15 / - 4 名古屋市 ⇒ 東春日井郡市 case.α
僕はある時期、古い舞踊を習ったことがある。
それはようやく物心ついた頃だったから、5歳くらいだろうか。
そのころの僕は孤児施設のようなところにいて、思いつく限りの学問や芸術を体験させられていた。今思うと、適性を探られていたように思う。2年ぐらい経ったら、僕はカーキュレイティング・サイエンスの学修のために、東欧の科学アカデミーに留学をさせられることになるのだけど、まだ5歳の僕はキリル文字の勉強のためにテキストを寝転んで読みながら、そこに書かれた他愛もない妖精物語に、夢中にもなっていた。
僕の師匠になった人は十代くらいの少年だった。
親がかりのせいか芸人らしさがなくて、おっとりとした芸風で気持ちが良かった。稽古場は施設の一室で普段の生活とはかわり映えしなかったけれど、歌の情緒に浸りながらある感情を身体で表現するのは、とても楽しかったのを憶えている。
その踊りはもともとアステカ族の伝えたもので、テスカトリポカという神に捧げられた踊りだった。
もっといえば、それは《蜘蛛の舞》だった。
15世紀にアステカ帝國から伝えられた神事の舞は、正教の地である北アメリカ大陸で純芸術として成熟し、数世紀のちに勃興したモダニズム芸術期には大きな一派として、都市地下藝術を席巻した。19世紀後半以降は、旧来の帝國主義の改良を進めた北米連邦が、諦植民地主義を標榜した際に大陸間友和の象徴として国定教科書に掲載されたことで、連邦における国民的な舞踊となった。戦後になってからは、連邦の友好国の間にも広く知られている。
《蜘蛛の舞》は、実際の蜘蛛を観察するところから始まったといわれている。
なんといっても南米は、大型蜘蛛であるタランチュラの原産地だ。
南米大陸の北東部には、小型犬ほどの大きさの蜘蛛が存在するが、まさにその場所は近世にアステカ帝國が支配下においた土地でもある。海賊を通じて西欧文明との交易を持ったインカと、北米連邦文明から文化的・技術的な恩恵を享受できたアステカとでは、技術レベルに数世紀の隔たりが生じたが、そこに大きな争いが起こらなかったのは蜘蛛の舞というコミニュケーション手段の存在したおかげであったとする学者もいるほどなのだった。
毛の生えた大きな蜘蛛を、僕も師匠に見せてもらったことがある。
舞のためには必要、ということらしかった。
でも動きは緩慢で、眠そうにしていた。
何も怖くはなかった。
ちょっと気持ち悪かったけど、どちらかといえば面白いマシンを見ているようで、パーツとパーツの美しい連動、綺麗な運動の仕組みをみるにつけても、僕もこの蜘蛛みたいに動きたいと思ったものだった。師匠は、自分のことは忘れてもいいと言っていた。なぜなら蜘蛛が――師匠は蜘蛛にマダム・オクタと名付けて呼んでいた――本当の師匠だから。変な人だった。おかげで、僕は師匠の顔を憶えていない。かわりに蜘蛛のマダムの顔のことだけ、よく覚えている。
僕の中で、蜘蛛といえばあのマダムの顔だった。
でも……。
いやだからこそか。
湿った日本の山にいる蜘蛛を見て、嫌なものを見てしまったと思った。
1984年8月20日の夕刻、つるべ落としのように陽が落ちた後の白山の峰の縁で夕食を終え、キャンプで夜を明かそうとする僕たちの中に、悲鳴が上がった。
「ぴゃあぁぁぁぁぁぁぁぁあっっ!!」
という感じの悲鳴だった。
ちなみに、上げたのは僕だった。
「うわ、これっこれこれっ、これって、蜘蛛ですか……?」
僕はゾッとして、背中の皮膚がすっかり粟立ってしまった。
身体が跳ね上がるように後退って、尻もちをつく。
「ヒ、ヒィッ……!」
草の葉の上にいるそれは、肢の細長い、黄色い半透明の蜘蛛、だった。
まるで卵黄で出来ているみたいな色。
これがあのマダムと同じ、蜘蛛だというのだろうか……?
