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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第4章 幼女歴程
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15 / - 2 名古屋市 ⇒ 東春日井郡市 case.α



「釣り目の魅力を語り尽くすことはできないのです」


 と、真面目な顔で僕に話し始めたメイドさんから、僕は静かに離れた。

 しばらくは気づかないと思う。

 銀のお盆を小脇に抱えたメイドさんは、高校生くらいだろうか。

 肌は褐色。もとは中東系の方だったみたいで、祖母の代まではイスラム教徒だったと、さっき話してくれた。


「お嬢さまの目元は、単なる釣り目ではなく……」


 右手を握りしめて力説する彼女を止めるのは野暮な気がして、それとなく辺りを見回す。大自然がそこにある――少し遠くには青い山の稜線が走っていて、夏の日差しにキラキラと輝いている。夏の太陽が、海だけのものじゃないと気づかされる。海水浴場の日差しは人間のためにあるけど、山の太陽は山自身のために燃えているみたいだった。


(あっ……そうか――)


 と、僕はつい、午前のまだ熱すぎない風に髪を流されながら、あることに気付いた。


(ここは連邦領なんだ――この山はもう、別の《帝国》で――)


 痛ましい政変の結果、日本が連邦の管理下に置かれたのは昨日――いや、日付としてはまだ今日の未明だったんじゃないかと思う。どうしてそんなことになったのか、国民の多くはGHQ側から発表された端末情報や新聞紙面でしか経緯を知らされていない現状がある。

 「国破れて山河あり」とは、やはりよく言ったものだったのか木々の梢は乾いたかさかさの土の上で何の感慨もなさそうに風に揺れ続ける。


(天下国家のはかなさか――この国にまでそれが押し寄せるなんて……)


 特に戦後になって、西側ではアメリカ自由主義共和国連邦”宗務院(シノド)”によって、また東ではソヴィエト連条合衆国”内務人民委員部第6課”によって、《宗教》は原理以外の行使を認められなくなっている。その教義も、目的も、ディティールも、すでにそれぞれの現代式帝国主義の繁栄の鍵の下に封印されて久しい――少数の例外である、この国のような宗教実験実施地域(P・サンクチュアリ)を除いては。


 今は昼前で、僕たちは岐阜県郡上(グジョウ)市に聳える白山(ハクサン)にいる。

 山というより、正確には山脈といった方が正しいのではないかと思う。

 白山は富士山・加賀の立山たてやまとともに、(The Thre)(e Holy M)(ountai)(ns of J)(-Empire)のひとつだというけれど、去年から日本に来た僕にはあまり馴染みがない。岐阜に来るのも初めてで、正直どういうルートなのかもわかっていなかったりする。

 ただ昔栄えた郡上(グジョウ)八幡(ハチマン)という宿場町から、重要建築文化財保存地区である白川郷シラカワゴウまで延々、高原と山岳をキャンプしながら元気にハイキングしていくことだけは把握していた。

 あまり、小学生で歩くような道のりではない気がする。

 何しろ地図で確認しただけでもかなり険しい箇所がいくつもあるのだ。そこをどうやって越えるんだろう、と昨日までは訝しんでいた。


(――――でも、そりゃ――――)


 お嬢様方に、歩けるはずはない。

 いや、僕も歩けないけど。


 暗視装置を装着し、深夜になってからアナスタシアさんとお友達を起こさないようにそっと運びながら、


「――内緒に願いますよ?」


 とメイドさんは人差し指を立てた。

 ほかの使用人達も、困った顔をしながら歩みを止めなかったようだった。


「われわれは昔からよくこういうことをしていたのですよ。肉体的な負荷は、もうすこし大きくなってからでもよいでしょう。人には発達段階というものがございますからね――」


 燕尾服を纏った――本当に燕尾服なんだろうか?――若い執事の方も、両手でアナスタシアさんをそっと抱えながら深夜の山道をすいすいと進みつつそんなことを言って微笑し、メイドさんに同意して人差し指を立てた。


「えっと――僕は、自分で歩いてもいいんですけど……」


「いえいえ、それでは貴女だけ昼間元気がなくなり、お嬢さまに怪しまれてしまいかねません。どうかこのままおぶられていらして下さいな」


 メイドさんはころころ笑って、僕のことをよいしょとおぶり直した。

 それから不意に鼻をピクっとさせたかと思うと、


「ん……みなさん少し急ぎましょう」


 と言った。


「雨が降りますよ」


 という彼女の言葉に、ほかの使用人たちは何でもなくうなづいて、速度を上げていった。間もなくして、


「トーメさん、ベフラです」


 と彼女は僕に言った。

 彼女の短めの髪が、僕の頬を撫でたので、彼女が半ば振り向いて僕の方を向いたのが分かった。不思議な香りがした。お茶のようでもあったし、香辛料のようでもあった。目を見返したかったけど、執事さん達が持っていた薄明かりも距離が開いたせいで見えなくなり、あたりは本当に真っ暗で、星の光は空に見えていたけれど、辺りの様子は闇の中に沈んでしまい、彼女の顔はまるで見えなかった。


