13 / - 3 東亰市 郊外 セーフハウス
説得を、しなければならない。
国民のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、民衆よりも、お国のほうが弱いのだ。少くとも、私の国においてはそうである。
まさか、自分が老人になってから、民間企業に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この国は、その民意において、常に企業のご機嫌ばかり伺っている。民間企業、あるいは市民といっても、私のところの国民たちは皆まだひどく単純だ。
それでも、既にそれぞれ、官製の力を圧倒し掛けている。
国家は、さながら国民たちの、下僕の趣きを呈しはじめていた。
それにしても、妙な連中に、目を付けられてしまったものだ。
説得をしなければならないが、彼女たちはすでに名古屋を押さえてしまっているし、そもそもそのお陰もあって、景気はいい。しかし、まさかその目的が、《陛下》に向かおうとは、それは、思いもよらぬことだった。
(――蘇生された《陛下》が拡張幻想なのであれば、この国はその幻想をクラッキングしなければならないでしょう?)
オルザレットの女が言う通り、それは可能かもしれない。
リトルボーイとファットマン――そしてサイクロプスが亰都市を死の都にし、サンダーボルトが東亰市の頭上で炸裂した、その翌年、GHQは戦後日本の順調な復興のための政治的判断として、崩御された天皇陛下の霊体宣言を行い、それに伴って新憲法の作成を急がせた。
「天皇靈體宣言」――1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された、昭和天皇の詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』の通称――。
これにより、陛下は臣民に内在し、かつまた列島に偏在するようになったのだ。
陛下はこれ以降もう人という存在態を取らず、一種仮有の時空点から発話する。
これが「靈體天皇」である。こうした「靈體天皇」――現代式天皇の成立は、国家時空間を「事実らしうもてなす」要請に応じている。
人には視界の限定があり、発話時点の制約があるのに対して、「靈体天皇」は無限定・無制約であり、言表対象の客観性と定住性、言表行為の公正性と信憑性の外見を保持することができるのである。
そもそも現代式帝国主義とは、帝位の一人称性を限りなく縮減してゆき、ほとんど零度にまで濾過した結果、あたかもニュートラルであるかのように見えている国=帝政の様態ということになる。
そして、現在も、《昭和》は続いているのだ。
陛下の没後退位の時期がいつになるのか、それは未だ分からない。
決めるのはおそらく、アメリカ自由主義連邦の、政治的状況のみである。
国民は、敷衍された教育のために、そんなことすら、考えることもできまいが。
しかし、それにしても少し、おかしい。
私は少し、歴史を学んだ。
西欧のことも僅かながら知った。
目の前のエルフ――オルザレットは、自らを《アイシス神の黒秘教》と名乗った。とはいえ、こんな名に、それほど意味はない。呼び名は変わるものだ。
しかし16世紀、この教団の遺した『Mの書』、すなわち『Millennialの書』では、そうした欺瞞的な神性を認めてはいなかったはずだ。だからこそ、それら魔導書は、すべて神的な力を引き受けた、ひとりの魔導士の語りで述べられていた。
「……実在論と唯名論の対立というわけかね」
説得を、しなければならない。
とにかく相手の気を引かなければならない、と、そう思ったので、とくに意味のないおしゃべりを、そうとは、気づかれないように、重大な雰囲気と語彙でもって、続けるほかなかった。
自分が何の話をしているのか、もう、あまりわからない。
数手前からの文脈からしか、追えなくなっている。
とにかく、エルフの娘、目の前の使者にだけでも、説得に持ってゆきたい。
「J・G・バラードという作家に「The Life and Death of God」という短編がある。他愛ない内容だがね……」
私は、脳髄の連想の力を信じて、言葉を続ける。
「作中では1980年の夏のことだが、科学者によって、あることが証明される。すべての空間を満たす極微小な電磁波体系――《ウルトラマイクロウェーブ》は、複雑でたえず変化し、まぎれもなく知性のあらゆる属性をそなえた、数学的構造を示しているという。それは、意識活動としか思えない変動をみせ、それがこの宇宙を構成する基盤素材を、供給しているらしい。だからあらゆるメディアが、喧伝するわけだ。神は実在する、至高の存在が宇宙に偏在する、とな――」
話しながら、お、よしよしいいではないか、エルフは興味深げに聴いている、と様子を見て話を続ける。
「――最初こそ多幸感で世界は平和になるが、そのせいでみんな空を見上げて生産性は下がるし、経済も衰えるし、何せ神は科学的に見出された数学的抽象体だったから、既存宗教の権威も「空想にもとづく」として失墜するし、やがて秋には、「罪の可能性こそ、贖罪の前提条件」だとして、世界中で暴動や猟奇犯罪が起こる。まぁ、よくわからんが最終的には、そうした宇宙的な意識構造は、「形態も範囲も帰属も決定不可能なオープンエンド構造体に属する」とかなんとかで、結局世界は、武力と権謀術数が支配する、もとの世界に還ってしまう……」
それにしても、彼女たちはなぜ名古屋に手を貸すのか。
陰の力があるというのなら、いっそ、気取られぬように、国を乗っ取ればよいではないか。急いでいるのか、本当には余裕などないのか。
「バラードは、今年出たばかりの『Empire of the Sun』という長篇で、少年時代に旧日本陸軍の捕虜収容所に入れられたときのことを書いている。まぁ、彼にしてみれば、「The Life and Death of God」は戦後日本と現代式天皇への軽い、ブラック・ジョークみたいなものだったろう……登場する国の中に、日本が登場しないのもわざとらしい……」
そこまで話したとき、私は、むっと、エルフの話した内容の、小さな違和感に気付きかけた。
(――われわれは熱田を押さえています。また今回、玉璽を手に入れています)
あの言葉、あれはあと、亰都の鏡さえ手に入れられれば、神器が、三種そろうことの宣言に外なるまい。それによって、靈體制度自体を操作しようというのだ。
国家権力自体を、私たちやアメリカから、奪い去ろうと。
下手をすれば、あの西南戦争の、再来となるだろう。
だがいったい、どのようにして……。
(――蘇生された《陛下》が拡張幻想なのであれば、この国はその幻想をクラッキングしなければならないでしょう?)