その顔は何の意思も読み取れなくて、それなのに毛の生えていないそいつは、マダムよりもずっと、人間ようにみえた。
「アブラグモ、ですかな」
と僕のいた場所を覗き込んでいたイディン・レさんが言った。
「小さな蜘蛛です、毒もないでしょう」
僕はメイドのベフラさんに抱き起されながら、顔が熱くなるのを感じた。情けなかった。それで、またそっと、蜘蛛がいた場所に近づいた。
あらためてまじまじとみる。
たしかにすごく小さい。
五ミリあるかないか、というところだった。
折れ曲がった細長い肢がバラバラに動くところなどは出来のいいマシンみたいだったけれど、つるつるしたその表面をみていると、なんだか無性に身体中を掻き毟りたくなるようなおぞましさを感じるのだった。
手が、いつのまにか震え始めていた。
それからも夜は、順調に更けた。
楽しい夏休みなのだろう。少なくとも、彼女たちにとっては。
「トーメさん、もうすぐ最上学年だというのに、あんな小さなクモが怖いの?」
何だかうれしそうに、中御門涅逸見耶さんが大きな声で話しかけてきた。愛宕瑠都さんや純伴磨天さんもいっしょだった。
どの子もおなじような表情。これがもし小説なら、彼女たちを何か標準化された製品に譬えるところかもしれない。
ネヘミヤさんは腰に届きそうなポニー・テイルをふんわりと垂らしている。
柔らかで、かなりボリュームがある。
豊かな黒髪と白いブラウス・タイプの服が、コントラストを作っている。
コントラストは記憶にとって重要なフックだというから、この陰影を僕は将来山登りの際に思い出すかもしれないと思うと、目の淵がしくしくと痛んだ。軽い痛み――でも無視できない痛みだった。
彼女たちの服装は普段なら華族が髪を括るなんて不良の娘みたいだからと親に止められそうな姿だけれど、このキャンプに参加している間は、それを禁止する親もいない。
「この国の蜘蛛はじめて見たから……」
僕はそう言って笑った。
ちょっとした強がり、あと照れ隠しもあった。蜘蛛って生き物自体が苦手だと思われるのも嫌だなーと思ったのだった。たぶん、伝わりはしないだろうけど。
「そう……」
彼女たちから何か含みのありそうな声があがった。かと思うと、もっとも小柄な瑠都さんが僕の眼前に飛び出してきた。といっても「飛び出してきた」と認識できたのは、この僕の身体がこれまでの成育の間に、化学的に性能を調整されていたからかもしれない。それに彼女の、呼気よりも小さく大気に溶けてしまいそうな声を聴けたのもまた。
「――御免っ」
――――――僕は、わけも分からないまま水の溜めてある桶に突っ込んでいた。頭に視界が響いてくわんくわんする。景色が三重ほどにブレている。三半規管に深刻なダメージ負っているみたい。
「うぅ? うぶっ……」
震える腕で地面を押さえ込んで、体のバランス感覚を立て直そうと足掻いた。
知らん顔していたはずの瑠都さんが、そんな僕の行動をみると慌てて近寄ってきて、膝を折った。
「それは無理、やめたほうがいい、です」
僕は自分の頭が横に揺れているのを感じながら、
「無理ぃい?」
と声を出した。
声を出すだけで、精いっぱい。
「しばらくは、横になっていたほうがいい、です。脳、を壊します、よ」
「ふぇえ?」
僕は怖くなって、その場にぐったりとうつ伏せに倒れ込んだ。
とまるんじゃねぇぞ、とこころのなかでなぜかつぶやいていた。
その後のことは、よく覚えていない。
僕は近くの草原に寝かされて、その間に大人たちに僕が倒れたことが知らされたらしい。でも僕は大きな蜘蛛に驚いて足を滑らせたことにされていて、内心不本意だったけれど、別にいいかなと思った。表面がつるつるした大きい蜘蛛は、いるのを見たらたぶんとても怖いから。
不快感が収まって起き上がった僕に、最初に話しかけてきたのはアナスタシアさんだった。
「トーメさんにも怖いものがあるなんて、なんだか不思議ですわ……」
