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AppendixEE  作者: 檀敬
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第四の扉◇救世主の光

 宗教色で言えばこちらの方がずっと濃いはずなのですが、こちらの方はゲストキャラが超メジャーなので逆に濃度が薄く感じてしまっているのかもしれません。


 この第四の扉はまず、ゲストキャラからの紹介から始めましょう。


 この扉のゲストキャラである「イースー」とは、言わずと知れた『イエス・キリスト』であり『ナザレのイエス』であります。この人物についてのことは多くを語る必要はないと思いますが、この扉での「イースー」の立場は、宗教上のそれとは全く違って完全に揶揄しています。その辺りのお叱りやツッコミなどは一切受け付けませんので、よろしくご了承してくださいませ。

 こちらも出来るだけカモフラージュしようと、ググりにググって検索しました。しかしながら、他に揶揄した名前というのはなかなか発見できず、精々「イイスス」という訛りを見つけただけにすぎませんでした。

 それではと、重ねた文字を長音で伸ばしてみようと文字を打ってみるとなかなかの語感。というよりこの文字面を見てパッと閃いたのが、ドドさんが発する一発目のギャグ『麻雀ネタ』でした。それがやりたいがためにこの名前を採用したといっても過言ではありません。


 次に、この扉のテーマとコンセプトへと駒を進めましょう。


 テーマはもちろん『光』で、教義ではないようですが世俗的に有名な「神は光なり」の言葉と、相対論や量子論における「光」という素粒子がひどく特別な振る舞いをすることの二点を中心にしてストーリーを展開しています。端的な言葉でまとめるとこうなります。


「物理的な光の特殊性とイエスの存在」


 この扉の作風としては「問答形式」を採用しています。やっぱり、宗教絡みですから問答形式がお似合いだろうという勝手な思い込みですが、当たらずも遠からずで「流れ」としては非常に良かったのではないかと自負しています。しかしながら、僕自身がそれを上手に書き分けることが出来ていないので「問答風」とは言えないシロモノになっているのが「玉に瑕」かなと思われ。ゲショ。


 実はこのストーリーを書くに当たって、またしても僕には原風景がありました。それは、星野之宣の『妖女伝説・第二巻』の第二話「砂漠の女王」の後半、サロメとイエスの部分です。

 その中で、サロメに乗り移ったクレオパトラへ、イエスはこう語り掛けます。

「神は光なり」

 キッとした顔になったサロメがイエスにこう詰め寄ります。

「光は影を生むわ!」

 陽の光を背にしたイエスはあくまでも言い切ります。

「私の言葉は光のように広まっていく!」

 それでもサロメは言い返します。

「お前の言葉はますます憎悪を生むわよっ!」

 ネガになったイエスは静かに言葉を発しました。

「神は救世主と悪魔をお使わしになった。選択は人々の自由だ」

 サロメはハッとして、陰で顔が見えなくなったイエスにこう言います。

「お前は……まさか!」

 ずっと気になっていたこの問答を自分なりの解釈でストーリーを紡ぎたい、というのが動機でした。しかし、この問答だけで「お前、ホントは悪魔なんだろ?」なんていう話をでっち上げるのは、いかにも野暮だし、宗教的反発が怖いし、第一に相対論や量子論の裏打ちがないどころか、物理との絡みが全くない話になってしまいます。


 そこで、またぞろネット検索のお世話になることに。

 ググったところ、さすがにウィキペディアでは検索されなくて、キリスト教やユダヤ教の関連サイトをググりまくりました。そして、どうにかこうにか「第一ヨハネ書」を記述したサイトがありました。それの第一章・一の二「光に歩め」という部分に以下の文言が書かれていました。


『私達がイエスから聞いて、あなた方に伝えるおとずれはこうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない』


 これを読んだ途端に閃きました。「ナザレのイエス」をモジった「パシリのイースー」を。

 尊大な教祖をこのようなカタチで卑下するのは如何なものかとおっしゃる方がいらっしゃるでしょう。確かにおっしゃる通りです。ですが、萩尾望都のコミック版「百億の昼と千億の夜」では、イエスの存在や人物像が「街のチンピラ」風で描かれているのに衝撃を受けて、以来ずーっとそれを鮮明に記憶している身としては、これも有りだろうと思うのです。(光瀬龍の小説版は未読のため、そちらでは確認していません)

 これは何もイエスに限ったことではないですけれども、こういうことをやってみたい欲望があったというのが、偽らざる僕の正直な気持ちです。


 これを基にストーリーを構築しました。僕なりに解釈したストーリーコンセプトは以下の通りです。


『神は光で、光は影(悪魔)を生むと思いがちだが、実はそうではなかった。確かに、神もイースーも光である。だが、神の子であるイースーは「光そのもの」であって「光源」ではない。光源は神であって、イースーの役割は、神の意向を伝えるただの「伝令」ではないかと』


 こうなると、相対論や量子論の土俵に載せやすくなりました。何しろ「イースーは『光子』である」と定義したのですから。「神の子であり、人間である」というのも「粒であり、波である」と解釈出来るし、粒子と粒子の衝突で光子が出るという話も二千年前のゴルゴダの丘での出来事に例えることが出来そうだし、1Cの速度で宇宙を走り回るけれど、その教えが歪曲されるのは重力による時空の歪みで簡単に曲げられてしまうことと同義だとか。

 こんな風にいろいろと考察することが出来たのに、この話の最後をどう決着させるかということにおいて、量子論のことでイースーが尻尾を巻いて逃げるという在り来たりな方法論を採用したのは不味かったかなという想いはあります。それでも「神様は『すーぱーすとりんぐ』だった」という設定で、イースーは「神の子」なので神に教えられたことしか伝えられないと解釈すれば、このオチも有りではないかと思い直しています。


 正直なことを言うと、もう一人のキャラを登場させたかったのです。それは、バプテスマのヨハネ、通称は「預言者ヨハネ」と呼ばれる、もう一人の救世主であり、イエスを洗礼しサロメに首を切られる男です。星野之宣の『妖女伝説・第二巻』の第二話「砂漠の女王」の中でもイエスとは対照的に描かれていて、その鮮やかさは美し過ぎるとさえ感じていました。

 ところが、このヨハネを相対論や量子論的にどう絡ませればいいのか、サッパリ思いつかず。今思うと、このヨハネを「ヒッグス場」に見立ててもよかったのかなぁと。でも、鮮やか過ぎで短命過ぎるヨハネには、また別の機会で登場を願おうと思った次第。でなきゃ、この扉の話は長くなってただろうなぁ。


 この扉の追記として、影云々の記述のところで、ドドさんが何かを言い掛けてイースーに「道具ではない」と一喝された部分については『裏設定』にて公開予定です。

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