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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第1章 始動の夏
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1 / - 1 東春日井郡市 壹

 

 不気味な暑気が続いていた。

 最近の記録にはかつて存在しなかったと言われるほどの激しい、不気味な暑気。

 そのためであったろうか、自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起こった1984年の夏のはじめ――よく晴れた、ある蒸暑い日の午後のことだった――列島の中央に位置する濃尾平野で、次元を超えて響くことになる何らかの軋みが、胎動をはじめていた。

 例年、名古屋圏は東京に比べ雨が多かったが、今年は高気圧が、雲をどこかにやっていた。空は綺麗な群青をしており、雲は細切れになりながらその爽やかさの中を旅していた。


 東春日井(ひがしかすがい)は山と森の多い街だ。

 名古屋市のベッド・タウンである割には人口密度は薄い。

 効率のよい新装電池の開発と、衛星軌道上で発電された電力を無線で供給できるアメリカ製のシステムへの参入によって、燃料費のほとんどかからない電気自動車が普及したこの日本に於いては、名古屋のベッドタウンはより土地の安い、岐阜県多治見たじみ市へと既に移りつつあるという。


 夏休みの数学講座も終わり適度に気の抜けた午後の教室で、羽田野(はたの)恭介(きょうすけ)は話題を探すのも面倒な気がした。高校野球の話をしていたはずが、いつの間にか休み中にも登校しなければならない講座に対する愚痴が始まり、やがて受験とか、将来とか、何も考えていなくても口から零れるような話題へと、段々流れて変わっていた。

「だいたい、カボチャだろうが茄子だろうが、皮が一番うまいんだよな」と恭介はごちた。結局、みんな受験戦争の激戦区に突撃していくよりは、程よいところに落ち着きたいという気持ちがあるんだろう。――少なくともそう恭介は考えていた。もちろんそれは願望であって、周囲の状況と意見によって、どんどん抑制されていく定めなのだろうが、などとも考えた。


 高校2年の夏、受験は近いのか遠いのかよく分からない。

 彼はちらりと、隣に座る閘堂(おうどう)寡鐘(かがね)を窺った。

 彼は「そうか?」などと言いながらも「確かに林檎とかも、皮の方が甘いっていうな」と何やら頷いていた。

 彼は基本的に聞く側に回ったが、時々ものごとの本質を突くような鋭いひと言を漏らす時があった。恭介はそれらの衝撃に恐れながらも、そんな彼の面白さによって彼から離れることができないでいた。

 もちろんそれ以外にも彼が閘堂と友人である理由はあったし、彼にとってはむしろそちらの方が重要であったが、彼が普段そちらの理由を思い出すことは少ない。

 ふたりのいる2-B教室は2人以外にも生徒は多かったが誰も皆ゆるゆると会話しており、午後の夏に特有の鋭い光はカーテンで遮られ、むくつけき熱気はクーラの冷気によって中和されて、陽だまりのような居心地の良さを教室内に与えていた。この教室はいつもこうして控室的であり、ここでまじめに勉強が行われることはあまりなかった。勉強のしたい生徒は1-Cや3-Dといったような、北側校舎にあるような涼しく気の引き締まる部屋へ移っていく。


 恭介は教室の前に掛かっている円い時計がもうすぐ二時になるのを見て、隣の席の寡鐘に言う。「なぁ、もう下行こうぜ」「あん? もう死体喰おうぜ?」「はっ、下んねーぞアホ」高校の教室でクラスの同級生と話しながら、この場所でうとうとするのが恭介の日課になっていた。

 愛知県立東春日井群高等学校の夏期講習は基本的に午前までで終了するのだが、しかし生徒の自主的な勉学のために、こうして校内の幾許かの教室をエア・コンディションして午後になるまで提供しているのだった。


 恭介は、薄暗い北向きの階段を下りながらワイヤレスのイヤホンを片耳に填めた。

 校舎の外では駐輪場に陰を落としている背の高い竹ばやしが、夏の風に揺すられて独特のざわざわとした、しゃらしゃらとした、そんなどこか涼しげな音を立てて軋んでいた。

 彼の手に触れるタッチパネルは教室内の涼しさで冷えており、指先に心地の良い操作性を与えていた。その薄型の長方形をしたタッチパネル式の電子機器を見て、寡鐘が「それなに聞いてん? ウォークマン?」と恭介に訊いた。「いや、パソック」と恭介は簡潔に答えた。

