16 / - X 東春日井郡市 ⇒ 名古屋市 case.ζ
柔らかな風が草原に吹いた。
草原には大小さまざまなスケールの、濁りない水晶で出来たような透明なピラミッドが、無数に乱立している――まるで五面体のジャングルのようだと鯨峰鮪雫は思う。中にはピラミッドどうしが絡み合い、ひとつの刃物のようになっているもの――宝玉のような捻れ双角錐――さえあった。
足元の白い砂でさえ、もしかすると顕微鏡でしか確認できない大きさのピラミッドの粒なのかもしれない。マグナは老人の内面を思わせる美しい《天使》にむかい、青すぎる空に目を細めながら、再び口を開いた。
「――私たちの話も随分と進みました。私の理解するところではどうやら、こういうことを認めなければならないようですね。つまり人間と犬狼などの《啓示を受けていない創造物》とを区別する知的境界線は、絶対にないのだということを……」
彼の言葉を聞いて、天使は微笑む。
ひまわりの雌しべのような、透明感ある白緑色の髪を揺らしながら、彼女も言う。
「そう、君はそれを認めなくてはならない。そんな境界線などはない。この事実を避けて通ることはできまい。人間は有能な機械をその内部にもっていて、ほかの生き物がもっている機械など比較にはならないが、しかしそれはやはり、同じ機械なのであって作用も同じように働いている。しかしながら人間もほかの生き物もその機械を支配することはできない――それは完全に自動的であって、コントロールなどできる代物ではない。自分の好きなときに働き、気の向かないときにはいくら強制しても働きはしないものなのだから」
「――だとするなら人間も、ほかの動物もみな同じだというわけですね。つまり知的機械という点においては……両者の間には途方もなく大きな違いなど、少しもないと。ただ質の点だけが違っていて、種類の点では違っていないのだと――」
天使は彼の答えにうなずく。
「マーク・トウェインの「私の懐中時計」という短篇小説を読んでみるとよいだろうな。しかしもう、君にそんな機会が訪れることはないかもしれないが……」
そう言いながらも、天使はマグナのことを祝福していた。
彼にはそれが言葉を介さずとも分かるのだった。
だが、彼は何を祝福されているのかはわからなかった。
何もできていないという気がしていた。
自分をマグヌスと呼ぶ天使が何者かなど、彼はすでにどうでもよかった。
彼は知りたかった。
忘れていてはいけない何かがすでに指の隙間から滑り落ちて、二度と戻らないように思えたからだ。
天使は優しい声でいまも話し続けている――。
「――――立派なロマン主義者ならだれでも知っているように、精神や霊や精霊――《魂》と呼び変えても構わないが――は本質的には呼吸器に循環する空気にすぎない。大気のゆがみが、呼吸する音のなかに要約されるのはしごく当然だろう? したがって公共的な要素――カレンダーに印刷された休日、行事となった観光――ばかりではなく、個人のそぞろ歩きはあたかも天候のゲリラ的な不順が、一年という遁走曲のなかの迫奏楽句――でたらめな天候、思いがけない行動、あてのない恋――そう、燃えるようなアレだよ――であるかのように、気候と結びついていて何ヶ月もあっという間に遁走曲となって過ぎて行く。というのも奇妙なことに、多くの北半球の都市――ワーシンスクであろうとナーゴヤであろうと――では時がたつと、二月と三月の風も雨も情熱もあたかも存在しなかったかのように必ず忘れられてしまうのだから――」
マグナはそれを聞いて、なぜか不思議に心に浮かんだ不穏な言葉を交えてそれに答えることにした。彼は透明なピラミッド群の中に幽かに反射している少年の貌――人間の少年である自分の顔――を見詰めながら、天使にむかってやや声をつまらせながら答えた。
「――だが、言ってみれば死ってのは、その燃えるようなヤツみたいなものでしょう? あたかも存在しなかったかのように必ず忘れられてしまうというのならば」
天使は呆れたような表情になって、それからまた優しい微笑みを彼に向けた。
「――いや、違うな――――逆じゃないか。死ってのは結婚みたいなものだ。恋なんかじゃないさ。この死が君にはてんで気に入らなかった。だが、もうどうしようもないじゃないか? とすれば君も諦めてこの屈辱と悲嘆と相容れるしかない。けど今のところはまだ己が不幸と悲歎とで心を泥んこに塗りしめてるんだろうね。精を出しているんだろう、目を曇らせることに。だが、やがては君もおのが不幸の整理をはじめるだろう――いいかい? 君はところどころにほの暗い斑点のある、薔薇色の球体だ。要するに無限の、ただもう理由もなく畏怖すべき、流動してやまない宇宙のなかで、休みなく回転しつづけている無数の天体のひとつなんだよ……」
そこまで聞いて、彼は自分が死んでいることを知った。
ような気がした。
だがそれと目の前の天使が彼のことを祝福していることが、どうしても不思議に思えて仕方がないのだった。彼はどうしても自分のことが不幸に思えて仕方がなかった。
そんな彼の背中には、彼のうかがい知れぬ背面には、小さな漆黒の翼――まるで鴉のようにまっ黒な羽が生えかけていたのだが、彼が透明な水晶のようなピラミッドの面に、反射したその羽根の像を見つけるに至るためにはいましばらく、静寂な時間がまだ必要であるらしかった。




