序幕 ―― Prologue
建築か革命か。革命は避けられる。
――ル・コルビュジエ「建築をめざして」より
地球は
火星よりも幸せだろうか?
――吉野朔実「愛の名のもとに」より
底冷えする闇の中には風もなかった。
外は不自然なほどに静かだった。
これでは宇宙空間とどこが違うのか、地球生まれの彼にはあまり分からない。
夜が更け、砂漠の温度は急激に下がる。
現在は生命のない寂寥の地……しかしその恒常性は、ひどく生命と似ていた。
一歩踏み出すたび、機体は赤茶けた荒野から少しだけ浮き上がる。
砂粒はきっと冷たいだろう。
だがその冷たさが、火星の血液なのだ。
◇
前方には巨大な《墓》が見えた。
――墓と思われる。
真紅の人工巨石建造物――前方後円墳。
オペラ色のピラミッドが八つ、等間隔に《墓》の周囲を守護するように囲っている。
その表面を覆う細かな穴と疵。
腐蝕の進み方からしても、相当な古さだと伺えた。
たしかにそれは数億年前に創られたものに違いない。
――マシンが嬉しそうに唸った。
彼も嬉しかった。
火星の北半球、アキダリア平原からは東に数百キロの地点、経度は0に近い。
今そこは、蝉の声も無いささやかな夏が覆っていた。
不意にマシンの歩みが止まった。
彼は訝しんだ。
ここまで来てどうしたというのだ。
早くあそこに向かわなくてはならないのに。
しかしマシンは空を見ていた。
機械の牙のぞろりと生えた口が笑っていた。
彼の視覚野に、望遠と拡大によって狭くなった視覚情報が次々と注ぎ込まれてきた。
彼はその情報のカクテルの中に、徐々に近づきつつあるあの、白い姿を認めた。
スイング・バイも行わず一直線に惑星間を移動し得る存在は、地球人類にとって未だ、そう多くはない。間違える筈もなかった――それもまたこのマシンの同族なのだ。
あそこには――咲眞 樹禰が、乗っている。
彼にはそれが分かった。
彼女への憎しみが、彼の胸に疼いた。
黒くドロドロと膨れ、熱く焦がす胸の鼓動がその姿を、破壊しろと叫んだ!
「――サ、キマァアァァアァァアアァァアアアァァァアアアアァァァァアアアアアァァァァァアアアアアアァァァアアアァァァァァアアアアアアァァァァアアアアアアァァアアアァァァァアアアアアァァァァアアアアアア………………!!」
絶叫はマシンの叫びとなり、火星の大気の底で長く尾を引いて彼方まで残響した。
マシンは身体を屈め、両腕で自分を抱きしめるようにした。
機体は巨大だった。
200mは優に超える。
見た目は鋼鉄の鬼か、悪魔か、あるいは刃物を体中から迫り出した裸体彫刻のよう。用途の分からない謎の突起物が体中から突き出し、"目的と効率"からしか物を生産しえない地球の近代工学からすれば、それは実に無駄の多いフォルムだった。
しかしこの怪物じみたマシンは、それらの理解しない何らかの目的の下に創られていた――彼は「それ」の意識に導かれるようにして、アリゾナの砂漠からここまでやって来たのだ。
うずくまって動きを止めた「それ」の背中は、見る見るうちに内側から喰い破られていた。
鋼鉄の皮膚の中から、巨大なツバサが吐き出された。
艶のあって黒い。
あたかも蝙蝠のソレのように鋭い。
背中から液体のように吐き出されたツバサは、マシンの全長などよりも大きく広がっていた。
ツバサの後ろに穿たれた裂罅の内が、徐々に蒼く色付いた。
「また邪魔をする気なのか、君は……!!」
彼は向かってくる白い機体だけを見つめていた。
その姿は次第と大きく翼を広げ、大気圏に迫った。
滑るように彼の元へと向かう仕草だった。
彼は――彼のマシンは――次の刹那、大気と大地から廻変され、亞光速にまで加速された代物を翼から放出し、瞬時に遥かな高空へまで打ち上がっていた。
ほとんど宇宙空間へ飛んだようなものだった。
火星の脱出速度を遥かに超えるスピードで、向かってくる白いマシンへと対決する。
最初の一撃は、彼女の首筋へと決めていた。
