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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第1章 始動の夏
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2 / - 1 東春日井郡市 貮

 

 その花の微細さは砂のようではなく、精緻さは墜ちる星のようにも見えなかった。粉雪の儚さはあるが、山桜のように大規模ではなく、染井吉野のように一瞬の散り様に、永遠を感じさせることもない。しかしその散り様は逆に、それを見る者の有限さの方を、順接的に自覚させ得るのだった。

 小人の掌のような白い花弁が、枝から零れ、暮れかけた夕刻の風に運ばれていた。

 白い夏服姿の閘堂(おうどう)寡鐘(かがね)は石の階段を昇る姿勢をそのままに止め、斜陽の照らすその小さな花びらの白さを――微風に花を攫われている百日紅(サルスベリ)の株を見詰めた。彼は地面から頭を出したばかりで、濃い土の匂いが――濃い腐葉土の臭いが――していた。先程の激しい通り雨に濡れ、露によって湿ったコンクリートの風合いがそこに混じった。彼がこの「もう一方」の冷たい通路に向かったのは久しぶりであったし、百日紅という花は諄々と、咲いては散りを繰り返していたのである。

 地面は――花の零れている株のすぐ下の地面は――白い花弁が降り積もり、そこだけは積雪のようにも見えた。

 但し融けない雪だ――積もったという過去はあれども融けていくという未来が閉ざされている雪――彼は再び、地下通路からその庭へと出るために造られたコンクリート製の階段を昇りはじめながら、いつもふと考えてしまうことを、今もまた考えた。

 ――「我々は何処から来て何処へ行くのか」という問いの内には、「我々は何者か」という問いが内包されているのだろうか? それとも、「我々は何者で何処へ行くのか」という問いの方に、「我々は何処から来たか」という問いが入れ込まれているのだろうか。いや、そうではなくて、「我々は何処から来た何者か」という問いが「我々は何処へいくのか」という問いの母体なのか。――ポール・ゴーガンはどういう積りだったのだろう?

 寡鐘は地面に出てしまうと、樹の近くまで寄ってそうしてぼんやりと私案した。

 研いだような星の輝き出す時間帯だった。

 夜は既に蒼く、始まっていた。

 しかし地平線はまだ、いくらか明るい。

 寡鐘の眼には、庭に交錯する樹々によって無数に切り刻まれて届く、空の境界(スカイライン)の淡さが映じた。彼の手は白い蟹のごとく、シャツを這い登るように動いたが、その手の触れようとしたのはやはり、あの胸の皮膚に感じる首飾りであったのかもしれない。しかしその指先は、ついにそれを掠めずに止まる。力がふいと抜け、崩れるようにして大地へ惹かれ、トンッと落ちて止まった。


 ひとの気配を感じたからだった。

 香草のふと、幽かな匂いがする。

 気配は寡鐘の背後から、そろそろと近づいた。

 重いとは言えそうにない靴裏が土を踏む音が聞こえ、本堂の方からやってきたその者は、


「――寡鐘さま?」


 と柔らかな声を上げた。

 寡鐘もそっと振り向きながら、


「や、……ミズキ」


 とその声に答えた。

 さきに問を発した者は、彼よりも少しだけ歳下の少女であった。

 そんな彼女の服装は、どこか少し変わっていた。

 上は女真族の服か、あるいはアオザイのような襟立ちの服装で、針師や整体師のそれとも似ている。しかしつるつるとした純白の生地に、淡い浅葱色によって縫い目と縁取りをレトリックされたそれは、彼女の小柄ながら今こそ張り、伸び行こうとしている若い肢体を、鮮やかに包装しているようだった。裾には青と紫の糸で紫陽花が細やかに刺繍されていた。しかしそんな洒落た上着に反して、下は単調に黒い、中学校のスカートを履いていた。彼女もまた、この家に帰って来たばかりなのだろう。

