8 / - 1 東春日井郡市 肆
英米仏、シリア攻撃――そんな大判の文字フォントが、パソックの画面に踊っている。
咲眞樹禰は高校の1-C教室で、その記事を読んでいた。
夏休みの補講も終わり、自習室の人数も増えてきていたが、誰も彼女が勉強道具を広げずに個人用情報端末筐体を起動させていることに注意を払わなかった。
彼女は普段からなんだか近づきがたい雰囲気で孤立しがちだし、それに、みんな自分たちのことで手一杯なのかもしれない。
それにしても、と樹禰はぼんやりと外を見ながら考えていた。
国際情勢を単純化して理解するのは不可能だし、危険――かと思えばこういうことも起きる。
アメリカ国防省によると攻撃は米東部時間午後9時ごろに始まった。ロイター通信によると攻撃には巡航ミサイルが使用された。キスロタ(Kislota)政権への攻撃は昨年4月以来となる。
「ふぅん……」
……同日夜(日本時間午前)、オネアレク(Onealec)首相はホワイトハウスで国民向けの演説にのぞみ、キスロタ政権による化学兵器の使用は「人間のやることはない。怪物がやる犯罪だ」と批判した。「攻撃の目的は化学兵器の生産や拡散、使用に対して強い抑止力を確立することだ」と説明した。
そうまで言っておいて、アメリカはソヴィエトとの対立を深化させたくはないという。国防総省は大規模攻撃はキスロタ政権を支援しているソ連を巻き込み、混乱を助長する可能性があると主張した。結果今回の軍事行動は限定的な内容になったという。
ゆるやかな、しかし確固とした対立だ。
《……樹禰様》
彼女がパソックの画面をフリックしたとき、メッセージが着信した。
《佳蓉? どうしたの……》
彼女は意外そうな様子もなく、そのメッセージに返事をタップする。
佳蓉は幼い頃から樹禰の世話をしてきた男性だ。
樹禰より10歳程度上だろうか。
《このごろお一人で、時折どこかへお出かけされているのは存じています》
彼は丁寧な口調でメッセージも書く。
今回のメッセージは短いセンテンスで途切れがちだった。
どこか言葉を詰まらせるようでもあり、どう話すべきか、迷っているようだった。
《弟様の、ことでしょう? しかし彼はもはやあなた様の弟ではないのですよ》
樹禰の双子の弟、咲眞寡鐘は8歳のある日、彼女の家を出て行った。それがこの家に代々守られてきた掟だったからだ。生まれた子どもが双子であった場合、7歳の時点で額にツノの生えていた方が次代の当主となる。
ツノが生えてくるのは、いつだって一代に一人なのだ。
それが何故なのか、それは彼女も知らない。
だが、身に染みて知っていることもある。
ツノが生えていなかった子どもは、家を追われる。
《わかっているわ》
樹禰はさらりと、澄まして答えた。
顔も、微かに笑っていた。
彼女は弟が家を出るとき、病院で手術して削り取ったばかりの自分の角を、彼に餞別として受け取らせた。そんな彼女が家を出た弟のことを、十年近く経とうとしている今でも気にかけているのを、いくらかの家の者は知っていた。そして最近、彼女が時折不自然にどこかへ出かけるのを、そのことに結び付けて考える者も少なくなかった。そのことに、樹禰だって気づいていた。
みな心配しているのだ。
それはわかっている。
わかっている。
だが、もちろん納得したことは、これまでに一度だってない。
樹禰がそうして《目覚めた》ころから、父親は耄碌としていった。
まだ四〇代にもなっていなかった。そしてもう、五年ほど前から父親の意識は戻らなくなり、病院で伏せっていた。そんな今、この家の次期当主である自分が、家に仕える者たちに不安を与えるべきでないこと、それは重々、承知している積りだった。
だが、彼女は弟には善意で接したかった。
彼女は素知らぬ顔をしながらも、弟を守護りたかった
弟がおかしな者たちと暮らし、彼が危険な目に合うのが心配だった。
彼女は、
《大丈夫よ。べつに何でもないの。弟は関係ないの》
と重ねて佳蓉にメッセージを送った。
彼は、それが嘘であると分かっているのだろう。
だが、それ以上の追及はせず、メッセージを送るのを辞めたようだった。
軽い罪悪感に一瞬首をすくめるようなしぐさをし掛けた彼女だったが、それをしたところで状況が変わらないのが確かだったので、かわりに肩をすくめることにした。
「……あら?」
中庭に面した窓際の席に彼女は座っている。
視界に、その中庭を横切る男子生徒が見えた。
二人組で、そして――ひとりは、見間違えるはずもない、彼女の《弟》だった。
「ふーん、お友だちと仲良しそうで何よりだわ……」
誰にも聞こえないくらいの小声で呟いた彼女は、二人が自分の視線に気づくかどうか、試すように見詰めていた。
なんだか、胸の辺りがもやもやする。
友達との会話に夢中で、自分にちっとも気づかない弟に、彼女は何だか面白くない感じがした。
「えいっ」
彼女は右手の人差し指で、パソックの横あたりの空中をデコピンした。
中庭の方を再び彼女が向くと、ひたいを押さえた彼女の弟が、凄い目でこちらを睨んでいるのが見えた。彼女は背中に快感が走るような気がした。
不意に黙ってしまった弟の様子に戸惑う友人くんに笑顔を向けつつ、彼女は、幼かった日の弟のことを思い出す。弟のことを思い出す時、彼女は幼い日に彼と見た、ポール・ゴーガンの絵画のことも、たびたび思い出すのだった。