昼間と同じワンピース・タイプの装いをしたアナスタシアさんが、前髪から水滴を垂らしながら震えている僕――水桶に頭から突っ込んだせいだ――に近づいてそう言った。
アナスタシアさんは少し迷って、僕の肩に触れた。
彼女のエメラルドじみた瞳が、僕の顔の、すぐ近くにあった。
「服を脱いだ方がよろしくってよ?」
とアナスタシアさんが言ったとき、僕はドキリとした。
一瞬、意味がわからなかった。でもそれが水に濡れた服を脱がないと風邪を引くからだと気がついて、また赤面しそうになった。僕は恥ずかしくて「そうだね……」と素っ気なく返す。
顔も見れなかった。
本当は「ありがとう」と、返すべきだったのだけど。
肌に張り付いたTシャツやズボンを脱ぐのが思ったより大変で、手間取ったことも恥ずかしかった。素裸なのも何だかな、と思ったから、パンツだけ新しいのに替えて、火のそばに行く。渡してもらったハンド・タオルを首から掛けて、なんとなく前を隠す。まだ、隠すものはないんだけど……でもね。
脱いだ服をどうしようかなと思っていたら、
「トーメさん、お詫びに服――乾かしてさしあげます……」
と、中御門涅逸見耶さんがしずしずという感じでそう言って、答えも聞かずに僕の服を手に取っていた。隣の純伴磨天さんといっしょに、焚火の方に歩いていった。僕を研ぎ澄ました技で投げたらしい瑠都さんの姿は、近くには見えなかった。
「え? うん?」
彼女のたちの行為をみて、僕は少し後悔した。
「あ、失敗しちゃいましたわっ」
「落してしまいましたわ!」
「燃えてしまいましたわ!」
えぇ~~~~~~~~~~~~~~~!!
「そんなぁ…………」
そんな露骨な嫌がらせ、あるの?
いや、これは本当に失敗しただけなのかも。区別ができない。
日本の小学生は、僕にも未知の領域。
二人はとても楽しそうに声を上げて、炎の外に出ている服の袖を引っぱって僕の服を救い出そうとしてくれていた。なんだ、いい子たちじゃないか……。
と思ったらすぐに手元の服を炎の中に叩き込んでいた。
「そんなぁ……」
決定、これは悪意しかない。
性善説にGさらばだった。
「ちょ! ちょっと!!」
僕はちょっと悲鳴みたいな勢いで声を上げて、慌てて二人の方に駆け寄った。焚火から服を回収して生地に燃え移った火を、必死にばたばたして消した。
一応、形が崩れて焦げていただけだったから、僕はそれを着た。
臭かった。変なベタ付きも残っていて、肌に張り付いた。でもぴたぴた張り付いた生地と皮膚の間に鋭い砂みたいにちくちくした感触があって、痛かった。
何よりまだ、やけどするくらいに熱かった。
僕は、ついその場にしゃがみこんで、ゆらゆら揺れている火の向こうに逃げていく二人を止めることも出来ずに見ていた。僕はまだ内臓が温かいうちに雑巾にされて捨てられた、毛の長い犬みたいだった。
でも僕は大丈夫、大丈夫なんです、と、耳元で囁く声がした。
誰だろうと思ったけれど、同時にもうそれが自分の震えた呟きだと気づいている。そう――大丈夫だ。これくらい全然。
僕は、いい子にになるんだ。
もう2度と、捨てられないように。
「……………………」
僕は膝を抱いて、顔を埋めた。
鼻の奥が無性につんとした。
目蓋を閉じた無限の暗闇の中に僕は落ちていった。
このまま僕を中心に膨れ上がり続けるすり鉢状の深い穴に呑み込まれて、地球のマントルの奥深くで重金属の海に熔けてしまいたかった。
近くに燃える火の熱が、皮膚を焼き続けていた。
うっすらと目を開くと、傍らに瑠都さんが立っていた。
「トーメさん……」
と、瑠都さんは顔を上げた私に気づいて声を掛けてきた。
「あの、首を、それ以上、あげないで……」
「え?」
瑠都さんの表情は険しく、真剣そのものだった。
何もわからなかったけれど、僕は彼女の言う通り、再び抱えた膝におでこを乗せた。
