外し方だったが、とても素早い動作だった。
寡鐘は釦を外しながら、数メートルあった二人の距離を詰めてきた。
ふたつの動作はあまりに自然に連動していて、恭介にはまるで、獲物を追い詰めたネコ科の猛獣のように見えた。
恭介のすぐ側まで来た彼は、しゃがんで、彼の目に自分の瞳を近づけてきた。
「……なぁ恭介、聞いたことがないか、こんな話……」
寡鐘は瞬きをせず、その口端を上げたあいかわらずの笑顔で、恭介に語り出した。ふたりの顔の距離は、すでに接吻を待つ姫に手を掛けた王子よりも近かった。
「――ここ上丸田は、いまでも実質、あの旧家・咲眞家が支配しているに等しい。だがその周辺には六軒屋といって、江戸期に興った六軒の地主があったという。すなわち、柴山、平澤、青山、梶田、長繩、鬼頭の六家だ。最初の四家は分かるだろう? この辺りの自然や地形、そのものだからな。だが……」
寡鐘の眼は、自ら光でも放っているかのように爛々としている。
恭介は目が離せない。
寡鐘は、舌で唇を舐めながら言葉を続ける。
「だが――あとの二家はどうだ? 長繩とは、おそらく注連繩のことだろう。鬼頭――鬼の頭とは、いったい何のことなのか――分かるか? この咲眞家の秘密が?」
言い終わると、寡鐘は屈んでいた姿勢を正した。
顔が離れたことで、恭介は、今言われた言葉の意味を考える余裕が、少しだけできた。
しかし寡鐘はすぐに、釦の開いたワイシャツの前を持つと、両手でバッと開いて、自分のうすい胸を晒した。月光のさなかだった。滑らかにシャツはすべり、決して肉づきはよくないが、要所要所にはしっかりと肉の付いている彼の上半身が晒された。
その上には、首から下げられた紐に武骨な二本の大きな牙と、いくらかの水晶が通されている首飾りのようなものが見えた。
恭介は、なぜか息を呑んだ。
「――これは、樹禰の角だよ」
恭介は戸惑いの表情を浮かべた。
意味がよくわからなかった。
寡鐘は恭介に近づき、その首飾りの牙にみえるもの――樹禰の角だというそれの先端に、恭介の唇を一瞬だけ、そっと触れさせた。
「あいつは《鬼》だ――近づけば喰われる」
寡鐘の手が首筋に触れるのが分かった。
寡鐘の顔が近づき、おもむろに恭介は、唇を奪われていた。
頬を片手で掴まれ、無理やりに何かを流し込まれる。
喉に異物を感じた。
何かを、飲まされている。
そこで――恭介の意識は暗転した。
◇
寡鐘は去った。
恭介が、道端に気絶している情景。
未だ沈まぬ月光。
歩んでくる人影。
その影の揺れるたび、彼岸花が揺れ動く。
カラン、コロン、カロン…………
そんな足音が響いてくる。
濡れた土の道にそう、響きはしまいと思われるのに。
赤い和服着たその者の貌、閘堂寡鐘とよく似ている。
髪を後ろに結わえて飾り、どこか気だるく――歩みは遅く。
眠る恭介の傍らに立ち、彼女はそっと目を閉じる。
徐々に《真っ赤》へ、色付く空気――周囲に鉄の、臭いも交じる。
闇には何かが蠢く様なども見えて、黒さは恭介にも群がろうとする。
だが、彼女はそれを視線で殺す。
目蓋の開くそれのみで、恭介へ群れるそれらは溶けた。
真っ赤な袖から白い手を、彼女は延ばし彼に触れ、しゃがんで触れたその直後、彼女の手には何かがあった。やはり蠢くそれをまた、彼女は愛しと握りしむ。
ふたたび彼女が瞬きすれば、元の変わらぬ田舎の畦道――田んぼの臭いが生臭く、草と林は青臭く。
彼女は手に持つそのものを、弄びつつ呟いた。
「あいつは甘いな」
そう言うと、彼女の横顔ややほころんで。
彼女は手に持つそのものを、そっと口へと引き寄せて。
唇にそれを触れながら、すこし考え、視線を逸らす。
「いや甘いのは……」
僅かの間。
そのあと手に持つそのものを、そっと唇押し開き、菓子でも喰らうの要領で。
――さこんっ
と齧って空を見た。
夜風が温く吹いていた。
「いや甘いのは、私か――」
それから彼女は咀嚼して、家に戻ろと歩き出す。
さっき彼女の食べたのは、恭介から抜きとった、今日の記憶と、恋心。