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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第2章 邂逅の塔
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6 / - 1 名古屋市 貮



 端的に言えば、水槽の中には天使が沈んでいた。

 羽根のない天使。むしろその方が現実味がある分、より神聖な気もする。


「――ようこそ。元気そうで何よりだ、(そう)()(ひと)(かげ)

 

 まっさらな白地の、ワンピースのような服を着た天使は、声変わり前の少年のような声だった。 


「久しぶりですね、姉さん」


 獨景は応える。

 暗い部屋の中央には、円柱形の巨大な水槽が据えられている。

 薄緑色の液体が満たされ、液体自体が発光しているようで、水槽のみが明るい。


「君の、娘の様子は如何(どう)だい。元気にやっているかな?」


 姉さん、と呼ばれた天使は、ややうれしそうに顔を綻ばせて言う。

 彼女の長い髪が、水槽の中でふわふわと拡がる。

 髪の色は幼虫から脱皮したばかりの蝉のような、また皮をつるりと剥いた玉葱のような、透明感のある若々しい薄い白緑色で――。


「あなたなら、すべて知っているはずでしょう?」


「君から見て、どうなのか知りたいのさ」


 10代後半にみえるその女性は、髪と同じ色の瞳で獨景を見返しつつ、いたずらっぽく微笑む。彼女は最初に造られた《人たる器を破棄せし者シュヴィラト・ハケリム》――彼の育てている娘と同じ遺伝情報を持つ存在だった。今では脳の処理速度を利用されて、こうして積層都市の地下で情報制御装置の一端を担っている。常に膨大な情報を処理することで、開発途上の量子演算機の換わりを果たしていた。


 獨景が彼女の問いに答え掛けたとき、彼の視界の端に、何か暗い色彩のものが過ぎったような気がして、彼は、ちらりとそちらの方に目をやった。

 そしてそのまま、驚きに硬直した。


「おやこれは、これは……?」


 獨景は絶句する。


 水槽にはいつしか青く光る目の大きな魚が――四億年前の古代魚の生き残りが――泳いでいた。紫がかった厚いウロコで覆われた独特なフォルムは、どこか甲冑魚をも彷彿とさせる。学名はラティメリア・カルムナエ――発見者のラティメール博士の名前をつけたものだ。1938年にインド洋南アジアに近いコモロ諸島沖合で発見された「生きた化石」。「発見」される以前から地元の漁民は一本釣りで釣り上げて食べていたそうだが、脂がきつくておいしくはないという。


「シーラカンス……? 莫迦な、生きて運んできたというんですか、ここまで?」


 獨景は力強く、また優美に泳ぐその魚類を驚いて見詰めながら尋ねた。

 目の前の人物なら、それくらいできても驚くには値しないだろう。


「うふふ……驚いてくれてうれしいよ。だがね、こいつは積層(バビロニック)現実(・リアリティ)なんだ。この解像度では区別などつかんだろうがね」


「…………」


「この子はインドネシア産だ。1967年には、この種族はインドネシアにもいると分かったのさ。スラウェシ島マナド沖でつかまえた、3日前にね」


 円筒状水槽の中でシーラカンスにじゃれつきながら、天使は話した。


「電気信号でリキッドの制御もしているから、こうしてちゃんと感触もあるぞ?」


 うれしそうに彼女は獨景に話し掛ける。

 シーラカンスは8枚の鰭を機用に動かしながら、イヤイヤをするように彼女から逃れようとする。少女はそれを押しとどめるようにして、魚の頭部に腕を回して引き止める。


「――この子の脳はね、今特殊な演算機に繋がれているんだ」


「……そうですか」


 武骨なシーラカンスを抱えたままふわりと水槽の中央で逆さまになった彼女は、


「この子は今、デボン紀の地層からみつかった化石から再現されたダンクレオステウスという甲冑魚の認知機構と接続されていてね。本当の自分が、古代の海で最強の捕食甲冑魚なのか、深海でひっそりと暮らす肺魚の祖先の生き残りなのか、区別が付かないまま泳いでいるんだ……」


 うふふ……と彼女は獨景に笑い掛ける。


「泳ぎ方が変だろう? これは戸惑っているからさ。どちらでもあるということができないんだな。甲冑魚と言うのは超のつくほど巨大でね、サメでも襲うんだ。鎧のような外骨格で頭部から肩辺りまで覆って、武装していたらしいね。シーラカンスは確かに肉食なんだが、大きさは人間より大きくはならない。洞窟で休んで静かに深海で暮らすんだ。この子は揺れているんだ。だから泳ぎ方も、揺れて踊っているようにみえるだろう?」


「そのシーラカンスの、実際の身体は、今どうなってるんです?」


 獨景は静かに聞いた。


「棄てたよ。どうせ水族館にでも飾られるだろうね……」


 彼女はつまらなそうに答える。


「この子はいま脳だけになって別の水槽にいるよ。史上最強の捕食者と隠遁して暮らす深海魚を行き来しながらね……ただこの子には最高に幸せになれる脳内物質をどばどば溢れさせてあげているよ。それこそ脳が溺れるくらいにだ。私と泳ぐことで、この子は世界でもっとも幸福な死を迎えられる……」


 まさに天使のように美しい顔で彼女はそう告げる。

 獨景は眉をついっと上げながら尋ねた。


「どうして、わざわざそんなことを?」


 彼女は口端をにゅうっと釣り上げて笑って、


()()()()()()()


 と答えた。

 綺麗でしょう? と続けて彼女は恍惚として言った。

 

 獨景は暗い部屋の中で光に浮かび上がりながら踊るように泳ぐシーラカンスと彼女を遠い目で見つめ、やがてごく静かに、


「たしかに――とても綺麗だ。とても……」


 と言った。

 


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