そこで、エルフの言葉が、再び思い出された。
閣下をクラッキングしなければならない?
権力構造を、ではなく?
――――いったい誰によって……?
なぜ教団が、名古屋に手を貸すのか。
単純なことだったのだ。
そこには、「靈體天皇」の内面――中の人として、教団にふさわしいと見出された何者かが、いるのだ。
仮想 陛下。
まさか、そんなクラッキング法が、あるものなのか?
「……自己反復的なのはまだいい、だが、自己解釈的なのはいかがなものかね……そいつは主観的で、ときには、主情主義にさえ走る……幕末の志士のようにな」
私は口が勝手にしゃべるのを聞いた。
それとは関係なく、いろいろのことが腑に落ちていた。
幕末は、テロリズムの季節であった。
尊攘運動の尖兵に、平田篤胤派がいる。
夢でお会いしたからと、勝手に本居宣長一門に弟子入りした篤胤。
迷いなく神秘主義に走っていった彼に、目の前のエルフが、重なって見えた。
幕末の志士は、ほどなくして間主体性を、拒否するようになる。
論理性ではなく、刀の一閃に、ものを言わせるようになる……。
ならばさながら、私は征夷大将軍か。
笑いが、漏れた。
冠位さえ、ないというのに。
私などが、将軍とは。
「…………誰なのだ、そいつは」
私は出し抜けに、エルフに尋ねた。
会話の文脈など、気にしているときではなかった。
「閣下はやはり切れるお方のようですね」
エルフにはそれだけで、通じた様子であった。
「1959年4月10日に、皇太子殿下の結婚式が執り行われましたね。同日の成婚パレードは、あらゆる地上波で中継放送されたと聞きます」
私は頷いた。
国内知識人の左傾化を憂いた、当時のアメリカ自由主義連邦の意向により、すでに、草葉の陰におわした皇太子殿下のご結婚式が、執り行われたのだ。
靈體であるから、もちろん姿はないが、盛大なパレードも行われた。
それでも、殿下の姿をひと目見ようと、何十万人もの人々が、全国から東亰に集まったものだった。
「その際、実際にそこに殿下がおられるよう演出するために、まだ立てるかどうかという年齢の赤子を、殿下のいらっしゃるはずの場所に座らせていた。依り代のようなものだったのかも知れません。しかしその実は、周りの人間が赤子に接することで、自然と尊い方に接するように振舞わざるを得ないようにするための《装置》だった……」
私は、目を見開いて、続きを促した。
「当時まだ2歳の子どもだった、あるひとりの青年は、われわれによって《処分》を免れ、現在では名古屋市にいるのですよ――」
私はそれを聞き、すべてを、少なくとも多くを理解した。
だがだからこそ、言わなければならなかった。
「だが君たちの拠って立とうとしているのは、見立てでしかない……」
それだけでは、あまりにも根拠薄弱ではないか。
「彼は……《陛下》ではない」
私は背後の大きな柱時計の歯車の音を聞きながら、言い募った。
「寓意に、絵解きに命を懸けられるのかね」
やめなさい、と、言う積りでした。
だが、もう決めているらしく、目の前の彼女は、実に楽しそうに笑った。
「西国の武家によって始まった維新明治と、東亰の大学出身者によって支えられた昭和日本政府……それもここで終わる」
黒いミリタリー・スーツで覆われた両腕を、そう言いながら、私の方に突き出したエルフのことは、もう、説得することができないように思いました。
「振り子は真ん中で止まるべきです」
そう言い放った暗殺者。
私はこの国の大きな変化の、その瞬間にいるのだなと思いました。
左翼は運命も偶然に摺りかえる。
右翼は偶然さえ運命と読みかえる。
では私は。
そのどちらにも、あまねく取り入ろうと必死になっていた私は、この状況を、どう読むのでしょうか。
その瞬間、私が感じたのは、激しい使命感でした。
目の前の女を殺さねばならぬ。
私は、激怒した。
「――やらせはせん! やらせはせんぞ!!」
私の袖口から小型拳銃が滑り出すのと、背後の柱時計が鳴り出したのが、同時でした。柱時計の短針は、一時間に一度切り動くのですが、その針が一気呵成にガクンッと動いたかと思うと、鐘の音が鳴響き、私の視界は、その時計の文字盤を見ていました。
首が跳んでいるのだ、と重々しい鐘が8回鳴響くのを中空で聞きながら、私は思いました。視界は回りながら、次第にぼやけていくようでした。幾度目か回転すると、エルフの祈りが視えた。指を組んで俯いていました。その指には何やら、蜘蛛の糸のような、光る細い線が視えたような気がし、なるほど、あれが時計の短針にでも、渡されてあったのでしょう。地面が、近づいていました。
ああ、これで死ぬのだ、と思いました。




