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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第1章 始動の夏
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1 / - 2 東春日井郡市 壹



「存在は不快を噛みしめなければならないのだろうか、寡鐘」


「そうかもしれない。俺は、不快だと言っているだけだ、先刻から」


 閘堂寡鐘は、曖昧に短く言った。

 自身の内面へ触れられるのを避けたがる彼の性癖が、次第に現れはじめていた。彼はその眉を沈鬱にひそめて、前方を真直ぐに見詰めたまま、寡鐘の肩にほとんど触れるほど近く寄りそってきた羽田野恭介を、振り向きもしなかった。

 二人の少年は自転車で並び、細い石畳の道を進んでいた。

 長かった水田の風景はすでに過ぎ去って、辺りは背の高い雑木林が続いている。(Зеленая)(я дорожка)と呼ばれるその道は、入鹿(イルカ)池という人工湖まで通じている。彼らはそこまで行くかどうか決めてはいなかったが、自転車を別の場所に向ける理由も見出すことができずにいた。


「なぁ寡鐘? ……存在は脳の所産だろうか。それとも、脳の働きになど還元できないんだろうか……」


 羽田野恭介が、そんな風に、高校生としてはなんの役にも立たぬようなことを言った。これに寡鐘は、しかし面倒そうな顔もせず、雑木林の鬱々とこもった啜り泣くような、あるいは、息を切らせて激しく喘ぐような音に、包まれながら返した。


「おまえは、そもそもどちらだと考えている? 恭介」


「そうだな、自我――意識や心、精神や、魂が……物質主義、いや唯物論というのか……脳内の物理的現象にすぎないと言われることが、じつは、あまり面白いと思わない」


「分かる気はするな。近年では、感覚性言語(ウェルニッケ)野やその周辺の連合野の機能を中心に据えて、人間の認知機能を解明しようという流れがあるらしいからな。しかし……」


 寡鐘は、たえまなく深い夏の層を、掻き混ぜる涼風に、柔らかく目を細めながら、


「それだと記述できないだろう、ひとつには、実感を」


 と言った。


「考えてみれば、進化論的にみたとき俺たちは遺伝子に生かされている、ともいえるし、肉体は遺伝子がよりよく拡散されるために働かされているだけだとも言いうる。が、しかしそのことと俺たちがいかに現実を生きているかは実はあまり関係がないんだ。俺たちの苦しみも、悲しみも、喜びも……あまりにもそんな視点では説明のつかないことばかりで、俺たちは、俺たちとはなんの関係もないはずの雲に愛情をもつこともあるし、俺達の実感に、遺伝子淘汰は持ち出せない。もちろん文化的な教化にだって、完全には還元しきれないだろうな。まぁ、それがどの実感なのかはわからないけど。もしそう考えるのが、それは俺たちがあまりにも矮小だからだというのならば、それはもう、宗教的な決定論思想みたいなもんだろうぜ……」


「…………えぇっと、そうかな……」


「脳神経の連なりが意志を決しようが、いかに現実を内的に《創造》しようが、その現実の《像》の実感はまた別のものなんだな。俺の脳が感じたこととこの俺が感じたことは、究極的には断絶しているんだよ。たとえ俺が《感じる》ことが究極的には脳による反応に端を発しているとしてもな。だから、脳は体験しない。俺が体験するだけで、脳は、その《体験》が稼働するための発火を与えているにすぎないんだろうさ……」


 自転車のタイヤが、砂の散らばった(Зеленая)(я дорожка)の地面をにじって進んでいた。

 黙考する恭介に、寡鐘は気楽な様子で続ける。


「……小説の仕組みに似ているよ」


「小説?」


「――彼は、彼女は、若者は、高校生は、中年は、老人は、鳥は、深海魚は、水は、幽霊は、脳は――と述べてみたところで、《私は》という体験的な記述――一人称単数には立ち至れまい。客観的な――三人称的な世界にも、何らかの表出や伝達のための信号といった、言語的ともいえるコミュニケーションは存在するだろうが、しかし記述したり論証したりするというより高度な言語の機能は、《私は》という個々の一人称的意識を通じてしか行うことができないと俺は思うよ。つまり、一人称的な心理世界を言語機能によって媒介することで、三人称的な物質世界の閉鎖性原理に働きかけることができるかもしれないんだな……」