彼の視界の中で彼女の搭載されたマシンが、世界に存在する、いや世界に今まで存在し得たどんなカメラのズームよりもハイ・スピードで、自らのマシンと同じ大きさへと拡大し、衝突の瞬間、彼は渾身の手刀を彼女の首筋にブチ込んで皮膚を突き破り、その奥の柔らかく温かな機械組織を破砕し、握り潰しながら愛撫した。
衝突によって宇宙に存在するあらゆる力を捻じ曲げるように稲妻が起こり、それが様々に色合いを変えながらやがて真っ青な破滅の渦を火星の空に咲かせた。
二つの衛星狼狽と恐怖は消滅され、一帯は嵐が来たように荒れた。
しかしそれにも拘らず、地上に聳えている前方後円墳はより紅さを増し、いやむしろ、疵が減り、遥か古代の輝きを取り戻したようにさえ見えた。
四方のピラミッドは地上に自らと同色の紋章を刻もうとしていた。
円い光の紋章が前方後円墳を囲い、外に向け徐々に"成長"していく。
それを少し離れた丘の上から眺める影があった。
それは鴉だった。その目はどこも見ていないような、同時に世界のすべてを観ているような、あるいは、そんな全てをもう見飽きてしまったような、そんな不思議な眼をしていた。
二つのマシンの激突も、超古代遺物の覚醒も、それにはただ観察対象でしかないのだ、とでもいうように。
空気の揺れ――大気圏の奔流――がそこにも届いた。
それは津波のようなものだった。
ただの風ではない。大気それ自体が滑ってきている。「津波」がただの波ではなく、「押し寄せる高潮」であるためにあれほどの破壊を成し得ることと似ていた。いま、火星ではそれが大気レヴェルで起きているのだった。風速計では最早、捉えることの不能な流れが。
一瞬で鴉は、その大気の濁流の中に消えた。
丘さえ吹き飛び、消滅した。
だが次の瞬間には、先ほどまで丘の頂天であった領域が碧い球形の光に包まれ、再び姿を出現した。
叩きつけてくる塵も砂も砕けた岩も、流されては来てもその領域にだけは弾かれて。
そこだけに、時空に刳り貫かれた球形の壁があるかのように。
――その壁の内には少年の姿が見えた。
暗い色のローブを着ており、黒い髪は長く、艶やかだった。
少年の眼は何事も無いように、観察を続けている。
それは先ほどの鴉が見せたどこか、冷たい眼差しそのものだった。
《――鴉の群が舞い飛ぶ小麦畑のうねり。
どちらの空の青?
下の? 上の?
魂から放たれた晩年の矢。
つのる唸り声。せまる灼熱。
二つの世界――――》
彼は呟いた。
詩の一節のようでもあった。
鴉の羽根が舞った。
もうそこには球形の領域も無かった。
火星の真夜中に、ただ見遥かできる鮮やかな遺跡だけが輝いていた。
地面へと描かれた紋章はそのまま、大気中へと彷徨い出ようとしていた。
空へ、空へ、空に向かい、手を伸ばすように光が、大気を這い昇ってゆく。
それはまるで二つのマシンへと、縋るようでもあった。
まるでもうそこにしか、救いがないかのように。
「"アイ……オー……ン"」
大気を掻き混ぜるような嵐の中、声がどこからか響いた。
それは鴉から姿を変えた、あの玲瓏な瞳の少年の声であった。
*****
首筋が爆発したような痛みだった。
反射的に、彼女は眼を限界まで見開いていた。
それが出来ただけでも奇跡といってよかった。
激痛が――何にもかもを上書きする激痛が、全身を塗りつぶしていた。
首――そこにあるのは重要な繊維と管ばかりだ。
自らの脳髄、引いては生命を支えてきたそれら経脈が、ブチブチと引き千切られ、傷口から《命》が溢れるのを感じた。
これは――これは本当の私の身体ではない。
纏ったのみの機械の鎧のはずだ。
そんな思いは、無駄だった。
確かにそのとき、《私》の首筋は裂けたのだ。
咲眞 樹禰は痛みに失神しかけたが、同時にまた、いやに堪らなく覚醒する自分を自覚した。
彼の指先が、彼女の神経を引き裂いている。
塞がらない傷口が教えた。
確かに――彼はここにいるのだと!