 彼女の名を、鷸井(しぎい)瑞輝(みずき)という。


「……来て、下すったんですね」


 瑞輝は嬉しそうに笑った。

 それだけで、辺りは華やかな雰囲気に包まれる気がした。

 優し気な目には邪気がない。

 だがそんな、あどけない中にもハッとする硬質さ――そう、透明な結晶のようとでもいうような――があり、鳶色の大きな瞳には、その不思議な凛々しさがよく表れていた。柔和でありながら精緻、というのは、彼女の容貌にもよく顕れていた。というのも彼女自身はまるで蜻蛉のように儚く優しいのだが、その変わり、彼女と世界とのあいだには、何故なのか他の人間ではあまり感じないほどに、杳々と横たわっている輪郭とでもいうべきものが存在するように思われたからである。蜃気楼のようでもあった。淡いが、どこか明白な隔絶が彼女にはある、そう感じさせる雰囲気を持っていた。

 豊かな長い髪が、そよ風にもさらさらとなびいた。

 夕陽を透かしてみると、目と同じに茶がかった鳶色のはずの髪は、もっとずっと鮮やかなオレンジに染まり、生まれつきに生えそろった花びらのように揺れた。ウェールズの森にいるという妖精にも似ているのではないかと、寡鐘などは思う。

 しかし寡鐘が彼女を見てまず思い出すのは、そんな異国の可愛らしい小人ではなかった。彼はいつも彼女を見るたび、「花食いうば」という、円地文子の小説を思い出す。

 それは晩秋の午後、自宅の窓辺にいた女性が、通りがかった見知らぬ老婆に声を掛けられるところから始まる。目が悪いという老婆は、鉢植えにある蟹蘭の花が綺麗ですねと言って顔を近づけ、眼を細めながらいきなり、咲く花のひとつへとばくりとかぶりつくのだ。――もちろん、瑞輝は食べられる花の方だ。

 寡鐘はそんな連想を生み出す、己の脳髄をいつも不快に思う。だが一度沁みついてしまった連想というものを、彼の頭脳はなかなか変えられないでいる。

 

「いま、マグの奴が灯りを……」


 寡鐘の眼が自分から焦点を外したのを悟ってか、瑞輝が済まなそうに言う。「マグ」というのは彼女の元でここに置かれている、鯨峰(いさお)鮪雫(まぐな)という少年の綽名である。

 ふたりの居るここは、市の北西部であり、一面に見遥かされるような田んぼの広がる「東丸田(ひがしまるた)」と呼ばれる土地の中にある家だった。

 平屋であり、屏は高く、敷地は広かった。

 瓦で覆われた屋根はどこか金属めいた青さをし、自らの重量を知らしめている。この辺りにはあまり家もないが、同じようなつくりのもっと立派な屋敷が、田をいくつか挟んで建っている。古くからの土地の、その辺境のような場所にあるのがこの家屋だった。

 庭も広い。屏と家の間すべて合わせれば70帖ほどはあろうか。

 日本庭園というほど立派なものではない。

 常緑の庭木と石灯籠があり、簡単な花壇と、季節の花の咲くような小ぶりな樹々があるのみである。葉の緑は薄く消えかけた夕空と、まだ青さの匂う色彩の中に溶けかかっている。しかしその中に、白い花だけが、まだここにあると主張して止まない。それは、彼の植えた木だ。百日”紅”というくらいだから、きっと紅い花が咲くのだろうと思っていたら、綺麗に真っ白な花が咲いた。スズシロのような小さな花だ。それがそれが数の子のように群れて、もっさもっさと咲くのである。


「昼間なんて、お米と間違えてスズメが飛んでくるんですよ」


 地面に積もる花弁を指さして瑞輝が言う。

 彼女の嬉しそうな瞳がくるりと巡り、堕ちる花の弁を追った。

 

