5 / - 1 東春日井郡市 參
校門の外は、八月のぬめるような風が吹いている。
一歩出た瞬間から、羽田野恭輔の歩幅は急に狭まった。
普段の豊かな表情は溶け尽くしている。
まるで硝子玉のような目。
まばたくこともほとんどない。
そんな目で恭介は、濃い夏の中を歩く。
国道のある都市部には向かわず、ひとりで黙々と山野の方に向かい、歩を進めていく。
「――んじゃ、またあしたな」
と彼が数学の補習を終えてから、校内で別れた閘堂寡鐘のことも、すでに意識にはなかった。
補習の間には、何だかぼんやりと、彼のことが気にもなっていたし、それに何だかこの高校にいる誰かのことも気になっていた。だが、いったい誰のことを気にしているのか、どうしても思い出すことができなかった。
(…………何か変なんだけど、な……)
彼は夏休み中の補講なので日に何人も当てられないのをいいことに、机の陰でパソックを使いながら、どうしても思い出せない夜のことを思案したりしていた。
(妹が言うには出掛けていたらしいけど、そんな覚えはないし……)
彼はパソックで授業とは関係のないこと――新式の電子知性筐体のことや、どうしてなのか、この地域の郷土史関係のデータ――を検索したりして過ごしていた。
「…………江戸以前って、何の記録もないんだな、この辺って」
誰ともなしに呟いた彼の声に気付いた教師が、次の問題に彼を指名したことに彼が気づいたのは、三回無視された教師が声を荒げて、彼の方に近づいてきてからだった。
(……寡鐘のやつも、何か俺のこと心配そうに見てたな……何だろ、最近多い気がするが……そんなに俺ぼうっとしてるのかな? でも、そんなことより――)
彼は考えながら、額から滑り落ちる汗を拭いもせず、虚空を見つづけている。
熱でもあるかのようにふらふらとした足取りで、家とも違う方向へと進んでいく。
とはいえたしかに、濃霧が早朝に出ていたとは思えぬほどの暑さだった。
(――――あれを、直さんと……)
意識に登ってくるのは、そんな不明瞭な呟きのような言葉だった。
歩きながら、光を反射するだけのぼおっとした目で、恭介は口の両端をニイッと釣り上げた。不意のことだった。狐の化け物のような笑顔。首は左に傾き、そのまま顔はぐらぐらと揺れた。
裏山の、路もないような小高い山の中に、彼は押し入っていく。
自分の身体のことなどお構いなしに、とにかく木々を掻き分けていく。
小動物が驚いて、身を隠しながらそろそろと彼の様子を盗み見ていた。
夏服の半袖から伸びた腕が、みるみる傷だらけになり、爪は擦れて砕け――そして、勢いよく彼の腕が弾き飛ばした太い桑の枝がしなるに任せて軋み帰ってきて、その、たくさんの硬い実のついた鋭い枝先が、有無を言わせずに、恭介の柔らかい眼球を突き入り眼窩の縁に枝が嵌り込んで止まるまで、貫いていた。バキンッという、町工場でしか聞かないような破壊音が響いていた。
(…………ヴぁ……おぎぇ……む、…………)
脳組織までの、貫通――――即死だった。
即死のはず――だった。
だが彼の身体は、一瞬だけすべての力が抜けたものの、枝に頭蓋骨でぶら下がりながらも、すぐに凄まじいほどの痙攣をはじめ、そのまま、再びもがくように前進を開始した。
(…………あ…………あぁ…………お、…………)
もはや脊椎動物の反応ではなかった。
いくら強力な自己治癒力を誇るワニでも、頭を破壊されての歩行は不可能だ。
森の地面は豊かな腐葉土。ただ機械的に足を動かすだけの恭介の足は、ぬかるみに似た柔らかな土にのめり込んでいく。
(……げ、が、ご、がが、が、ががががが、ごがががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががが)
恭介はそれでも進み続けた。
脳神経がブチブチと切れ続けているため、身体は外界を認知することも出来ずに動き続ける。痙攣しながらもまだ、手足は「歩行」といえる所作を繰り返していた。魂なき歩行――反射によって起こる反射が、全身に張り巡らされた神経系によって繰り返される。
複数の神経節からの電気信号によって伸縮するだけの筋繊維は、ついに人体という構造物の限界を超えてしまう――すなわち、破裂。
ばつんっ
という音とともに、手足が風船のように弾けた。
そしてほどなくして、頭蓋骨も弾ける。硬い枝は頭骨を突き抜け、内側を抉りながら弾性により元の場所へと戻っていく。葉がふぁさりと揺れた。
遠くで、蝉の声が聞こえた。
ごろん、と地面に転がったのはすでに内容物があふれ出てしまった、器のような頭蓋骨だった。地面には、水溜まりが出来ていた。粘度の高い体液の溜まり。その中に身体だったものが散乱していた。骨格、繊維と臓器――そして、脳髄であった神経の塊。
しかし、それらは死んでいなかった。
すべての構造はピクピクと痙攣し続けていた。
それらは這うようにして中心に集まり、やがて、体液の中に混じり合って融け合っていった。太陽が少し傾いた頃には、鼓動が辺りに聞こえ始めていた。
(……あ、れ? 俺いままで、何を……?)
高校の制服が、下着とともに近くの地面に落ちていた。
彼は裸だった。どう考えても異常な状況だった。だが、曖昧な過去を思い出すよりも、彼にはやらなければならないことがあるのだった。
(はやく、あれの、もとへ……)
恭介はのろのろと服を着ると、また覚束ない足取りで、山のさらに奥へと分け入っていく。