「ああ、そうか、つまりその、寡鐘、だがそれは、所詮内的な経験の変質、ということでしかないだろう? それなら俺は、お前が、究極的には存在は脳の所産だ、と認めているのだと聞こえるよ……ふりだしにもどる、だ」


「それは最初の問いに反して、恭介が物質主義だからさ。科学的であることと唯物的であることは、違うと思うよ」


「いや……本気でいってるのか? それ」


「つまり、幻想の仕組みの話だよ」


「いや、《つまり》って――?」


「言語は因果関係の説明に終始するわけではないから、実際には一人称を形成する機能――記述と論証、すなわち話者の状態を示すものとして使用するのだけど、徹底的な唯物主義者や物理主義、徹底的な形成論主義者はこれをないものとみなして論を組み立てるんだ(・・・・・・・・・)。それは一人称――《私》がそう考えるということなんだが、彼らは人間の主観を物理理論の結果、文化によって形成された結果として捉える。意識や心理は、存在しないと仮定しているといわれても、仕方がないんだ。でもなぁ……」


「でも?」


「でもたとえ、心的過程の存在を認めて、それと一定の物理過程、あるいは文化状況にある種の同一性が存在すると考えたとしても、その両者は――つまり、存在は脳の所産か、それとも脳の働きに還元できないかと考える両者は、どちらも人間の心は、同様にこの世界は、本質的にこうである、と規定でき、またそうされるべきであるという思考停止に対しては、敢然と戦いを挑んでいる点で共通しているんだよ」


「えぇ? なんか話ちがわないか?」


「だから、というかこれは俺の考えなんだろうけど、俺たちは世界を記述するべきだし、論証するべきなんだ。手記を綴らなければならないし、書き留めなければならないし、内面化しなければならないんだよ、それこそ、宇宙を。これは存在の不快さを忘れてしまわないためにもさ。だから、これはこの世界が、幽霊屋敷――ある種の神秘を宿した密室的な館――であるとしたら、さて、如何なる幽霊を出現させるべきなんだろう? という問いとも、通じているかもしれないぜ……」


「――いや、まるで意味わからんて……小説の話はどこにいった?」


「そうでもないのさ。これは幻想に関しての話なんだから」


「あっは。幻想? 小説によって幻想が現れるってことかい?」


「ま、そういうことだろうな。この世――宇宙と言ったほうが近いかもしれない。あるいはこの次元、と――それらと脳は、《私》から等位にあるのだから、私の見る幻想は、いや、私の記述する幻想は……それは脳か宇宙によって発火していることだけは確かだと認めなければならないのだとおもうよ。つまり、世界は幻想を生み出すし、脳は幻想を生み出す。現実は夢ではないが、現実は言語の記述機能を介して夢を生み出しうる、ということは、これは俺は認めなくてはならないことだと思うね……」


 雲の動きが、その濃さに助けられ、まるで蠕動のように蠢いていた。風に自転車の上からふと南を振り向くと、天空へと聳える巨大な名古屋の《建造物》が、大気の中に白く霞んで見えた。

 今日も暑い。気温は37度を超えているだろう。

 風を受けても、やはり蒸れる。

 寡鐘はシャツの前を少しはだけさせる。恭介はその寡鐘の露出した胸元をみつめた。白いシャツに透け、首飾りのようなものが見える。体育の着替えのとき、すでに何度か見かけたことはあった。それはどうやら、3~4cmはある獣の牙に穴をあけ、水晶などと一緒に紐に通した物らしかった。二本の牙……大型の肉食獣のものだろうか、種類などは分からなかったが、それを見るたび恭介は、寡鐘の寒くて危ないセンスが、いつも少し、心配になるのだった。


「……現実が夢か、夢が現実か、といった議論は、では寡鐘にとってはナンセンス極まりないことになるんだな、それならさ……」


 恭介が、再び何かを話し始めようとしていた。


 だがすでに閘堂寡鐘は、もはや恭介の話す言葉が聞き取ってはいなかった。


 宇宙と脳が俺と等位に関係する、あるいは関係しないとして、では、俺の同一性は本質的なものだろうか? つまりいまここにいる俺と過去または未来の俺は、脳と俺ほどに離れていないと言えるのだろうか? とすれは、とすれば? 俺が夢を生みうるのだろうか。己をとらえているのは彼自身なのか。三千世界は自身という、地獄の檻なのか?


 彼の右手がハンドルから離れ、ふと、彼の胸に下げられた首飾りに触れる。


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