 パーソナル・カーキュレータ。

 略してパソック――と呼ばれているそれは、日本におけるインター・ネットワーク端末としての1969年のサーヴィス開始から15年。現在では小学生にさえ普及するまでに至っていた。

 近年では電話機能までが付加されたため、さらに爆発的に普及している。

 彼らはパソック利用者の間で最近流行っているソーシャル・ゲームについて話した。彼らはまだ話題もあったことに驚いた。

 ならばわざわざ暑い中に出なくともよかったのに。


 ふたりは下駄箱で靴を履き替え、学校の中庭を通って自転車(ケッタ)置き場に向かった。

 日差しが皮膚を焼いた。

 恭介は手を額に当てて陰を作る。

 中庭は芝生と、その中にある赤煉瓦でできた囲いに仕切られた竹林しかない。

 あとは木陰の老朽化した、プラスティック・ベンチ。

 恭介は幽かな気配を感じ、ふと右を見た。

 さっと走り去る栗鼠。

 近くの山から下りてきたようだった。

 中庭の片隅にある木苺を求めに来たのかもしれない。

 彼はぼぉっとそちらに目を向けながら、口を動かしていた。 


「……去年の"時をかける少女"にも出ていたな」


「へぇ。俺が去年みた中では"ナウシカ"が年間ベストだったよ……」


「洋画か?」

 

 会話の途中で、寡鐘が不意に黙った。

 恭介は寡鐘が真正面の一点だけを見ていることに気づいた。

 彼は歩く速度を上げていた。

 急になんだ? と彼はその後に続く。

 その直前、彼はさっき彼がぼぉっと見詰めていた背の低い木苺の上にある窓から、ひとりの女生徒がこちらを向いていたのに気付いた。鋭い眼だった。

 彼女はその1-Cの窓際の席からこちらを見ているようだった。

 高校一の才媛と噂高い少女だった。

 地域の旧家の娘であるという。

 大和撫子というにはやや目つきが鋭すぎることを除けば、魅力的な容姿だった。


 ――咲眞(さきま) 樹禰(じゅね)


 彼はその場から立ち去りながら、彼女に見惚れた。


「……蜂がいた」


 寡鐘は、中庭の出入り口になっている渡り廊下で、恭介に言った。

 言い訳のようにも思えるタイミングであった。


「蜂、か」


 追い付いた恭介は答えた。

 恭介は寡鐘の顔を見ると、途端に樹禰の眼を思い出した。

 寡鐘はどこか、彼女に似た雰囲気があった。

 というより、そのものの眼を――というより、意識してみるとやはり随分ふたりは似た顔をしているように思えた。


「…………寡鐘は、双子か?」


 恭介は、寡鐘に尋ねてみた。

 ひとつの駆け引きであった。


「――――誰と」

「いや……」


 恭介は寡鐘の様子を注視しながら、やや深く切り込んだ。


「お前なんだか、A組の咲眞(さきま)に似ていないか? いやあそこまで、目つきは鋭くというか、色っぽくはないんだが……」


 恭介は肩眉を上げた。

 寡鐘は難しそうな顔で考え込んでいた。


「……やっぱり似てるか」


 恭介はその物言いにやや驚いた。


「どういうことだ?」


 寡鐘は困ったような顔で恭介を見た。


「いや、何というか、気持ち悪いなと思っていた」


 と彼は続けた。


「全くの他人に顔が似ているというのはまずそれだけで気持ちが悪いんだが、そいつが同じ学校にいるのというのはな、やはり、気になるというか、気持ち悪くてな……」


 寡鐘は、ちらと中庭の方に視線を投げると、困ったように微笑んでさらに続けた。


「自分でも似てるとは思っていた。だが恭介に言われるようじゃ、やっぱり似ているんだろう。ひとまず女子への自意識過剰じゃないのだとわかって、よかったがな……」


 恭介は、妙に納得する感じがしていた。


「べつに、深い意味とかがあったわけじゃなかったんだ。すまないな」


 恭介は、妙な独白をさせてたことを慌てて謝った。


「でもそうか。ならべつに、咲眞とは親戚でもないんだな……」


「そういう話は、聞いたことないな」


 寡鐘は、微笑んだまま、頭を掻きながらまた歩き出していた。

 恭介も、それに続いて歩き出した。

 竹林のしなる音が響く中庭から、そうしてふたりは立ち去る。


 恭介の先を歩く寡鐘。

 恭介から陰になった寡鐘の顔は、しかし、ひどい苦痛を耐えるような苦悶の表情であった。

 そして、どこか悲し気な目元をしていた。



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