「ベフラ・ダールヴァグと申します」


 と声が闇の中に響いた。

 僕は「はい」とかなんとか言ったと思う。

 声が出ていたかどうか、自分でもわからない。

 目をあけても闇で何も見えないのが、想像以上に怖かった。


「ダールヴァグというのは、蛙なのです、トーメさん。ペルシアの北に広がるマーザンダラーンという地にいるのですが、樹上で生のすべてを営むため、”木蛙”と呼ばれます。この蛙が鳴くと、じきに雨が降ると言われているのですが、それは当然逆なのです――ようは雨の気配に、とても敏感なのですわ」


 メイドさんは自分のことを話していたのだと、今になって理解する。

 あのときは何だかわからなくて、ペルシアの蛙を暗闇の中で思い描いていた。

 きっと可愛らしい蛙なんだろうな、といまでも僕は考える。

 今日になって彼女を陽の光の下で眺めたあとの、僕だからこそ――かもしれないんだけれど。


 白山は霊山なので、当然ながらキャンプはできない。

 難所を通らなくていいとしても、キャンプできる場所どうしの間隔は十分に広い。成長しきっていない僕らの身体には、確かに、けっこう堪えた。

 しかも、正午に近づいて急激に熱を帯びていく夏の日差し。足どりをふら付かせるアナスタシアさんに、僕は駆け寄った。僕も色素が薄いので、陽ざしのつらさはよくわかる。


「――大丈夫?」


 と声を掛けて、アナスタシアさんの手を取る。

 アナスタシアさんは歩きながら身を一瞬硬くしたけれど、


「だ、大丈夫ですわ……これくらい」


 と気丈さを失わない口調で山道を行こうとする。


「――トーメさんこそ、途中で音を上げてもらっては困ってよ?」

「気を付けるようにするよ」


 僕はそう言って微笑んだ。

 お嬢さまといったって、弱々しい深窓の令嬢ってわけじゃないのだ。

 本国では大貴族。これくらいのこと、耐え忍ぶだけの根性は持ち合わせているに違いない。

 でも――


「――ほら、やっぱり無理してるじゃないか」


 足元の凹みに躓いて倒れそうになった彼女の身体を、僕は支えて慌てた。

 使用人達が僕を押しのける勢いで彼女に殺到した。

 熱中症の恐れがある。

 ワンテンポ遅れて集まってくる友人達――といっても、彼女らにも元気はない――をアナスタシアさんは制して、メイドのベフラさんの用意した冷却シートもいらないと言った。

 しゃがみこむアナスタシアさん。

 恰好は、登山には向かないワンピース・モデルの服だ。


「トーメさん。わたくし……貴女には負けたくないのですわ……」


 その声は揺れ動いていて、感情が定まっていないようだった。


「そんな風に、わたくしを助けないで下さい」


 僕はそんな言葉を掛けられたのははじめてだった。

 そんな素直な言葉を掛けられたのははじめてだった。


『――君は私たちとは違うんだよ。そういうものなんだよ、優秀な君にはわからないだろうね……』


 物心ついたころ、ソヴィエトで掛けられたそんな同級生の言葉――あれは、きっとそれでもやさしさだったのだと今では思える――そこには敵意が滲まない代わりに、あきらめが発露していた。


『うちの娘と同じ歳で――そんな風に、そんな……』


 その先を今聞いているのだと思った。

 それを口に出せる彼女の素直さと幼さが眩しかった。

 僕も、彼女と同じ年齢のはずなのに。

 僕と違って、なんて素直で、そして、強いのだろう。


「アナスタシアさん……僕は――僕はそんな君が、好きだな」


 そんな言葉が、つい僕の口からついて出ていた。


「できればその強くて真っすぐな君のままで、立派な貴族になってほしい」


 ソ連での孤独な学生生活が、その言葉を吐かせたのは間違いなかった。

 僕は少し、涙を堪えていたのかもしれない。


「えと――」


 アナスタシアさんは驚いた顔で振り返って、それから目線を彷徨わせた。

 速足になって、何も言わずに僕から離れて行った。


(あ…………変なこと言っちゃった、かな……)


 僕は空気を読めないことを言ってしまうことがよくあるから、今回もまた失敗したかもしれない。もともと嫌われていたのに、もっと距離が出来てしまったら、どうしたらいいんだろう……。

 溜息をつきかけていたら、メイドのベフラさんが僕の隣に来て言った。


「あぁ、トーメさん。もげて、もげてください」

「え? えぇぇぇえ?」


 急にどうしたんですか、と言おうとしていたら、彼女は首を振りながら、


「お嬢さまは皆の共有財産なのです。なのでトーメさん、もげてください……」


 と悲しそうに続けた。


「あの、僕もげるようなものついてないんですけど……」


 僕は彼女が何を言っているのか分からなくて、歩き出すまでにひと通り困惑することになったのだった。

 

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