「え? ホントなのか、それ」


 毎朝早くに起き、スズメのために米粒を撒くのが彼女の日課だった。

 まだ撒く前でさえ、スズメが花弁の白さに誘われる程に、欠かすことなく。


「あまり野生動物を、餌付けしない方がいいんだがな……」


 寡鐘はふっと息を吐き、どこか皮肉気に笑んで言った。

 夜風に煽られて枝が揺れ、視界に隠されていた葉にアオスジアゲハが休んでいるのが視えた。

 夜の中に夜がまた閉じ込められているようだった。


 ふと気が付くとふたりの間に少年が立っていた。

 音も気配もしなかった。

 いや、眼前でその眉の微動までを観察しようとも、やはり何の音も気配もないのだった。

 いつも同じ家に暮らしている瑞輝でさえこれには驚いている。

 彼が「マグ」――鯨峰(いさお)鮪雫(まぐな)という名の家事手伝いの少年だ。11歳くらいに見える彼は羅宇(柄の部分)の異常に長いレトロな煙管(キセル)を咥えていた。女性のようにつるりと伸びた髪が左目を隠している。炭鉱の作業員のように、白いランニングシャツとスネまでしかない宇治抹茶色をしたズボンという出で立ちをしていた。

 彼は電気ランタンを掲げ、寡鐘と瑞輝を交互に窺う。


「兄さん姉さんもう暗いよ? 中に入らないのか……」


 マグは眼をキョロリと廻し、無表情に言った。

 寡鐘は幽かに笑み、


「ん、そうだな」


 とマグの頭に手を置き、すぐに瑞輝も促して、玄関に向けて歩き出した。

 マグと話す寡鐘の姿を見つめる瑞輝はスカートの端をぎゅっと握っていた。


「か、寡鐘さま?」


 瑞輝の不安そうな声が響いた。

 マグは振り向かなかったが、寡鐘とともに歩を止めた。

 

「マグ、先にお戻り、ちょっと寡鐘さまとお話したいことがあるの」


 表情を変えずに頷いたマグは、ランタンを瑞輝にそっと手渡した。

 次の瞬間にはどこにも彼は見当たらなかった。

 既に闇の帳が降りていた。


「どうした?」


 瑞輝は寡鐘の声に伏せていた目を上げた。


「あれから、もうすぐ2年になりますよ」


 苦い表情の彼女は、しかし、いまとても幸せなのだった。

 瑞輝は眉を下げながら、寡鐘に向けて言った。


「魔法が、いつか解けるかも、しれないって、思うのは、それが、本当は間違ってるって、思っているからですよね」


 苦しそうに、言葉が途切れていた。

 悲しみはいつも外から見送るものだという言葉が、寡鐘の脳裏に浮かんだ。

 だがそうだ。悲しみだけではない。瑞輝の嬉しさも苦しみも、俺には外から見送ることしかできないのかもしれないのだ。彼女は寡鐘を瞳に映し、


「私にいつか、罰は来ますか?」


 と訊いた。

 それはこの2年間に、瑞輝の築き続けていた思考の暗渠だった。

 その暗渠はいつの間にか彼女の立つ意識の地下に張り巡らされ、裸の足裏からそこに流れる水の震えを感じるようになっていた。


「……俺は神じゃない」


 と寡鐘は言った。


「何かの王かもわからない」


 その口調は淡々としていた。

 温めかしい、夜気が漂っていた。

 寡鐘は瞬間、瑞輝と目を合わせて言った。


「でも、人であるなら、手を取ることはできるよ」


 瑞輝は、数秒かけて下を向いた。

 今のままでいい。後悔する必要はない。

 唇をかんだ。

 顔が熱かった。

 問う必要など、なかったのだ。

 そう、あの日から、私は……。


「来たか?」


 と突然に寡鐘の声が響いた。

 強い調子だった。

 え? と思わず瑞輝は顔を上げた。

 屋敷の門を開け、白い髪の青年が入ってくるのが見えた。

 彼もまた、この屋敷の仲間なのだった。純白というよりは象牙色に近い髪と目をしたその青年は、柳條(りゅうじょう)撓威(しない)という名で、屋敷では最年長の19ほどの見た目であり、後ろで長い髪を結び、簡素な黒い服を着ている。彼は寡鐘に報告する。


「来てますね。……これで、ちょうど一週間になりますか」


 よく晴れた日の夜は寒い。

 寡鐘は眉を寄せ、息を吐く。


「どうやら今夜は、少しやることが出来たようだ」


 そう言って寡鐘は、瑞輝に困ったような顔で微笑んだ。


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