15 / - 3 名古屋市 ⇒ 東春日井郡市 case.α
夜の帷が下りるまで、それほど掛からなかった。
日は長いけれど、そのかわり夕日の落ちる速度が増しているのだろうか。
メイドのベフラさんや執事のアクィル・グン=カシュボンさんたちが、すぐさま広場――といっても、辺りは岩が多くて草原という感じじゃない。山岳の中腹にある、小さな盆地というか――にキャンプするため、テントなどを準備していく。
アナスタシアさんも手伝っていて驚く。
僕も手伝おうとすると、アナスタシアさんが手で制した。
「貴族として、お客さまに手伝わせるわけにはいきませんわ……」
力の込もった瞳でそう言われてしまっては、僕もすごすごと引き下がるしかなかった。僕は邪魔にならないよう、うろうろしながら過ごす。
その様子を見て、他の子たちが可笑しそうに笑う。
いくつも山が集まった山塊を指して白山というらしいけど、ここはもうその峰の外れらしくて、自治体からの許可はすでに3か月前には取ってあるので、キャンプ地ではないけど火を起こしてもいいのです、と執事さんは説明していた。
まだ麓ではないので、標高はやや高い。
あたりの植物は背が低くて、緑が濃い。
風に揺れるたび、草特有の青い匂いが鼻腔に運ばれてくる。
空気に余計な匂いがないせいもあるのかもしれない。
もう少しで、目的地である白川市の中心地に到着するそうだ。
そこには北米貴族であるナトー家の別荘が――うーん、別荘。ちょっと想像ができない単語である――存在しているらしい。
あまりに手持無沙汰なので(手持ち豚さんではない)、僕は僕で料理の手伝いでもしておくことにしようと思った。
あ、でもアナスタシアさんが見ているから、うかつに手が出せない雰囲気……。
僕が見ている前では、壮年の料理人であるイディン・レさんが手早く野菜を刻んでいる。執事のアクィルさんがはケースを開いて、冷凍された調理済みのカツレットを取り出していた。
メインは、鍋で煮えている漢方と野菜のスープだ。
(――このスープ、なんだっけ? 前に見たことあるような。えと、大英帝國から留学してきてた人が見せてくれた写真に似てるような……?)
すでに夕暮れはすでに過ぎ去って、辺りには暗闇が広がっている。
僕らの顔は炎に赤く黄色く照らされて、光が影のように揺れ動いている。
レさんが見ている僕に気付いて、料理をしながらくるんっと僕に目を合わせた。
「珍しいでしょう――こういう程度の低い食べ物は、お嬢さま方普段食されないから。これも食べてみればなかなか乙なのです――アナスタシアお嬢さまがこんなご旅行なさるのも、こういう珍しい体験ができることも手伝っているのでしょう。そう、〈目黒の秋刀魚〉って昔の日本の笑い話がありますが、お嬢さん知っていますかな……」
表情は照れ笑いと苦笑の中間、という感じ。
レさんが言うには、このスープと油で揚げた肉を、ご飯の上に乗せて食べるのだそうだ。そんな食べ方は聞いたことがなかったし、それっておいしいのかどうか想像ができなくて、僕は曖昧に笑った。
「どこの国の料理なんでしょう?」
「そう、もともとはインドですが、それが大英帝國領に入ってから本国に持ち帰られて、やがて西欧で広がったとききます。カツとともに食されるようになったのはそのころでしょう。その後われわれの国とインペラートルの治める地でそれぞれ独自の発展を遂げたとききますな。ちなみにこれのレシピは私のオリジナルです。といっても私の故郷はインド帝國ではないですが……」
笑い声に振り返ると、アナスタシア嬢のご友人たち――純伴磨天さんや愛宕瑠都さん、それから中御門涅逸見耶さん――どの子も華族か大企業のご令嬢だ――が僕の様子を見ながら何か言っているみたいだった。
高い声で話して、楽しそうに笑っている。
何気ないことのはずなのに、僕は自分が暗い気持ちになっているのに気づく。
心なしか、草の匂いが濃くなった気がする。
まだ時間が掛かりそうだし、ラジオを聴こう。