「……わけわかんない」
「すぐ、ベフラさんも、来ます、から」
どうして? と思ったけど、もうどうでもよかった。
そのかわり瑠都さん自身のことを尋ねた。
「なんで、あの二人の言うこと、聞いてるの?」
息を呑んだ気配がした。
でもどんな感情なのかは、わからない。
「わたし、は武家の娘、だから」
「……………………」
眼を伏せたまま、僕は言葉を失って、目のなかに溜まっていた涙が堰を切って頬を伝った。
「磨天、は宮司の子、で涅逸見耶は、華族……だ」
そんな説明、しなくてもいい。
口にしなくていいんだ。
僕は自分の愚かさを呪いたかった。
ここは、日本なんだ。
「――あら? ここにいたの、ルツ。こいつに新しい服を持ってきたのだけど」
そこに来たのはべフラさんではなく、磨天さんと涅逸見耶さんだった。
瑠都さんから首を動かさないように言われた僕は、顔を上げずに彼女たちが置いた服を掴み締めた。
「…………………………」
僕はわずかに首を廻して、膝から片目だけを出し、視線で殺すつもりで二人を睨み上げた。
「――何で怒るのかしら? よかったじゃない、いい服が着られて……」
「……あんな安物、燃えてもどうってこと、ないんでしょう?」
「…………!!」
脳裏に総矢先生の顔が浮かんだ。
僕の服は、先生から買ってもらった、大切な服だったんだ!
「クッ……!!」
立ち上がって二人に掴みかかろうとしたはずの僕の肩を、瑠都さんが片手で押さえていた。軽く押さえているみたいに感じるのに、身体がピクリとも動かせない。
「二人、とも……トーメさんは今……」
瑠都さんがそう言い終える前に、
「そうなのですわ。お嬢様方」
というメイドのべフラさんの声が響いた。
「――トーメさん、首筋を見せてくださいまし」
そして彼女は僕の首を見て、そして、
「トーメさん、マダニという虫はご存じでしょうか」
と押し殺した声で言った。
僕は、首を振れないので「いいえ」と返した。
「マダニは、ダニの一種ですが、肉眼で確認できる大きさの虫です……咬まれた場合、血を吸って膨らみます。彼らは主に山岳地域の草むらに潜んでいます。トーメさん、草むらに入りましたね?」
僕は「はい」と答えた。
瑠都さんに投げられたときだ。
「いいですか、落ち着いて聞いてくださいね。マダニは多くのウィルスの媒介者です。特に……」
べフラさんは言い淀んでから、決心したように続けて、
「重症熱性血小板減少症候群が発症した場合、9割以上、助かる見込みはありません。致死性感染症です」
と言った。
「トーメさん、わたし、は……」
瑠都さんが、震える声で許しを請うた。
それからキャンプは慌ただしくなった。
べフラさんが僕だけ連れて山を降り、町の医者に駆け込むことになった。
時間を争うというので、ヘリコプターが手配されたということだった。
「トーメさん……」
アナスタシアさんが虚ろなまなざしで僕を見送りに訪れた。
「ごめん、別荘にはいけそうにないや……」
僕は微笑んで彼女に言った。
ヘリのローター音が聞こえてきていた。
高空から、だんだんと大きくなりながらヘリが降下し始めていた。
あたり一面をヘリの巻き起こす強風が薙いでいた。
でも、
「ああ、どうして……」
べフラさんがそう言った視線の先で、着陸するはずだったヘリコプターは突如飛来したロケット弾によって爆発炎上し、歪んだローターを軋ませながら地面に激突して、突き刺さった機体は尾を天に掲げた。
「…………お嬢様たち、逃げてください!」
叫ぶべフラさんと執事さんたちの前に彼方から駆けてくるのは、激しく燃え盛るヘリコプターの炎に照らされて黒光りする、数メートルはありそうな巨大な蜘蛛のような姿をした怪物たちだった。
べフラさんはエプロンの裾から手を入れると、どこからか銀色のお盆を取り出し、それを、まるで武器ででもあるかのように、顔の前で構えた。