耳の奥に聞える鼓動は早かった。
《彼》――閘堂 寡鐘の存在が、彼女の意識を繋ぎとめる。
彼女はマシンのコクピットで身をよじり、首筋を掻きむって身体を痙攣させる。
終わらない激痛のために、背骨を反り還し続ける。
樹木のような褐色気味の肌は上気し、彼女の身体が跳ねるたびに汗が飛散し、無重力の中空に球形になって漂った。原始の太陽系のような、あまりにも多くの虚空の球体。
それを見つめ続けることで落ちそうになる意識を繋ぎとめている彼女の眼から、涙がじわじわと溢れ出して頬を、醜く引きつった顔を徐々に濡らした。
頭は霧がかかったようだった。
呼気は乱れ、喉から発せられるのは奇声だけだった。
このままでは私は、死ぬ――彼女は死に物狂いでマシンを暴れさせた。
白い"アイオーン"の左翼が容赦のない力で黒い"アイオーン"の脇腹を殴打した。
同時に右手の手刀を、己の首筋に突き入れ続ける相手の腕に叩き込む。
数分続いた痛みの洪水が去った彼女の心に湧いたのは、安堵の気持ちと汗の冷たさ、また最低な疲労の中に於いて感じる、少なからぬ快感にも似た緊張であった。
骨の髄が軋み何かを求めていた。
彼女は浅い息をしながら、脈打ち蠕動するコクピット機械に半ば埋もれている、場違いにもつるつるとしたコンソール・タッチ・パネルを見詰めた。
そこにはやつれた自分の姿が映っている。
スカートに夏服のブレザー・シャツという高校の制服。
乱暴に肩口までに切り揃えられた、白い髪。
色のやや濃い、小麦色の肌。
高校まで一貫して"クール"と評されてきた彼女は、客観的に言っても、かなりの美貌といえる。
マシンが彼女の髪を白く変えた。
瞳の色さえ、今では血の色が透け、時には赤く見えるほどだった。
マシンが彼女を作っており、彼女がマシンを憑喰っている。
巣食っている。
しかし救われているのは、おそらくは彼女の方だ。
少なくともこのマシンが無ければ、彼を、この火星まで追ってくることなど出来なかった。彼を止めるチャンスなど、もう、ありはしなかった。目の前のマシン、漆黒の"アイオーン"には彼が、閘堂寡鐘が乘っている。
「莫迦な…………真似は、やめろ! 人類が、………………どうなっても……いいの、か……?」
彼女は必死に声を出した。
途切れ途切れの声。
声にもなっていないかもしれない言葉の粒。
だがこれでも、彼には聞えた筈だ。
痛みが速やかに引いてゆき、首が肉で満たされていくのを感じた。
首筋の傷が徐々に癒え始めていた。
マシンが彼女を満たすたび、彼女はマシンを充たす。
分かっている。
彼がこれくらいで、止まるはずがないと。
『――ジュネ。』
彼の声が聞こえた。
黒いマシンは十分な距離を置いて、彼女のアイオーンと正対している。
その姿はまさに悪魔か邪神。
醜悪な歩く太陽黒点であった。
対峙するふたりの右に火星が見えた。
赤茶けた星。
地球とは違って。
白い強大な渦が大気に巻き起こり、稲妻が走るのが宇宙からでも確認できた。
ふたつのマシンは火星の静止衛星軌道にいるわけでもなければ、星の重力圏から充分に離れているわけでもなかった。
それぞれのマシンが自らの推力パワーによって、無理矢理に火星と等距離で存在し続けているのだった。
太陽系内に生じるあらゆる力を物ともせず、双方が己の意思のみを貫いていた。
エネルギーの浪費というのは、結局は地球人類の生み出した思想に過ぎないのかもしれない。
『君には分かるまい。――人類よりも、大切なものが』
樹禰はまずその声の聞こえたことに安心した。
彼と言葉を交わすのは、あの洞窟以来だった。
まだ、わたしは彼の声を聴くことができる。
彼は、わたしに声を届かせようとしてくれる。
樹禰は自らの腕を彼のマシンへと伸ばした。
白い、色のない、呆けたような機械の腕も、同じように伸びているのが分かった。
その指先も震えているのがわかった。
瞬間、今まではどこに在るものかと、探しかねていた漆黒の機体の両眼が薄暗い宇宙空間の中で、灯り始めた。太陽系宇宙内では本来発しないはずの、生物にしか作りえないような緑色の光だった。
寡鐘は樹禰に向けて言った言葉を反復した。
今度は彼女へは聞こえないように操作して。
興奮の自覚があるにも関わらず、その声は静かに響いた。
彼の頭には、あの総矢 獨影の言った言葉が浮かんだ。
生命の死に絶えた惑星、優しい静寂の惑星、完璧な世界、――そんな地球が……。
彼は笑わずにいられなかった。
夢物語としてもバカバカしいではないか。
世紀末趣味の、三文小説のようではないか。
だが、と彼は思う。
結晶するとは物質の、夢ではなかったか。
時空の中で存在を、化石させないものがあるだろうか。
「地球の海はもう何も産まない……」
彼は呟いた。
眼は咲眞 樹禰だけを見ながらも、焦点が合っていない。
「……渇いた子宮だ」
彼は自分でも何と言えばいいのか、分からなかった。
だが地球はただ眠りたいのだと、もう終わりなのだと、彼女に教えたかった。いや、――彼女には、教えたかった。
「…………いや……子宮では、なくなっ……たんだ」
彼は首を振る。
こんなことが言いたいのか。
意味のない自問だ。
すべては独り言のようなものか。
彼は翼をはためかせた。
自分でも眼の焦点が、段々と合うのが分かる。
対決だジュネ…………。
きっと、俺が正しいから。
黒いマシンの翼が青く、色付き始める。
彼は両腕の手刀を構え、邪悪に、邪悪に見えるように笑んだ。
視界の彼女も――白いマシンも、翼に力を溜め、瞬時に両腕を上下に大きく広げる構えを取った。
なぜ、地球だけがあれだけの業を、背負わねばならないのだろうな。
彼は自分でも聞こえないくらいの声で、呟いた。
次の瞬間には、火星の重力が本来支配するべきその場において、闇と光の対決の幕が、切って落とされたのである。