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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第2章 邂逅の塔
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9 / - 1 東春日井郡市 伍





   おもへばわが内には、かならずやわらがぬふたつのさがのあるらし、

   ひとつは神性(かみ)、ひとつは人性ひと、このふたつはわが内に、

   小休こやみなき戦ひをなして、わが死ぬ生命いのちくる時までは、

   われをませつからせ悩ますらん。


 

 ――あれが北村透谷の『蓬莱曲』で、神をも超える《大魔王》と青年が対決した山か、おうどうがねは9歳の夏、はじめて富士山を見た際そう思った。それは無計画な旅だった。ともかく彼は徒歩で旅をしようと考えた。生えると信じていた物が、額から生じ得なかったことが彼をそうさせたのかもしれない。彼は自分の額にないツノを山々にみていたのだろう。




   つらつらわが身の過去すぎこしかたを思へかへせば、

   光と暗とが入り交りてわが内に、われと共に成育おいたちて、

   このふたつのもの、たがひに主権を爭ひつ、

   屈竟の武器を装ひて、

   いつはつべしとも知らぬ長きうらみを醸しつあるなり。



 咲眞の分家だか檀家だかに引き取られた彼は、自らの養い手の顔もしらぬまま、ひっそりと独りで暮らした。だが閘堂という家は、手を尽くし調べてみればどうやら代々咲眞の当主になれなかった者が籍を置くだけの名目上の《家》に過ぎないという。つまり実際に彼を養育しているのは咲眞であり、主の存在しない家でいつまでもいなければならない。樹禰の持つ、この小さな匣から出られない。そんな彼が列島の各地を遊山するようになったのは、自然な成り行きであったやもしれぬ。幸い彼はツノこそ生えなかったが、身体はすこぶる丈夫であったのだ。


 そうして訪れた東京は、良くも悪くも常識的な街だった。

 そこは普通の首府であった。

 身近に、名古屋という混沌の都を臨みつつ九つまで育った彼にしてみると、東京で出会った驚きは、名古屋との差異とは、金銭に還元できうるものでしかなかったのである。

 愛知へ帰るために、彼は富士を遠くに見ながら山道を行くことに決めた。

 東京から内陸伝いに西へ行くには、表街道と裏街道がある。

 山道を東京からる三十里――120キロばかりで甲州裏街道は東山梨郡市に入り、やがて、上り下りに30キロずつまたがり、延々と続く、標高2000メートル級の難所へと至る。大菩薩峠(だいぼさつとうげ)――古くからそう呼ばれてある。尊いひじりがこの嶺のいただきに立って、東に落ちる水も清くあれ、西に落ちる水も清くあれと祈り、菩薩の像を埋めて去ったという。東に落つる水は多摩川になり、西に落つる水は笛吹川になって、いずれの流れも末永く人を潤し、田を実らせている。古代にはヤマトタケルが、中世には日蓮上人がここを通ったと伝わるが、はたして本当かどうか。


 だが彼は結局、大菩薩峠を通ることはなかった。

 彼は半分人でなかったがゆえに、遭難を恐れなかった。

 街道に沿って歩くなど、退屈そのものであり、彼は早々に方角だけを頼りにして、ともかく列島の山中を歩いたのである。


 夏の山には、あらゆる気配が満ち満ちていた。

 彼はまるで孤独とは感じなかった。すぐ傍の草が揺れて驚くほど大きな飛蝗バッタが跳び去り、鳥の声が遠く近く響いてき、遠巻きに、彼を伺う幾匹かの獣の視線を、常に感じるのだった。


 そうした深山の中で、やがて崖に行き当たった。

 といっても、五メートルほど向こうには、同じような崖があり、溝ができているだけのようだ。地面の切れ目のようだった。

 淵から見下ろすと、下には水が流れていた。

 小川だったのだ。幾度も曲がりくねっており、どこに向かうとも見えなかった。

 飛び越えて渡ることは、どうも難しいように思われた。橋でもあればよいが、と彼は思ったが、こんな人の来られないような場所に橋も望めまい。

 彼が幾度目かの迂回を考えた、その時だった。


 目の端に、橋が見えた。


「本当に……?」


 彼は駆けた。

 近づくにつれて、それが確かに橋であることがわかった。

 苔と黴に覆われた表面から赤みがかったものが透けて見えて、おそらく材質は朱に塗装された樹であろう、ということが窺い知れた。手摺りも何もない、ただ渡してあるだけの橋だ。植物の蔦が絡まって、吊り橋のような見た目にもなっている。


「これは、運がいい……」


 彼は富士の峰の頂を彼方に感じつつ、その橋の上に軽やかに飛び乗った。


 そして――彼は出会うまで、「生きている橋」の伝説を知らなかった。



 そこまで回想し、彼――寡鐘は目を見開いた。

 部屋の中は夜のため真っ暗闇だった。

 部屋では彼のほかに横たわって寝ている者がいた。

 怪我をしていた。


「――兄さん、憶えてるか?」


 と闇の中に声が響いた。

 どこから響いたものかわからなかった。

 7年も前のことを、出会った日のことを、その声は話しているのだった。

 彼もそのためにその日のことを、まぶたの裏に思い出していた。


「忘れる事などできないさ……」


 彼は、その「橋」に向かって囁いた。


 


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