11 / - 3 名古屋市 肆
◇◇◇
「ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、なぜ、《図書館》をあえて【バベルの図書館】と名指さなければならなかったのか、考えたことがありますか?」
長い廊下を歩きながら、少年と、答えのないやり取りを交わし続けている。
「そ、それは――楔形文字で記された粘土板を所蔵した図書館が、人類最初の、人類史上の最古の図書館だったからでしょう?」
私の受け答えに、少年は不意を突かれたように視線をつい、と上げた。
「……たしかに、それもそうかもしれませんね。でも水と粘土から創られたのは、なにも、書物だけではなかった……」
少年は、そうして歩くのを止めない。
もう、いくつもの部屋を通り過ぎている。
「神は泥を捏ねて、人間をつくりましたね」
「……………………」
私は、笑うべきなのだろうか。
彼は本気で、こんなことを話しているのだろうか。
「古代オリエント、『ギルガメシュ叙事詩』に登場する野人エンキドゥも、粘土から造られていた」
少年は、褐色がかった額にかかる薄い色の髪を揺らしながら、私に、その作り物めいた笑顔を向けて、この出口の見えないモノローグめいた会話を途切れさせようとしなかった――。
「書物と人間は、同じものから生まれた……だとしたら【バベルの図書館】に所蔵されているのは、全ての写本であると同時に、全ての人間の人生――その記録ですよ。この世に誕生し、そして滅びるまでの、5000億人とも言われる膨大な人類の生涯――あなたの人生の物語」
少年の声は、私の鼓膜以外の何かを震わせているようだった。
私がずっと昔に失ってしまった何らかの器官から発しているようで、その音は、私のもう二度と得ることができない臓腑に、心地よく響いていくのだった。
廊下はいつ終わるとも知れずに続いている。
どこに向かうのか知らされないまま、私は少年に導かれて歩いていく。
……彼がこんな声で話すことを、数十分前の私、柳條香流は、想像することができなかった。
「人形使いですか?」
と私に聞いた少年の声は無邪気そのもの。
総矢先生が別の少年に部屋の案内をさせようとしたときも、
「ぼくが連れて行くよ!」
と率先してその役割を引き受けていた。
素直ないい子だ、と私は思った。
「――Lagren……」
と先生は少年の名前を呼んだ。
「それでは、Lilneの役割が無くなってしまうよ」
そう諭しながら、先生はリルネと呼ばれた方の少年を前に呼んでいた。
ラグレンはリルネよりも年下のようだった。
「いえ、私はべつに構いませんよ。Lagrenがそうしたいなら止めはしません……」
「君がそう言うならいいか」
そんなやりとりの間に、小声で冬目ちゃんが私に耳打ちしてくれた。
「僕の、イトコたちなんです。こちらから……」
Lagren、
Rahsna、
Kudrma、
Uzba、
Tlis、
Una、
Hsur-Ris、
Lagikhsere、
…………。
(彼)女らは、どう考えても日本人の名前ではなかったし、本名だという気もしなかった。でも考えてみれば、私の知っている「冬目橘杯」という名前だって本名だという保証はないのだということに思い至る。
そして皆、光のない眼差し――そんな黒い瞳をしていた。
注意深くみれば、Lagrenの瞳もまた、同じ暗さを宿していることに気づけたかもしれない。だが、私がそれに気付いたのは、彼がボルヘスの話を始めてからだった。
「この辺りでいいでしょう」
と彼は不意に言った。
「この部屋なんていいんじゃないかと思うんですよ……」
え? ――と言おうとした私は、彼が開けた扉の中に引きずり込まれていた。
横方向に《落ちる》ような感覚。
重力の方向が変わったようだった。
何か巨大なものに掴まれて引っ張り込まれたみたいだ、とは、そのときは思わなかった。
5メートルほどの距離を私は《落ち》て――
壁面に《落ち》て叩きつけられ、そして、部屋の壁にそのまま押さえつけられた。両手足が壁から離れない。大の字に身体を固められた。首を、軽く絞められていた。
見えない何かに。
抵抗しようともがく。
だけどもがいても、私を押さえつけている力には敵わない。
閉じかけた目を気力で無理やり抉じ開け、ドアの方を――少年の方を睨んだ。
「超能力者…………?」
私は信じられない思いだった。
人間の心理的エネルギーを、物理的作用に変換する近代的研究は、ユングの弟子に当たるジョゼフ・バンクス・ライン博士がその泰斗と言われている(といつか冬目ちゃんに聞いたことがある)。
だけど、その実験でも物理的に作用する念動力の発現率は3割程度で、しかもその数値は水増しされたものだったことが分かっているはずだ。
実際には、超能力研究では、スプーンを曲げるとか曲げないとか、その程度の能力しか被験者に獲得させられなかった――そのはずだ。
少年はドアを開けたまま、ゆっくりと部屋に入って来た。
褐色がかった額にかかる薄い色の髪を揺らしながら、私に、その作り物めいた笑顔を向けている。
喉を締め付ける力が増す。
ぐ、ぐぐぐ、ぐ……と私は咽喉に力を溜めて、どうにか顎が上に向くのを押しとどめる。
「――――この、最低な、クソみたいな化け物がっ」
私は、死を覚悟して吐き捨てた。