携帯式情報筐体で電波を拾って、小さな音で流す。
夕方のニュースによると、国際情勢には特に大きな動きはないとのこと。
日本列島がアメリカの手に渡って困るのはソ連のはずだけど、今のところ目立った攻防はないらしい。なぜだろう? たしかに米ソの都合で列島が分断されでもしたら、宗教という阿片に侵された日本人は何をしでかすか未知数だから、アメリカもあまり長期間日本の内政に干渉し続けるとか、下手なことはできないはずなのかな。大東亞戦争のときには人間を生体部品にしたような民族なわけだし。脳をたくさん繋げて軍艦の砲塔制御に使ったとか、眉唾な情報も多いんだけれど。うーん。でも、国内には党のインターナショナル拠点もあるはずだし、場合によってはこの状況って、第三次世界大戦も現実味を帯びて来ると思うんだけどなぁ……。
物思いに耽っていたら、
「トーメさん、ひと口いかがかね?」
とレさんに話しかけられた。
どのくらい集中してたんだろうと、ハッと顔を上げる。
「あまりに顔が深刻で、どうも落ち着きませんね。どうしましたか、まだ完成じゃありませんが、味見して見ませんか?」
レさんの言葉に、僕はかたまった。
気づかいだとは理解しても、鍋の中のドロッとしたものを食べるのはちょっと――いやだいぶ「なんかいや」だった。
「うーんと、えーと……」
「ははぁ、遠慮深いのはこの国の美徳ですが、なに愚かな料理人が食べさせたいだけなのです。どうぞ、さあどうぞ……」
うわー、僕ピンチであった。
なんか黄色くて茶色いし、えー食べなきゃだめなのー。
僕が固まっている間にも、レさんが味見用の小皿にスープを注いでくれている。
「あ、ありがとうございます。おいしそー」
空々しい言葉を吐いて、受け取ってしまった小皿を眺める。
つやがある。嗅いだことのないような匂いがする。
「い、いただきまーすっ……っ…………」
うひゃー……ぁあ、あ……んん? おい……おいし、い……?
「お、おいしい!」
うそでしょ、という言葉は必死に呑み込んだ。
「――ど、どうして山では、こんなに美味しいものをたべるんですか?」
僕はついそんなことまできいてしまうくらい、衝撃を受けていた。
レさんは悪戯が成功したみたいに笑う。
なんだか面白がっていたみたいだ。
「そうですねぇ。たとえば、山というのはふつうなら――街に住んでいるならなおさら――立ち入る必要がない場所です。そんな場所に、人間はあえて立ち入ろうとしますな」
鍋をかきませながら、レさんは続ける。
「もしかしたら、深い山のなかで遭難するかもしれません。そんなときに物を言うのは、やはりどう誤魔化したところで、体力以外にはないのですよ。トーメさんや、お嬢さまのような年齢の子どもの場合には、それはどれだけの食事を摂ったか、とほぼ同じ意味なのですな」
レさんの隣に来ていたメイドのベフラさんが、食器の用意を中断して、その言葉を引き継ぐようにして言う。
「そうですわ。山では――これは砂漠でも同じことかもしれませんが――カロリーをたくさん摂っておく必要があるのです。でも登山で疲れていると、なかなか量を食べることは難しくなるでしょう? そんな状態でも食べなければならないとしたら、それはもう、《美味しい物を食べる》くらいしか方法がないのですわ。これだけ科学が発展した今でも、そうなのですわ……」
その言葉に頷きながら、レさんがポツリと言った。
「もし山で、食べなくても平気な輩がいたら、そいつはなんというか、人間ではないでしょうな」
鍋に蓋をすると、レさんは立ち上がって飯盒の様子を見に移動する。
移動しながら、僕の方をむいて少しだけニッと笑った。
「つらいときほど、美味しいものを食べなければ生きていけないものなんですよ、人間というのは」
その顔に僕は励ましを感じて、つい、目がしらが熱くなる。
こんな風に周りの大人に気遣われていては、だめなのだと思うのに。
哀しかったけど、僕も、実はまだまだ子どもなのだと、今さらながら実感してしまった、11歳の未熟な僕なのだった。




